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【カタリ】最終章_棚絵 奏(たなえ かな)

第6章_それぞれの破滅<<

■家を出る

 それから奏は、派遣会社を介して、契約期間が1カ月ほどのアルバイトを繰り返していた。しばらく自分の言葉で人と話すのが怖かったので、エステの電話受付や一般事務の補助など、あまり深入りせずに済む仕事を選んでいた。昼休みや通勤の最中など、奏は時間があると常にスマートフォンで物件を見ていた。おかげで北品川に家賃6万5千円ほどのアパートをみつけることができた。3階建ての2階に部屋はあり、東南向きで築年数も浅い。

「家を出たい」

 奏の訴えに対して佳澄は何か言いたげだったが、はっきりと反対しなかった。もしかしたら、雄一郎から説得されたのかもしれない。

 引っ越しは業者に手伝ってもらって、1時間ほどで終わった。自分でも呆れるほど所有物が少なく、大きな荷物といえばベッドと洗濯機とコードレス掃除機くらいのものだ。それらもベッド以外はインターネットで注文し、新居に配達してもらったので、自分で持ち上げるという苦労はなかった。

 お盆が開けた頃、久し振りにタイラーからメールがあった。大学を辞めて以来、連絡しそびれていたので、タイラーからの連絡はとても嬉しいものだった。変わらず健康的な食生活を意識しているようだ。奏がSNSを更新しないので、近況を気にしてくれていた。

 タイラーの従妹であるアンジェラが日本への語学留学を希望していることは、一緒に住んでいた頃に聞いていた。アンジェラは今年から東京へ留学し、最近アルバイトをみつけたという。渋谷、原宿を中心にチェーン展開しているカフェだった。

 タイラーは、実際の社風や働く環境など、知っていることがあったら教えてほしいと言った。アンジェラは派遣会社の人に相談しているそうだが、条件を提示されただけでは、正直なところがわからないので、不安があると言うのだ。

 その店舗は、たまたま奏が翌週末に単発のアルバイトで派遣される会社の通勤途中にあった。バイトは午後から夕方までだったので、行きと帰りに覗いてみた。人間関係まではわからなかったが、従業員は留学生のアルバイトが中心のようで、日本人の店員さんが少なかった。紹介で入社するのだろうか。店員さんたちもおだやかな表情をしているので、働きやすいのではないかと感じた。

 間もなく、アンジェラの友達だというステファンからも同じ相談を受けた。ステファンは早口の日本語がまだ聞き取れないそうだ。派遣会社から紹介されているのは品川の居酒屋だというので、仕事の帰りに覗いて、正直な感想を伝えた。

 そんなふうに、タイラーを介して留学生たちの相談に知っている範囲で答えているうちに気づいた。外国人が仕事を探すとき、働きやすさをクチコミで伝えたり、問題なく手続きができるようにアドバイスしたり、場合によっては代行してくれるところを求めている。

 もちろん派遣会社でも行なっているだろうが、専門に扱っている会社はないものだろうか。公表されている連絡先をタイラーに教えてあげれば、彼女からたくさんの友達に伝わるだろう。

■本当は、そういうふうに

 検索してみると、東京都に外国人の就労を支援するNPO法人を見つけた。「ニホンノ・ミンナ」という名前で、オフィスが虎ノ門にあった。8月も終わりにさしかかったある水曜日の夕方、バイト先を出ると同時に、ビルの間から見た夕陽があまりにも美しく、奏の全身を飲みこんだ。

 しばらく立ったまま見つめていたが、ふと力が湧いた。このときまでタイラーにはNPO法人のURLを転送すれば済むと思っていたが、実際に見てこようと思い立ち、そのまま虎ノ門まで出かけていった。

 バイト先から虎ノ門までは電車で15分。オフィスまで駅から1分ほどだったので、ゆっくり歩いても19時すぎには着く。閉店の20時まで、じゅうぶん間に合った。

 駅の改札を出て左へ数メートル進む。コンビニの前では、日に焼けたセーラー服の高校生が数人、笑いながらアイスキャンディーを食べていた。彼女たちの前を通り、鳥居に虎や孔雀などが飾られている神社を過ぎて、さらに数メートル行くと、雑居ビルがある。その4階にオフィスがあった。

 入口はガラス張りの自動ドア。その正面がカウンターになっていて、スタッフが1人座っている。オフィスは20畳ほどの横長で、正面に大きな窓が開けていた。昼間はさぞ陽当たりがいいのだろう。薄いロールスクリーンが半分ほど下りていた。

 ドアの左手にはブックレットがあり、このNPO法人の紹介や、関連する制度や手続きのコツなどをまとめたパンフレットやチラシが数種類置いてある。また、ブックレットの横で、この団体と交流のある職場でつくっているハーブ石鹸やハーブティが販売されている。また、南アフリカなどで日常的に食べられているけれど、日本ではまだ珍しいお菓子やお茶なども少しだけ販売している。

 サロンのカウンター以外は談話スペースになっているようだ。丸テーブルが5つ設置してあり、それぞれイスが3~4つほどある。日本で生活するうえで生じる悩みを、自由に話し合えるコミュニティになっているようだ。

 奏がキョロキョロしていると、カウンターにいた女性と目が合った。インドの血が入っているのだろうか、とても目が大きく、つややかな黒髪をキュッと1本に束ねた、きれいな人だった。カナリアイエローの花柄のカットソーが明るい印象を与える。彼女は穏やかな微笑みを奏に向ける。

「あのう、ちょっとお尋ねしたいのですが」

 自分の言葉で人に話しかけるのは、久し振りだった。マニュアルを読み上げるのとは違って、ひどく緊張する。

「もちろん、どうぞ。よろしければ、おかけください」
 そう言うと、カウンター前のイスを勧める。奏は腰を下ろすと、事情を説明した。カウンターの女性は、奏の話を頷きながら聞いてくれた。
「そうですよね。わかるわ」

「こういう場所があるから、今度からここに相談してみたら? って、アメリカの友達に教えてあげようと思って。ちょうど自宅もそんなに遠くなかったので、ここではどんなことを相談できるのか、直接お話を聞きに来てしまいました」

「素敵な行動力ですね」

 声のするほうを振り向くと、オフィスのバックヤードから話を聞きつけて、40代前半と見受けられる男性が、微笑んでいた。名刺には三島翔(のぼる)とあり、NPO法人ニホンノ・ミンナ代表と書かれている。

