今日も彼を弔いに、劇場へ足を運ぶ。
⚠️この記事は呪術廻戦9巻までのネタバレ,映画のネタバレを含みます。
呪術廻戦0を6回も劇場で観た。人によっては少ないと感じるかもしれないが、私は同じ映画を2度も映画館で観ない主義なので、回数というより単純に自分の主義に反した行いをするほど取り憑かれたという点で特別だったのだと言える。なぜ結末がわかっていて、映像も目に焼き付いているのに何度も繰り返し同じ映像を観に行くのか。上映から9ヶ月経ち、ようやくわかってきた。
第一に、
私は、夏油傑の死を未だに受け入れられていない。
自分の倫理観において、あってはならないこと、あるはずのないことだからだ。
私は、おそらく平均的な位置より少し過剰に「若者は守られねばならない」と思っている。守られなかった若者が外した道の先に待っているのが、フィクションの世界では大体にして「死」であることを受け入れられないと当時に、だからこそ彼らに魅了されてもいる。あってはならない、許せない、という感情と相対して、彼らが大人や社会に翻弄されながら逸れた道なりに自己を形成し貫く姿を、美しいと思ってしまうことに大人として罪悪感を抱く。ごめんね、と思いながら愛している。
守られる対象である夏油傑が、夏油傑と五条悟が、人の命以上のものを預かる任務を任されたこと、そこで判断を迫られたこと、そして、守れなかったこと。
あまりに残酷で、本来であれば、10代の少年が、いかに体術に優れていようと戦い慣れしていようと、負うべき責任ではなかった。彼らがそれを背負わざるを得なかった環境にも憤りを感じるが、環境というのは簡単に変えられるものではない。1番もどかしく、当事者を思うと切ない気持ちになるのは、彼らに対するアフターケアがなかったことだ。いや、描写されていないだけで何らかあったのかもしれないが、少なくとも十分ではなかった。そのことが、五条悟が1人(=最強)になろうとしていったこと、そんな彼に触発されるように、別の意味でまた1人になろうとした夏油傑がいたこと、そして、彼らに何かしてやれたのではないかという夜蛾先生の後悔を生み出してしまったのだと思う。そしてその後悔は、我々読者(視聴者)に伝播する。「あの時ああしてやれば」「あの時声を掛けられていれば」「あの時1人じゃなければ」夏油傑は親を殺さずに済んだのではないか。呪術が使えない者は猿だという蔑み。非呪術師に対する不信感。その不信感に基づく、自分がやっていることに対する疑問。正義とは何なのか、という正義感が強すぎるが故の問。これらは、強烈な体験と夏油傑自身の特性に基づいており、周りがどうしようと避けては通れなかったと思う。ただ、自分の行いを信じられなくなった時、命を賭して守る対象に不信感を抱いた時、それが嫌悪や侮蔑に変わった時、どんな行動をとるかは、周りのサポート次第でどうにでもなった部分だと思うのだ。だから、「止めてやれなくて辛い」という感情が湧く。
夏油傑の抱いた嫌悪や侮蔑は、彼の経験したことや性格からすると理にかなっており、理解が出来る。一方でやっていることはめちゃくちゃで、何故、そんなにも飛躍して、突然に、と幼さを感じさせる「らしくない」道の踏み外し方をする。
ここからは持論だが、人間は迷いや不信感がキャパシティを超えた時、冷静に判断できない。冷静に判断するためには、その迷いを、不安を他人に吐露することがどうしたって必要になる。歳を重ねた人の中には、自分で冷静になるまで判断を先延ばしたり、感情と思考を完全に分離して冷静な判断ができる人もいるだろう。しかしそんなのはごくわずかだ。特に10代の少年には難しい芸当だと思う。
