「望月の歌」
望月とは満月のこと。
藤原道長は望月を見上げながら歌を詠む。
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の
欠けたる事も 無しと思へば」
大河「光る君へ」の「望月の夜」の回。
3人の娘がいずれも后の地位に就いた。
何も欠けていない我が世のときだと
自分の栄華を詠んだ高邁な歌と言われてきた。
果たしてそうなのであろうか?
藤原実資の「小右記」には単なる座興の歌だと。
では、この歌をどう解釈するべきなのだろう。
「光る君へ」の次の回「はばたき」で
四納言が集まった際、藤原斉信が歌の意味を問う。
「昨夜の道長の歌はなんだったのだ」と。
意味のわからぬ実資は返歌せずに唱和を呼びかけた。
源俊賢は「栄華を極めた今、何もかも思いのまま」と言い、
藤原公任は道長は人前で驕った歌を披露する男ではないとし、
「今宵はまことによい夜」と軽い気持ちで詠んだと解した。
藤原行成は「月は后。3人の后は欠けてないよい夜」としたが、
斉信は3人の解釈に首を傾げ、「そうかなあ」と呟いたのだ。
斉信は道長の歌を「恋の歌」と解釈したのだろうか。
元々道長のこの歌は藤原彰子が皇子を産んだときに
まひろが詠んだ次の歌の返歌として描かれている。
「めずらしき 光さしそう盃は
もちならがらこそ 千代もめぐらめ」
道長が歌を詠んだときにまひろと目が合っている。
お前だけは俺の虚しい気持ちをわかってくれるのだと。
まひろは物語で人の一生は虚しいものだと言っていると道長、
どれほどの権力や地位を得ても人生は虚しいのだと。
とすれば、この歌は道長の無常観であったのかもしれない。
<月は欠けてはいなくとも私の心は虚しいのだ。
愛するお前と一緒になることもできず、
栄華を極めた私の人世はなんだったのだろう。
心の望月はすこしも満ちた月ではないのだ>
ラブストーリーの名手、この大河の脚本家、
大石静はそう言いたかったのかもしれない。