 三島の話によると、アンジェラが仕事を紹介してもらった人材派遣の会社と、基本的には同じだという。求人をしている会社などがこの法人に登録し、そこと働きたい人とを結びつける。そのときに、実際に三島たちスタッフが就業先に足を運び、契約書などの書類だけではわからない、実際の環境を丁寧にヒアリングするのだという。文化の違いから人間関係に齟齬が生じることもある。「働きやすい」と言うのは簡単だが、その基準は人のもつ背景や気質によってずいぶんと違うのだ。また、契約や労務問題に関するフォローだけでなく、日本人が「暗黙の了解」としているルールについて英語で説明することも多い。さらに、ときには一緒に薬局に行って通訳しながら薬を選ぶこともあると言っていた。

「大変な仕事ですね」
 奏が言うと、女性は笑った。

「確かにそうなんですけれど、私も日本に来たばかりの頃は、ずいぶん戸惑いました。契約書にも書かれていないし、言葉で伝えることもしないのにみんながわかっていて、それができないと嫌がられるルールの存在に。その気持ちがわかるから、まだ本人が気づいていない課題にも気づいて一緒に考えることができるんだと思います。会員さんが問題にぶつからずにスムーズに働いて、場に馴染んでいくのを見ると、大変だけど、がんばってよかったなって思うんです」

 奏の脳裏に、地下鉄で見た吊り広告のコピーが過ぎった。
「いいなあ。私も、本当は、そういうふうに働きたい」

「よろしければ、これをお持ちください」

 三島は、ニホンノ・ミンナの取り組みを紹介するチラシを手渡した。奏はチラシを見つめていた。

「ありがとうございます。家に帰ったらさっそく友達に連絡します」
「ところで、あなたは英語が話せるんですよね?」
「はい。でも、学生同士の日常会話程度で、専門的な言葉は話せません」
 いまだ胸の奥に、野見山の言葉が刺さっている。
「失礼ですが、今は英語を活かしたお仕事ですか?」
「いえ、受信専門の電話対応のアルバイトをしています」
「どうぞ、そのままで」

 女性はそう言うとカウンターを離れ、看板をガラスドアの内側に片付け始めた。20時を回ってしまったらしい。
「ああ、すみません。もう失礼します」

 慌てて立ち上がろうとする奏を、三島は笑顔で引き留めた。

「どうでしょう、あなた、ここでバイトしませんか?」

「え?」

「実は僕と彼女の他にもう1人、スタッフがいるのですが、来月中旬から産休に入ってしまうので、人手を探していたところなんです。ご興味ありませんか?」

 大樹と出会った日のことが思い起こされた。偶然入ったギャラリーで求人を見つけ、その場で応募したものだ。三島は続けた。

「先ほどおっしゃいましたよね? 『本当は、そういうふうに働きたい』って。本当はだなんて、面白い言い方をなさるんですね」

「そうですよね。つい呟いてしまいました。実はつい最近まで、なんと言いますか、ブラック企業のようなところで働いていたんです。詳しくは話せないんですけど、業務を続けるうえで、結果的に人を不幸にしてしまいました。でもこれからは、人が生きていく力になるような仕事がしてみたいって、ずっと心のどこかで思っていたんです」

「そうですか。それ心の真ん中で思ってみればいいじゃないですか」

 そこからの展開は早かった。時給は1400円。奏が知る限り英語を使う仕事の相場よりは500円ほど安かったが、返済のない今は何とか生活していける額だった。

 初出勤の前夜、大樹と初めて食事をした日のことを思い出した。

 上手くつながるときってこういう感じなのかなって思ってる。すべては流れだよ。

 そう言うと、大樹はあの美しいアーモンドアイを輝かせながら、あたたかく微笑んでくれたものだ。

   *

 9月中旬、いよいよアルバイトが始まった。産休に入るというスタッフは沢村桐子と言い、1週間を奏への引き継ぎにあててくれた。

 ニホンノ・ミンナの業務内容は、人材派遣と職業紹介業だ。すで に登録している、外国人の雇用を希望する会社で求人があれば、同じくすでに登録している外国人会員に紹介する。あるいは、ニホンノ・ミンナのウェブサイト上に掲載して、新規の登録者を募る。

 奏が人材派遣会社でアルバイトを紹介してもらったように、1週間~1カ月くらいの短期型のアルバイトで、必要に応じて契約を更新していく方法もあるが、基本的にはニホンノ・ミンナでは、数カ月間働いた後に正規雇用となる「紹介型派遣」と呼ばれるかたちで、雇用したい会社と、働きたい外国人をマッチングしているそうだ。就業先となる会社は、三島が営業して新規開拓をしているが、ほとんど登録者のクチコミで広がっているという。

 奏が初めてオフィスに来たときにカウンターにいた女性は、アナンダと言うインド人と日本人のハーフだった。日本に国籍を移したのは成人してからだったので、仕事を探したり、実際に働き始めたりするときに苦労したという。その経験をもとに、求職者と一緒に仕事を探していた。オフィスの営業は、10時から20時まで。

 営業中は予約不要で、仕事を探したり、業務上で疑問に思ったことを相談しに来たり、気軽に立ち寄って情報を交換したりと、お客さんは自由に出入りできるようになっていた。来客がない間はメール対応をしたり、郵送で交わされる場合の契約書に、書き漏れなどの不備がないかをチェックする仕事がある。出勤初日の奏は、主にバックヤードでその仕事をしていた。

 バックヤードはカウンターと薄い壁を1枚隔てただけなので、沢村やアナンダがカウンターで接客している様子も自然と目に入った。

 夕方、仕事の帰り道に立ち寄ったというある女性が、職場で起こったことをカウンターのみんなに笑いながら話した。彼女は「最近」と「このところ」の違いを理解するのに時間がかかり、「杉並区のアパートに”最近”引っ越した」と言おうとして、ずっと「”このところ”引っ越した」と言い続けていたので、いつも相手に一瞬、不思議な顔をされていたそうだ。カウンターのみんなが「あるある!」と言って笑い、奏も一緒に笑った。

 事務的な内容を説明しているだけでなく、スタッフたちが想像力を発揮してお客さんの話を聞いていることが印象に残った。奏が真美術出版舎で騙り営業をしていたときも、想像力を使ってともに展望を見るという点では同じだった。しかしここでは、あたたかく、おだやかな明日に繋がっている。

 皮膚の内側で見ている景色が、目の前の人に「伝わっている」という実感。それはいったい、どれほど満たされるものだろう。

 もし許されるなら、私もこのまま、ここで目の前の人の役に立っていたい。いつか、あなたがいてくれてよかったって、言ってもらえる仕事がしたい。

 私にも、できるかな。

   *

 働き始めて1カ月ほど経った10月の中旬。NPO法人ニホンノ・ミンナは活動を広報するために、夕方の情報番組に出ることになった。オフィスでの撮影は1時間ほどで、主に受け答えするのは三島だった。奏とアナンダは横で見ていた。