五条悟もそれを感じたのではないだろうか。どうすれば傑は道を踏み外さなかったのか、傑に何をしてやれたのか、考えた結果が彼の教育理念なのではないか。環境という根本を正すことを目標に掲げているが、「強い仲間を作ること」の中には夏油傑のように迷い、不安になった時に仲間を頼れること、1人で決断してしまう呪術師を生まないことという意味が含まれているのではないかと私は解釈している。強い=個人のキャパシティが大きい、例えば乙骨のような人物を育てる意味ももちろん含まれてはいると思うが。彼も1人でああなったわけではなく、仲間のもとに放り込んでくれた悟がいたからこそ、強くあれたのではないか。そして皮肉にも、大義を掲げた夏油傑を「仲間を守るため」=「自分のため」に倒した経験が彼を最強に近づけたのではないか。
話が逸れたついでにもう一つ。
道を踏み外してからの夏油傑が活き活きとしていることも、辛さを際立たせ、一方で救われる。彼はこうある運命だったのかもしれないと、そんなことは全くないのだが一時的に錯覚させてくれるのだ。別に、道を踏みはずさずとも輝ける未来はあったはずだし、それこそが「あるべき未来」なのだが。志を同じくする仲間を持ち、壮大な計画と、それを達成するための綿密な戦略を練り、着実に実行していく。ある時は、勝負に出る。なんだよ、普通に夢を追いかけて、仕事を楽しんでいる若者じゃないか。(筆者、そろそろ泣きながら書いています、すみません。)
彼は、人の命を奪うという罰されるべきことをしたし、いつか罰してもらえるとわかっていたからこそ、善悪に対する思考を放棄して今を思いっきり楽しめたのかもしれない。そうわかっていてもやはり、彼の死は悲しく、受け入れ難く、「あってはならないこと」として私は今日も未だ認識を拒んでしまう。死…..?ぬはずがないだろうが……….?????
今日もまた彼が生きていることを確かめるために、劇場へ足を運ぶ。もう公開は終わってしまったけれど、未だに「呪0を見なきゃ」と思う瞬間がある。
私にとって呪術廻戦0は、夏油傑が生きた証であり、彼の死を少しずつ受け入れるための儀式のようなものなのだ。
第二に、
五条悟の強さに、救われに行っている。
私は、あの強さは意外と人間味のある強さだと思っていて、それゆえに彼が強くあることは私のような凡人の支えとなる。
具体的な作中の描写からというよりは「逆夢」の歌詞からそう思ったので、本当の五条悟は私が思っているよりもっと葛藤や苦悩をすっ飛ばして、人外的な強さを持っているのかもしれない。
(筆者、歌詞を引用しようと逆夢を流して号泣しています、すみません。)
サビで繰り返される「あなたが望むなら」という歌詞から、ああ、五条悟も夏油傑の死を受け入れられていないんだなと、自分と彼の感情が一瞬リンクしたように感じる。別に傑はもう何も望んじゃいないし、望むことはできないのに。こうすればお前は死ななかったかな、こうすればお前は側にいてくれたかな、という後悔や過去の話というよりは、こうすればお前は帰って来てくれるかな、という未来の話を続ける歌詞。
善悪の指針だった傑の様に、自分も胸を刺す様な痛みを通して何者かに成るべきなのだろうか。大義を見つけるべきなのだろうか。そうしたら、あなたのいない辛い夜を乗り越えられるだろうか。あなたの不在に一生苦しみ続けるだろうか。
そう葛藤しながら、記憶の中に傑を生かし続け、それによって苦しんだとしても変わらず傑を善悪の指針とし、彼をなぞるように大人になりたいという「まだ子供である悟」の言葉のように感じた。だから、彼がこの時の決意を、迷いながらも進もうと思った道を進み続けてくれていることに勇気をもらえるし、殺した側も殺された側も苦しいだけではなくて、苦しみも丸ごと受け入れて愛をもって同じ光を目指しているのだと思うと、少しだけ救われる。
五条の決意に救われる、逆夢を聞き、擬似体験的に自分も一緒に決意を新たにすることで夏油の死を受け入れる。
私にとっての呪術廻戦0は、毎回そんな終わり方をしていたように思う。
以上、長くなってしまったが、何が言いたいかというと呪0は一生劇場でやっててくんねえかな頼む。(遺言)
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