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車のなかで

昨日は、朝から上茂原妙光寺にて、総代さん達と会議があり、車で移動。移動中は、このところ、テンプル・モーニングラジオとヴォイシーのキンコン西野のラジオを聞くのが普通になりつつあります。昨日、聞いていたのは・・これです。

いやー、思わず興奮しました。プラユキ・ナラテボーさんとは・・。これから一週間楽しみだし、心を豊かな一時を頂けると素直に思います。

何度か東京で行われている。瞑想会にも参加しました。プラユキさんは手動瞑想という特殊な瞑想を用いて、心の中で気づいて戻すを促し、内的成長を促すことをしています。

なにげにファンなんで、著書のほとんどを読んでいたり・・(笑)素直に尊敬してます。

マインド・フルネス

ものすごく、頭がよいのもありますが、眼差しやあり方、考え方が、執着が少ない。

また、昨今、マインド・フルネスがもてはやされているところがあり、人によっては1日2日の研修で指導者的なことをされている方もいるようですが・・。プラユキさんの瞑想会に出るとこの境地に達して指導されていると感じると・・人が来るからとか、寺に来てもらいたいからという理由でトレーニングもロクにしないでやってはならないとわからせてくれた存在です。

慈悲の瞑想

賛否両論あるでしょうが、マインド・フルネスの中で慈悲の瞑想というものが用いられることが多いですが・・。実は私はこれが胡散臭いと感じていました。

日本に一時帰国するようになって、慈悲の瞑想を実践している人に話を聞いたら、「すごく心が楽になるからやっている」というように答えられた人が複数いました。それを聞いて、なんか少々自己本位な慈悲の瞑想になりすぎているのではないかな。でも本来慈悲って人のためにやるもんじゃないの、と感じてしまったわけです。慈悲は唱えるよりも、現実に慈悲を実践することのほうが大切でないのかと。タイの開発僧も、そうした姿勢で活動しています。「慈悲とは生きるものであって、祈るものじゃない」と。私自身はそういったことを、開発僧の先生方から学んできたのです。(95頁)

このプラユキさんの文章を読んで、自分の感覚が正しかったと改めて感じました。

本物を見るということ

先にも書きましたが、自己の都合で人間は、出来もしないこと、ロクにトレーニングしていないことを適当に口でごまかしやってしまうことがあります。

このように言う私だってプラユキさんの瞑想会に行かなければ、自分の寺でマインド・フルネスといったイベントをやろうとしたかもしれません。

でも、本物に会う、見るとそんな気持ちは吹き飛びます。修行法はさまざまありますが、あの境地に行き着くんだと感じると、仏道修行の深さと似非にならないことが大切だと感じさせてくれる存在です。

一週間楽しみだー。



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