 インタビュアーが楽しそうに質問してくれることで、場は和やかな雰囲気だったし、あらためて人の役に立つ仕事だと実感できた。

「さきほど登録企業や登録者はクチコミで広がっていると伺いましたが、スタッフさんはどのように集まっていらっしゃるのでしょうか?」

「スタッフもクチコミが中心で、今のところは人づてに紹介されて自然と集まっています。ただ、彼女のように活動に興味をもってオフィスに遊びにきてくれた方に、こちらから突然お声をかけた例もあります」

「突然スカウトされたわけですね? こちらの女性でしょうか。お名前を聞かせていただけますか?」

 奏は騙り営業時代のクセで、カメラに映らないように注意していた。当時は、顔と名前を憶えられることが怖かった。でも、今はもう、違うのだ。突然話が振られて多分にまごつきながらも、奏は顔を上げて名乗った。

「棚絵と申します」
「棚絵さん、最初はどのような経緯でオフィスに遊びに来ていたんですか?」

「私がアメリカに留学していたときの友達の従妹が日本に住んでいまして、仕事を探すときに人間関係やルールについて、より細かくてわかりやすい情報や正直な意見を求めていたんです。といっても私1人では知っていることにも限界がありますから、専門的にサポートしている団体や会社があれば、それを友達に教えてあげられるな、と思って検索したことが切っ掛けでした。オフィスに来たのは思いつきだったのですが、実際にどのような活動をしているのかこちらのアナンダさんから話を聞いているとき、『大変だけど、がんばってよかった』って彼女が言っていて、私もそういうふうに働きたいって思ったんです」

 後日、そのときの動画が代表者のメールに送られてきた。放送は11月の中旬だという。3人で一緒に見たところ、奏のコメントは割と長く採用されており、顔の下にはテロップで名前も出ていた。「いいね!」と3人で笑い合ったが、奏は一抹の不安を覚えた。

■顔と名前

 11月の中旬。ニホンノ・ミンナがテレビで放送された翌朝、出勤しようと駅に向かっている最中に、コートのポケットの中でスマートフォンが鳴った。

 シエロからは昨日のうちにLINEで冷やかされていた。他に連絡をくれるような相手は思いつかない。スマートフォンを取り出すと、画面には浜元 桔平と表示されていた。退職して以来、思い出した頃にメールは交わしていたが、それきりだった。

「ハマさん、久し振りですね!」
「ご無沙汰してます。というか、こんな時間にごめんなさい。仕事中ですよね?」
「いえ、今出勤途中なんです。10分くらいなら大丈夫です」
「ホンマですか。そしたらお言葉に甘えさせていただきますね。お元気ですか」
「はい、元気です。浜元さんも声の感じが、お元気ですね」
「まあボチボチです。昨日のテレビ見ましたよ。すごいわ、がんばってはんねんな」
「え、ありがとうございます。夕方だから、仕事をしている人たちはあんまり見ていないかなと思っていたんですけど。恥ずかしいですね」
「ちょうど仕事で外にいたもんやから。喫茶店でコーヒーを飲んでいたら、偶然テレビが目に入ったんです」
「仕事は、真美術出版舎ですか?」
「そうやねんけど、実は昨日で辞めたんです」
「え?」
「棚絵さんは、河原さんって覚えてますか?」

 一瞬、作家の1人かと思ったが、すぐに嫌な感覚とともに思い出した。
「のんさんがいなくなったときに、黒澤さんが捜索を依頼した先輩ですよね。怖い人っていう。あの業界のいろんな出版社の背後にいたんですよね」
「そうです。あの人とは付き合ってほしくなかったわ」
「そうですね。その関係でハマさんも辞められたんですか?」

「いえ、実は真美術出版舎は河原さんに乗っ取られちゃったんです。前も話したことで恐縮なんですけど、兄貴が独立して会社をつくるときに、最初は、競合他社から圧力をかけられた場合に備えて、何かあれば河原さんの事務所の人に力を借りて回避するっていう口約束をしたんです。それで、月々お礼を払っていたみたいなんですけど、だんだん真美術出版舎が大きくなっていくのを見て、河原さんは会社ごとほしくなったでしょうね。まずはのんさんを逮捕させて、それを切っ掛けに兄貴まで警察に詐欺罪でつき出したんです」
「え? 黒澤さんも逮捕されたんですか?」

「ギリギリ法律の範囲内だったので、兄貴は事情聴取だけで戻ってきました」
「ちょっと待ってください」

 このまままっすぐ歩き続けると角があり、そこを右に曲がると1分もしないで駅に着く。駅前は賑やかなため、奏は角の手前で足を止めた。小さな不動産屋と、掃除器具メーカーの看板を掲げた4階建てのビルの間に、タイル張りの枠で囲まれた小さな植え込みがある。奏は枠に通勤バッグを置き、深呼吸をひとつした。

「どうしてのんさんが先に逮捕されたんですか?」
「午前中から重い話ですけど、のんさんが前に、河原さんの後輩の手引きで薬物を購入していて、逮捕歴があるという話、覚えていますか?」
「はい。出所後の就職に困っていたところを、黒澤さんが誘って会社を始めたんですよね」

「借金のカタにね。実はのんさんがお金を持ち逃げした後に、河原さんは後輩を使ってのんさんに連絡を取らせたそうです。逮捕前と携帯は変わっていたけど、さして怪しまれることもなく、留守電にメッセージを残したら3日後に連絡がついたということでした。ツレを裏切って逃げたという良心の呵責から、追いつめられていたんやろうか。あるいは、大金を持って気が大きくなっていたんでしょうね」

「ひどい。でも、せっかく普通に働いていたのに、そんなに簡単に怪しい人たちと連絡をとろうとするものでしょうか?」

「また薬がほしくなったんちゃいますか。脳の一部が損傷するって言いますからね。何かの拍子に昔の虫がわいて、理性が働かなくなったんでしょうね。実際に河原さんの後輩はのんさんに何度か薬物を売り、使用させたみたいなんです。どの程度のんさんが依存していたのかはわかりませんけど、最終的には行動をコントロールするのが目的やったんやと思います。必ず連絡がつきますし、買い続けるためにはお金が要りますから、仕事先も河原さん側が監視することができますよね」
「一緒に働いているとき、のんさんはそんなふうには見えませんでしたけどね」
「でも、情緒が不安定でイラつきやすかったでしょう」
「まあ、確かにそうですね」
「のんさんの身柄を拘束したと、兄貴に連絡が来たのは2月の終わりくらいやったかな」
「ええ、確かそうでしたね。お昼にスパゲティを食べながら話してくれたんですよね」
「そうでしたね。実はあのときから兄貴は、真美術出版舎の名義を売却するように、河原さんからしつこく言われ始めたみたいなんです。兄貴は最終的に真美術出版舎を普通のデザイン事務所にするのが目標でしたから、のらりくらり断り続けていたんですよね」

