コロナという現場
本日は、土気の本休寺と善徳寺が掃除日。茂原とは違い両寺ともに全檀家参加で行いました。本休寺と善徳寺を行ったり来たりしながらすごしましたが・・
コロナで感じるのは、コミュニティよる温度の差です。茂原は全檀家参加の掃除はできませんでした。役員さんのみの掃除でしたから…どちらが良い悪いでなく違いとしてです。
ただ、土気のお檀家さんが個人として皆が安心していたか?というと違ってマスクをし、ソーシアルディスタンスをそれなりに守ってはいる。今の状況に関しても関心がある。
となると何が違いか?
茂原はサラリーマンエリア、早くから企業進出がありサラリーマン化している。東京との行き来があるということかな?
土気で私が住職しているエリアは比較的古い村であり、農家が多い。近くにベッドタウン(あすみが丘)があれど…。
多少は東京を行き来する人もいるが…高齢社会で農家エリアは人間の往来が少なく、安心感が高いのかもしれない。
個人とソーシアルディスタンス
コロナによって引き起こされたのは、個人と家族の密接化と社会との距離感ではないだろうか?
同居をする家族は家族間感染が起ころうとも、基本信じて過ごすしかない相手である。もちろん感染対策は各家族で行われているとは思うが・・・。
地域社会との関連は、違いが出ている。心理的なものがあるのであろうが・・・先にも示したが、高齢者が多く、現在はほそぼそと農家という人々は移動する円が小さい。せいぜいスーパーマーケットという感じであり、東京まで往来する人は少ない。(スーパーの込み具合もまたすごくて、午前中は怖いと嫁さんは言うが・・・)目に見える範囲でお互いが存在している。そこには、エリア内への信頼関係がある程度あるという事なのだろうか?
一方で移動距離が大きくさらに、農家が少ないということは、目に見える範囲に存在しているとしても、見えない部分がよりあることになり、不安が生じるのかもしれない。
現前僧伽と四方僧伽
釈迦の仏教では、目の前の共に修行する現前僧伽と場所は違えど精神は理解し修行する四方僧伽の二種がある。現在で言うならば、オフラインで目の前で関わるのとオンラインでの関わりの二種が見えてくる。
ここでもどちらが上とか下だとかの関係性はない。強いて言えば距離の近い遠いしかない。寺院は地域の中に存在しているので、現前僧伽を重視する。一方で、住職は研修を行う場合は、地域性を問う必要は少ない。善き講師であり、zoomを使えるなら場所は関係が無くなる。
見えてくるもの
これからの社会のあり方として、今起こっていることを明確に理解すると、小さな生活エリアの方が、コロナという事態になると強いということなのだろうか?だとすれば、農家の復活は、自給率の向上である。それとともに共に生きていると実感できる相手が増える〈農家になる人が増える)ことであり、今以上に安心安全な社会に近づくことになるかもしれません。
一方で、情報交換や研修は世界につながることになり、研鑽はしやすくなったし個人個人の情報格差が広がるであろう。また、社会貢献のあり方も地域とは限らない。ネットワークを考え設計することで社会全体、世界全体に有意義な活動になりえるかもしれない。
いづれにせよ、コロナや環境は我々人間の都合に基づいてはくれない。環境に合わせ生き方を考える、働き方を考える必要があろう。