ポストレリジョンとウイズコロナ
お施餓鬼とお盆の感想を書きながら、つくづく思うのは、時代の変化だと思う。
自分自身はスーパーパワーの「信」を説かない、説けない僧侶である。仏教でいう「滅」すなわち欲望を上手にコントロールを目的とする生き方を肯定する考え方に立っている。故に檀信徒も強烈な信仰心の方が集まらない。
ただ、だからと言って自分のルーツや先祖を否定していないし、その方々の叡智に感謝しているし、輪廻転生も肯定している。
スーパーパワーは、信じているとは言えないが、四苦八苦や輪廻転生は信じている。
となると常に自分の欲望や欲求と向き合うことになり、考えたくもない「問い」と向き合うはめになる。だれかや何かにすがりつくや任せるではなく、問うとなる。すがりつくや任せるが宗教というなら、大乗仏教の多くはそれになり、釈迦の仏教は宗教でなくなる。いわゆる実践哲学に近い。
そして、自分は…どちらかというと釈迦の仏教をメインとしていて、法華経を信じる宗派としては任せるでないので異端なのかもしれない。それでも末木文美士先生の『仏教VS倫理』などを読み、自己の矛盾点を氷解させてくれる経験により今が成り立っている。
このノートでも述べてきたが、ブッタという人を絶対視するのでなく、ブッタの説いた法を大切にする。ブッタだって人間故に間違えるかもしれない。ブッタすらそのようにみるなら、宗祖も同じ。自分の人生の中で立ち止まり、考えることが常に必要となっている。
だからであろうか、何教だからとか何宗だからとかはあまり気にしていない。自身は日蓮宗で、お題目を唱えるが、他宗の信仰を否定しない。ただし、自分の都合でなるべく物をみないように、一端損得勘定を停止して物を見ることに心がけている。
すると見えてくるのは、何教、何宗という視点ではなく、何を大切にしてきたのか?これから何を大切にしていくのか?が問われているように思われる。自坊で言うなら、死者との関わりを大切にし、声なき声を聞き、自身の人生に活かしていく。「死者と生きる」の考えを大切にするのだと思う。
死者を大切にするためには、死者の思いを大切にする。大概死者は、今を生きる生者とくに親族により良く生きていってほしいと願っていると思う。とすれば、今を生きる。丁寧に生きるは死者の願いでもあると思う。
ウイズ・デス?
これを宗教というべきか?は不明だが、個人としては「何かにすがりつくや任せる」ではなく、脱宗教的(ポストレリジョン)なものではないか?と考える。
一方で、今まで隠されていた「死」が顕在化したのかも?と感じる部分もある。ファクトの部分では、必ずしも「死」が意識されるものかは、検討の余地があるが、人の認識においては意識されている
https://www.facebook.com/561609637376736/posts/1521750764695947/
ワクチンができるかできないのか?はわからないが、コロナへの恐怖が存在し、それぞれが意識している。マスク、手洗いは日常化し、ソーシアルディスタンスは常に意識されている。
もし、今回のワクチンの開発でコロナを克服できたとしても、コロナは変化し、違うコロナが人間世界に現れてくるのではないかと考えてしまいます。
そういう意味で死を意識する。視界にいれる。そのことで、今を生きる。悔いなく生きることが促されてもいる。
そこにあるのは、人間性も含めた納得であり、「死」への準備の必要性でもあろう。死に近づく故に、今を全力で生きる。ポストレリジョン、ウイズデスの世界に居るということではないだろうか?