「名義は売ってしまって、新しい会社をつくれば済むんじゃないですか?」
「そう簡単に言いますけど、大変なことやし、自分でつくった会社に愛着があるんですよ」
「なるほど。それで黒澤さんは河原さんからの誘いを断り続けていたと」

「ええ。ちなみに兄貴がのんさんから受け取っている金額は、最終的に、実際に彼に持ち逃げされた額の数倍になる予定でした。のんさんがどうやって稼いでいたかはわかりませんが、安定的にお金は振り込まれていたみたいですよ。兄貴にとっても大切な収入源の1つでしたから、河原さんはのんさんを警察に渡すことで兄貴の収入源を断ち、その関連で兄貴も引っ張らせることで圧力をかけるつもりだったんでしょうね。結局、兄貴の動きが封じられている間に、会社は河原さんのものになってしまいました」

「乗っ取りですか?」
「ええ。アッサリと。兄貴が事情聴取されていたのが一昨日で、昨日の朝僕が出勤したら会社の看板に河原さんの名前が書かれていましたよ」

「そんな、信じられない。ハマさんは大丈夫なんですか?」
「ええ。あと、棚絵さんに捜査の手が迫ることもありませんよ。河原さんが会社を吸収するときに情報を管理したみたいですが、棚絵さんの具体的なデータが出たとは言っていませんでした。パソコンに営業の記録がありますが、あれもTとしか書いていませんしね」

 浜元は苦しそうにため息をついた。
「あ、でも河原さんね、棚絵さんのこと知っていましたよ」
「どうしてですか?」

 背中に冷や水を勢いよく浴びせられたような心境だ。
「6月にウチで展覧会をやったでしょう? そのときに棚絵さんと名刺交換したって、見せてくれました。森井澄子さんって洋画家を覚えてますか?」
「忘れるはずありません。あの人が巾着を忘れたとき、私が追いかけて行ったんですから」
 そしてコトと大樹に遭遇したのだ。

「森井さんが他社の営業を何人か取り巻きみたいに連れてきたでしょう、その中にいたんです」
「覚えています」
 河原の鋭い眼でまっすぐ見据えられた瞬間全身に走った、産毛が逆立つような緊張が蘇る。

 数秒の沈黙の後、浜元は言った。
「棚絵さん、さっき僕、のんさんがどうやって稼いでいたかはわからないと言ったでしょう。本当は知っているんです。ただ、ヘビー過ぎるので棚絵さんに聞かせてしまっていいのか、今もわからへんのですが、話を聞いてもらっていいですか」

 奏の脳裏に、あの日の浜元の表情が蘇った。あの日浜元は、いつか真相を話すと言ってくれた。気持ちの整理がついたら、あるいは、抱えることに耐え切れなくなったときに。今は、どちらなのだろう。

「大丈夫です。話してください」
「ありがとう。ごめんな」
 浜元は少し黙り込むと、話を続けた。
「まず、河原さんはのんさんのご両親、妹さん、のんさん本人を全員売らはりました」
「売った?」

「お父さんがご存命なのかどうかわかりません。お母さんと妹さんは、暴力的なシーンの多いAVと、同じようなサービスを売りにする風俗店に入店させ、売上から河原さんの手数料を引いて、残りが兄貴に入ってくる仕組みになったと聞きました。そして、のんさんも男性をターゲットとしたAVの、とりわけ暴力シーンの多い、いえ、暴力が大半を占めるジャンル専門に出演しているそうです。撮影がない日は、様々な仕事で逮捕要員として使われているようです」

 浜元の声は震えていた。奏も目の前が暗くなり、口が開けるようになるまで時間がかかった。
「どうして、そんなことに」
 奏は言い知れぬ恐怖と悔しさを味わっていた。

「そもそも、のんさんはどうして、せっかく更生のチャンスをもらっていながら、会社のお金を持ち逃げしたんでしょうね」
「なんでも結婚を考えるような彼女ができて、一緒に逃げたという話です」
「どうして逃げる必要なんか?」
「その女性は、過去に使用していたクスリの関係で河原さんに借金があって、風呂に沈んではった人らしいですわ」
「風呂に沈む?」

「ああ、下品な言い方でごめんなさい。風俗店で働いて、わずかな生活費を除いてすべて河原さんへの返済に充てていたみたいです。のんさんがどういう経緯で彼女に出会ったのかはわかりません。たまたま客として店に行ったのかもしれないし、クラブとか、プライベートで出会ったのかも知れません。これはあくまでも僕の想像ですが、彼女は河原さんの愛人の1人だったのかも知れません」

「黒澤さんは、それで平気なんですか」
「平気なわけないやないですか。そこまでさせんでええんです、と河原さんにお願いしたそうです。でも、河原さんは、お前という大事な後輩の面子を潰されとんのやがな、と笑うと、直後に豹変して、ほんならワシの収入になる予定の額をお前が一括で払ったら野辺たちを解放したると言ったそうです。そんなん、払えませんよね。だから僕は、あの人に頼るのはアカンと言ったんです。兄貴は感情に飲まれて墓穴を掘ったんです」

 浜元が携帯を離し、こっそり鼻をすするのが聞こえた。
 これが逆の立場なら、浜元は奏にどう声をかけてくれるのだろう。
 混乱した頭で懸命に考えていると、浜元が言った。

「実は僕ね、大阪に帰るねん」
「え、いつ?」
「今から」
 奏が言葉につまっていると、浜元は続けた。
「今、東京駅に向かうところなんです。この携帯も解約するから、もう連絡せえへん。棚絵さんは東京で唯一、友達みたいに話せる人やったから、楽しかった。ほんまにありがとう」
「いえ、そんな、こちらこそ」
「いつも一方的に聞いてもらって、ごめんな。今聞いた話も含めて、全部忘れてな」
 奏がまごまごしていると、浜元は「さようなら」と言って、電話を切った。切れた電話を眺めていると、毎朝、律儀に全員のデスクを水拭きする浜元の姿が浮かんだ。

 ありがとうとも、ハマさんがいてくれてよかったとも、ちゃんと伝えることができなかった。
 しばらく、そのままぼんやりしていたが、掃除器具メーカーのビルからスーツ姿の集団が出てきたので、慌ててその場を離れた。横目でスマートフォンの時計を見ると、遅刻寸前だ。胃袋を素手で持ち上げられたような強い違和感を抱きながら、奏は駅まで走った。

   *

 9時45分ギリギリにオフィスに着いた。アナンダは風邪をひいたらしく病院に立ち寄っていたので、オフィスには奏と三島の2人だった。床に掃除機をかけてからカウンターを水拭きする。最後に奏がビルの外に出て、いつもどおり周辺を掃く。

 冬の始まりらしい、空気のキリッと澄んだ晴れの日で、虎ノ門を行きかう人たちも、スーツだけだったり、トレンチコートを羽織っていたり、ニットのショールを羽織っただけで足元はオフィス内で履くサンダルのままだったりとバラバラだ。先ほどの浜元の話など、まるで遠くで起こった夢物語のように感じられた。

 掃除の最中に、なんとなく背後に視線を感じた。しかし振り返ってもそれらしき人は誰もいないのだった。掃除を終えても開店まで時間があったので、事務所の入っているビルを出て、数メートル先のコンビニでカップのコーヒーを三島の分も買った。

 コンビニを出ると、背後から再び、視線を感じた。さっきよりもハッキリと感じる。

 奏が振り返ると、奏のすぐ後ろに50代と思しき女性がぼうっと立っていた。身体が大きく、太い黒縁メガネをかけている。頭はパーマというよりクセ毛が伸びて、ブロッコリーのように盛り上がっている。操り人形のようなギクシャクとした動きで、まっすぐに奏に寄ってくると、声をかけた。

「棚絵奏さん?」
「え? いいえ」。奏は危険を感じて、名乗ることを躊躇った。

 女性の乱れた髪の奥には、どこかで見覚えのある目がギラギラと、生魚のウロコのように輝いていた。中園万里子だ。奏が初めて騙り営業をして、その場で契約をした洋画家。  

 6月に「アールヌーベルヴァーグ展~燦~」のレセプションパーティの会場で会ったときは、ヘアアイロンできちんと伸ばしてセットしていたのだろうか、長い黒髪を中央で分け、足首まであるブルーの絞り染めのコットンワンピースを着ていた。今日と同じように化粧気がなく、はにかんだような笑顔が自然でやさしかった。

 中園はまっすぐに奏を見つめながら、ブツブツとつぶやいている。奏はその場から走り去りたかったが、足がすくんで動けなかった。

「なによ、棚絵さんじゃないの。テレビでは偉そうに名乗っていたくせに、この期に及んでしらをきるの? あなた、ずっとそうして生きてきたの?」

 中園の目に、何かを納得したような、覚悟のような色が浮かんだ。ディープブルーのカーディガンの袖をすばやく引き上げると、中園の右手には刃のスラリ、長い包丁が固く握られており、躊躇することなく奏に向かって突いてくる。

「これからも、そうして生きていけると思っていたの?」

 奏は身体をひねって逃げようとしたが、中園はすばやく前進する。腕を振り上げてはめちゃめちゃに振り下ろす。刃が何度か奏の頬や腕をかすり、奏の左腹に刺さりそうになった。中園は奇声を発するわけでもなく、全力で奏を狙って刃を振り下ろし続ける。きっと覚悟してきたのだ。それほどまでに奏は彼女を追いつめてきたのだ。

 ふと、奏は足を止めた。
「刺してもいいですよ」

 罪悪感の重圧から楽になりたい。ここで刺されたら、生命保険で雄一郎にいくらか入るのだろう。それで借金を返済して、また元のように家族3人で、ケンカしながらも平穏に暮らしたい。
 もう、楽になりたい。
「刺してよ」
 表情の失せた中園に対して、奏は泣き声だった。
 中園の口元がわずかに歪む。鼻を鳴らすと、中園の手が、ブルブルと震える。

「どうして私があなたのせいで犯罪者にならなきゃいけないの。どこまで私の人生を狂わせれば気が済むのよ!」
 そう怒鳴ると中園は大きく目を見開いて、ナイフを自分の首に突き立てた。
「あんたを呪ってやる」
 奏をまっすぐに睨みつけている。奏は刺すような視線を全身で浴びながら、彼女の腕に飛びかかった。奪おうとしたナイフが、勢い奏の右腕に突き刺さった。

 まさか?

 感じたのは衝撃で、アスファルトにナイフが落ちた固い音を聞いた瞬間、初めてそれが痛みだと理解した。強い痺れが腕から全身を駆け巡り、生きるために要る心の力が、根こそぎ奪われていく。喉の奥から内臓にかけて、空気が圧縮されて詰まっているようだ。

 中園は茫然と立ちすくんでいる。両掌を大きく、天に向かって広げたまま。

「中園さん、これで終わりにしてもらえませんか」

 絞り出された声は、自分でも情けないほどに掠れていた。こちらを睨みつけたまま硬直している中園越しに、コンビニ店内の様子が見えた。カウンターの中で、店員がどこかに電話をかけている。

「もう行ってください!」

 奏の一喝を受けて、中園はふらつきながら走り去った。コンビニの店員が通報してくれたようで、擦れ違いで警察官と救急車が到着した。奏は強烈な不安とともに、わずかに安堵していた。朦朧としながら名前や連絡先など、聞かれるがまま応えた。その最中、3つの思いが奏の中を巡り続けていた。

 やっぱり、こんな私が普通に生きるなんて都合がよ過ぎたのかな。
 これで保険金、いくら入るのかな。
 ごめんなさいって、ちゃんと言えなかったな。

■知っている人

 目覚めると奏の前にオフホワイトのつるりとした壁が広がっていた。目を動かすと視界を縁取るようにカーテンレールが囲み、オフホワイトの布が下がっている。視界の左端には点滴の袋がぶら下がり、涙のように透明な滴がポタリ、ポタリと落ちている。どうやら正面に見えているのは天井で、ここは病院のようだ。

「奏、気が付いたかい」
 奏の右手から雄一郎が顔を出した。
「うん」
「そのまま、起き上がってはいけないよ。水を飲むかい」
「ありがとう」

 雄一郎はベッドの横の小さな机の上から小さな急須のようなガラス器具を取ると、吸い口を奏の口元にあてた。奏は横になったまま一口、水を吸った。

「大変だったね」
「今何時?」
 雄一郎は、腕時計を見る。黒みがかった赤茶色のベルトの、端が所々すれている。
「午後8時。職場の方には警察から連絡が行ったようだけど、お父さんからも電話をしてお詫びとご報告をしておいたから。とても心配してくださっていたよ」
「ありがとう」
「お母さんはショックで倒れたので、ここにはこられないそうだよ」

 奏が小さく笑うと、右腕が激しく痛んだ。右腕は布団の中だったが、ビリビリと痺れて、とてもじゃないが動かせない。左腕からは点滴のチューブが、枕元の袋までつながっている。

「動かさないようにね」
 返事をしたかしないかのうちに、再び意識が遠のいた。深い眠りに落ちながら、中園に対して悪いことをしたと心から思った。事情聴取で奏の過去を話したら情状酌量になったかもしれないのに、奏のせいで彼女は、いつ捕まるかと怯えながら生き続ける羽目になってしまった。結局、奏はまた自分の都合で、被害者をつくる。

 翌朝、警察官と雄一郎、医師とが入れかわり立ちかわり病室を訪れた。病室は4人部屋のようだが、他のベッドには白いカーテンが引かれている。こちらに気を使ってくれているのだろうか。警察官からは事件に関して質問を受けたが、何も知らないと答え、立件しなかった。

 医師からは、昨日右腕を手術したことが告げられた。2週間後には退院できる。しかし右手の小指と薬指の神経が切断されているため、リハビリをしても麻痺が残ると言う。この先もほとんど動かないだろう。

「そうですか」
 奏が呟くと、窓の外でスズメの群れが一斉に飛び立った。今まで気づかなかったが、奏のいる病室は病院の上階にあり、窓の外には樹の枝が広がっている。葉がほぼ落ちており、やせ細ったように乾燥しているが、しっかりとした枝ぶりだ。そこでスズメの群れは夜を越すのだろうか。真冬に嵐から彼らを保護する宿り木のない樹でも、羽を休め、翌日には飛び立っていけるのだろうか。

   *

 入院から3日後、近くで人の気配がして奏が目覚めると、雄一郎が大ぶりのナイロンバッグから何やら取り出していた。雄一郎は毎日、夕方の遅い時間に千駄ヶ谷の病院まで来て、1時間ほど世話をしてくれている。奏が左手で不器用に病院食を食べる横で、一緒にサンドイッチやおにぎりを食べていく。家に帰ったら本格的に食事をするそうだ。

 奏の病室は4人部屋で、他には中学生くらいの女の子と、60代くらいの女性が2人入院していた。奏はまだちゃんと話したことはなかったが、すでに雄一郎は看護婦さんを通して挨拶を済ませてくれていた。

 もうそんな時間か。

 手術を受けてから、奏は高熱を出して一日の大半を眠って過ごしていた。今日も昼食を少し食べ、検診を受けたところまでは覚えているが、それからまた眠っていたのだろう。

 雄一郎は、奏に背を向ける格好で、バッグから取り出したものを、ベッドの横の小さな机の上に、倒れないように置こうと工夫しているようだ。奏の視線に気が付くと、照れくさそうに振り返る。

「やあ、起こしてしまったね」
 バサリ、と音を立てて、雄一郎の手から滑り落ちた。不器用に拾い上げると、奏の前に広げて見せる。奏が実家を出るときに、生活用品のほかに唯一持って行った「おえかきちょう」だ。表紙をめくると、幼稚園に入ったばかりの頃に書いた紙芝居が現れる。

「懐かしいね。奏はまだ持っていたんだね」
「うん。でも、これどうしたの?」
「奏のアパートに、お母さんと2人で着替えを取りに行っただろう? そのときに、枕元に飾ってあるのを見つけてね」
「うん」。奏が頼んで、鍵を預けたのだ。
「もちろん、着替えを準備する以外は手を触れていないよ」
「大丈夫、わかってるよ」

 小さく笑うと、奏の右手がビリビリと痛み始めた。ここで鎮痛剤を飲んでおかないと、千切らんばかりに絞りあげるような痛みが、数時間も続く。飲んだとて、ふとした拍子に激痛が走るのは治まらないのだが。

「お父さん、悪いんだけど、そこの薬をとってくれない?」
 雄一郎は机の上から頓服薬を取ると、包みからカプセルを出して奏に手渡す。奏は左手で受け取ると、雄一郎が口元に添えてくれた小さなガラスの急須から水を吸って、ともに流しこむ。
「ありがとう」

 深呼吸を何度か繰り返すと、徐々に痛みの先端がほころびはじめた。そんな奏を、雄一郎は見つめている。刺された日に、なぜ事件として立件しないのかと何度も聞かれた。そのときと同じ目だ。

「知ってる人なの」
「え?」。一瞬の間をあけて、雄一郎は目を見開いた。「なんだって?」視線が奏の右腕に向けられる。
「刺した人、知ってる人なの。実は私――」

 お金をたくさん稼ぎたくて――そう続けようとして、言葉に詰まった。雄一郎の目を見ていると、最後に大樹と交わした言葉が耳の中に響いた。事実を告白したいのは、自分が救われたいからだ。結局は自分で決めてした行動じゃないか。すべては借金のせいだと言われた後の、雄一郎の気持ちを察するべきだ。

 深く息を吸い、ゆっくりと吐くと、奏は続けた。

「とても強引に高いモノを売りつける仕事をしていたの。詳しくは話せないんだけど、業務を続けるうえで、あの人に恨みを買ったの」
「あぶないじゃないか。今後のことを考えて、警察に届けなければ」
「大丈夫。今回だけは、そっとしておいて」

 紙芝居が視界の隅に入った。昔、祖母に誉めてもらった想像力を、人を騙し、お金を搾り取る道具にしてしまった。奏は泣き出しそうだったが、必至にこらえた。喉の奥から内臓にかけて、決して飲み下せない鉛が詰まっているようだ。

 雄一郎は、電気スタンドを支えに不器用なバランスで立っている、紙芝居に視線を向ける。奏も同じところをみつめていた。パンダやウサギがダンスしている陽気な表紙は、ところどころ擦り切れたり折り目がついたりしている。

 しばらくすると、雄一郎は再び奏を見た。

「何かお父さんにできることはあるかい?」
「理解しようとせず、ただ淡々と接して」
「むずかしいね。腫れ物に触るように接するほうが、どれだけ楽か」
 奏が笑うと、雄一郎も静かに笑った。
「お父さんが、奏に負担をかけたせいだよね」
「ちがうの」

 窓の外はすっかり暗くなって、何かの破片のように鋭くとがった月が冴えている。風が強いのか、樹の枝が小刻みに震えている。奏は首を振ると、言った。

「お父さん、私ね、あの仕事を通してわかったんだ。お金の価値は、どんな考え方で、どんなふうに稼ぐかなんだって」
「どんな人たちと、も大切だよ。お金も心のあり方も、両方大切なんだよ。奏の寝顔を見ながら、このことを考えていた」

 そのとき一陣の風が吹き、窓ガラスが音を立てた。共鳴してか右腕がズキリ、と痛む。呻き声を上げた奏の頭を、雄一郎が撫でる。

「どうして私、助かっちゃったのかな」
「なんだって?」

 額の汗をガサガサした手のひらで拭いながら雄一郎が言う。少し強い口調だ。熱と痛みで朦朧としながら奏は言った。
「私、どうして生きているのかな」
「初めて経験するほどのケガを負っているからって、そんな気弱なことを言うもんじゃない」

 雄一郎はそう言うと、目を伏せて奏の腕を見つめていた。沈黙の間、奏は脈打つたびに伝わってくる痛みに耐えていた。
 ふと、雄一郎が口を開いた。

「さんざん苦労をかけて、一体どの口が言うんだと思われるだろうが。奏が生まれて来て生きているのはきっと、目の前の人が『生きててよかった』って感じられる瞬間をつくるためだ。そして、目の前の誰かに『奏がいてくれてよかった』って言ってもらえたとき、自分が生まれてきた意味を実感できるんだ。少なくともお父さんはそう思う」

 食いしばりすぎて、奥歯と眉間が痛かった。腕の痛みは輪郭を弱め、指先から抜けていく。ゆっくりと全身の力を緩めていると、雄一郎が呟いた。
「これね、お母さんが奏に持っていってあげてほしいと言ったんだ」
「そうなんだ」
「奏の着替えをバッグに準備しながら、懐かしいね、あの子ったら『とはいうものの』って満足げに繰り返していたわよね、と2人で笑い合っていたよ」
「覚えてたの?」
「ああ。とくにお母さんにとっては、特別な思い出のようだった。お婆ちゃんが元気だったのは、あの頃までだったからね」

 奏が黙っていると、雄一郎は続けた。

「退院したらまずは家に帰っておいで。またアパートに戻るにせよ、働きに行くにせよ、その前に少しだけ家で休んでほしい。奏の部屋には新しい布団を買っておくから」

 奏は、手術の翌日に医師から受けた説明を思い出した。

 傷口がふさがった後、切断された指の神経が再生していく時期に、右腕に強い痛みが走り続けるという。そのとき指の筋肉が曲がったまま固まらないよう、腕から手にかけて根気よく揉みほぐす必要があるそうだ。痛みを抑える薬はあるが完全に効くわけではないという。触れるだけで強い痛みを伴うが、この時期にマッサージをすることで、将来わずかとはいえ2本の指は痛みなく動かせるようになるという。その説明を、雄一郎も一緒に聞いていた。奏にもわかっている。一人暮らしのまま、奏がこの時期を乗り越えるのは厳しい。

「あの部屋、また荷物だらけなんじゃない?」
 奏が言うと、雄一郎は静かに微笑んだ。

「奏があんなに必至に片づけたのに、また散らかしては申し訳ないと言って、お母さんも毎日どこかしら掃除し続けているよ」

 奏も小さく笑うと、そのまま静かに眠りに落ちていった。ゆっくりと遠のく視界の隅で、佳澄が宝物を扱うようにそっと、紙芝居を見つめている姿が見えた気がした。波のように引いては寄せるまどろみとともに、奏の心から、すべてではないが佳澄へのわだかまりが溶け始める。お母さんも、当時はどうしようもなかったのだろう。

■誠実な旋律

 手術をしてから5日後、ようやく熱が下がった。

 右腕を吊って、ゆっくりと歩けるようになったものの、思いのほか体力が落ちていた。また、病室の外に出ると緊張し、鼓動が高まった。背後から人が急ぎ足で歩いて来るだけで、恐怖で呼吸が乱れてしまい、休みながら売店まで歩いた。

 今日は、お父さんが来るときに起きて迎えてあげよう。こんなふうに歩けるようになったと言ったら、どんな顔をするかな。
 そう思うと、痛みの中でも心が躍った。奏はいつも雄一郎が食べているサンドイッチを買うと、何度も休みながら病室に戻った。

「今日はおやつを持たずに病院に来てね」
 疲労でぐったりとしながら、奏は雄一郎にメールを打った。返信はなかったが、忙しいのだと思っていた。しかしその夜、病室に雄一郎は来なかった。気になって何度か携帯にかけてみたが、毎回留守番電話につながった。佳澄の携帯も同様で、家の電話はずっと話し中だった。

 何かあったのかな。不安は時間とともに確信に変わっていく。それでも携帯を持ったまま、眠ってしまったようだ。目覚めたのは翌朝だった。

 朝食を終えた頃、雄一郎が病室に入ってきた。黒いナイロンのウインドブレーカーを着ている。奏からのメールを読んだためか、珍しく手ぶらだった。雄一郎は相変わらず感情の読み取りにくい表情をしているが、かすかに険しい。それが奏に、ただごとではないと告げている。

 他の患者は3人ともリハビリに出ており、病室には雄一郎と奏だけだった。ひっそりとした病室に、廊下を行き交う人の足音や声が聞こえてくる。雄一郎はいつものように丸椅子に座る。

「奏、おはよう」

 穏やかな声だった。しかし、奏が返事をする前に、雄一郎は続けた。

「落ち着いて聞いてほしいんだが」
「わかった」
「家が、火事で半焼してしまった」
「えっ!」

 真っ先に浮かんだのは、料理をする佳澄の姿だった。転倒してコンロの火を何かに燃え移らせてしまったのではあるまいか。絶句する奏をいたわるように、雄一郎は続ける。

「お母さんもお父さんもケガはないから安心して。消防隊の方によると、出火したのは昨日の16時半頃だそうで、ちょうど2人とも出かけていた。というのも、いつもその時間は揃って夕飯の買い物に出かけるんだよ。30分にも満たない時間だが、家に帰ったときは、ちょうど消火活動の最中だった。家の裏手から火柱がのぼるのを見たが、リビングも店として使っていたあたりも焼けずに残っている」

 家の裏手ということは、家族が出入りしている門や、奏の部屋のあたりから出火したようだ。奏の部屋の上は雄一郎の書斎だ。
「出火したのは、私の部屋の辺り?」
 雄一郎は静かに頷く。

「奏の部屋にほとんど荷物がなかったろう、それが幸いだったよ」
「焼けたのはそこだけ? お父さんの部屋は大丈夫なの?」
「お父さんの部屋は、網戸が溶けたり窓ガラスにたくさんヒビが入ったりしたくらいで、形は残っている。ただ、窓の付近から半分ほどは壁や床がこげてしまっているね」
「そうなんだ。昨日は、2人とも家で寝られたの?」
「いや、昨夜から駅前のビジネスホテルに泊まっている。水道管が破裂してしまって、まだ水が溢れ続けているんだよ。それに、焼け残っているとはいえあらゆるものが燻されてね。煤まみれで使えなくなったものもあるし、とにかく薬品のこげたようなひどい匂いがするんだ。家から持ってきた着替えにも匂いがしみついていて、ホテルの部屋でもお母さんは頭痛がするようだ」

「これからどうするの?」
「火災保険の申請は済ませたし、難しいとは聞くが、犯人の逮捕を待つしかないな」
「犯人?」
「ああ、放火だったんだよ」
「そんな」

 雄一郎は、健康食品の在庫を処分することや、家のリフォームが済むまではどこかで仮住まいをすることなどを、淡々と報告した。話し終えると、ミニテーブルから水差しを取った。奏は左手で受け取ると、一口飲む。右腕に雄一郎の視線を感じた。

 火を放ったのも、奏が知っている人なんじゃないか?

 目がそう問い詰めてくる。そうかもしれない。また、奏を恨んでいるのは中園だけではないだろう。しかし奏は口を開かない。この期に及んでも、あさましく自分の過去を守ろうとしてしまう。
「私って……」
「うん?」
「あ、ううん。私って、いつまで入院するんだっけ?」
「あと10日ほどだよ」
「狭いだろうけど、せめてその間だけでも、北品川のアパートを使ってくれたらいいよ」
「ありがとう」

 ふと、雄一郎の目の奥が微妙に緩んだ。その変化に、奏は胸が痛んだ。顔に出ないからといって、お父さんが平気なわけじゃないんだ。様々な思いが痛みと共に奏の中を巡ったが、そのどれも言葉にならない。それからしばらく、奏は雄一郎と窓の外を眺めていた。樹の枝がときおり風にそよぎ、太陽が透ける。

「では、そろそろホテルに戻るとするかな。そして、奏の部屋に移らせてもらうね」。そう言うと、雄一郎はゆっくりと立ち上がった。
「明日は、いつものように夕方来るよ。お母さんも出歩けるようだったら、一緒に」

 奏が頷くと、雄一郎はその頭を撫でた。雄一郎を見送りながら、奏はこの先、目の前の人が「生きててよかった」と感じられる瞬間をつくることなど、自分にはできないと思った。行動を起こす度にトラブルを呼び、人から大切なものを奪うばかりだ。こんな人間が、目の前の誰かに「あなたがいてくれてよかった」と言ってもらえることなどありえるはずがない。

 つと、病室に中学生の女の子が戻ってきた。車椅子を押す看護師のほうをときどき仰いでは、楽しそうに談笑している。リハビリを終えたようだ。奏も笑顔で会釈を交わす。病室はにわかに活気づいた。その活気に運ばれるように、奏はゆっくりと立ち上がると病室を出た。三島とアナンダの顔が浮かんでいた。日の当たる道から手を差し伸べてくれたのに、迷惑をかけてしまった。遅くなってしまったが、お詫びと状況の報告をしなければ。

 10分ほどかけて、廊下の突き当たりまで着いた。背丈ほどもある窓から、午前中の柔らかい光が入っている。奏はポケットからスマートフォンを取り出すと、ニホンノ・ミンナに電話をかけた。午前11時を過ぎたばかりだ。忙しいタイミングではないだろう。

 電話を受けたのはアナンダで、相手が奏だとわかると悲鳴のような声をあげた。あの日、自分が病院に立ち寄っていなければ、状況は変わっていたかもしれないと思っているようだ。奏が話せる範囲で簡単に状況を説明すると、アナンダは安心してくれたようだった。目の前の人を安心させようとして使う方便が、さらにその場しのぎの嘘を必要とする。これからもそうして生きていくつもりなのか。中園の言葉が右腕の奥でうずく。

 ちょうど三島は他の電話に出ているらしく、そのまま少しだけアナンダと話した。奏がケガをした日、彼女の携帯に三島から留守伝が残っていたと言う。

――急用ができたので、アナンダはそのままお休みしてください。折り返しにはおよびません。

 実際には三島が1人でオフィスを開いていたそうだが、彼女が状況を聞いたのは翌朝で、三島は進展があれば僕から報告するから安心してね、と伝えたそうだ。今まで通り、ランチは仕事の進捗によって自由にとっていいことになっているが、三島が外出するときはオフィスに鍵をかけ、スクリーンを下ろして、アナンダはメール対応や書類といった事務仕事に専念することになったそうだ。

「ところで、いつ戻って来ますか?」
 アナンダはそう聞いてくれた。
 三島の電話が続いているようなので、後程あらためることにした。電話を切ろうとしたとき、アナンダが奏を呼び止めた。
「奏さん待って、今電話が終わったので、三島さんにかわります」

 保留に切り替わると、受話器からビリー・ジョエルによる「オネスティ(誠実)」というバラードが流れてきた。外からオフィスに電話することがなかったので今初めて耳にしたが、どこかで聞いたことのある、懐かしい保留音だ。

 窓の前に手すりはあるが、左手でスマートフォンを持っているので上手く体重をかけることができない。なかば棒立ちになりながら、手すりに腰を預けてみる。右腕が手すりにぶつかったり、上体が滑り落ちたりしないように、様子をみながらそっと体重をかけていく。

 ふと、メロディが途切れた。
「やあ、棚絵さん?」
 三島の明るい声が届く。言葉は、奏の皮膚の内側で波紋のように広がっていく。

 許される日など来ない。毎朝目覚めるたびにあらためて理解する。
 生きていたい。それでも。
 もしできるなら、ここから生き直したい。

 奏は息を吸いこみながら視線を窓の外に向けた。窓の下には病院の庭が広がっていて、赤やオレンジといった暖色のダウンジャケットを着た人の姿が見える。見舞い客が押す車椅子で庭をゆっくりと横断している人たちもいる。視界の端でキラリと何かが反射した。樹の葉先に残った滴が、小さく反した光だった。

 そうか、先ほどまで雨が降っていたのか。そういえば、空が透明に輝いている。きっと雨上がりで空気が澄んでいるからだろう。その潤いのある新鮮な空気を、頬で感じたい。

 奏はさらに深く、息を吸う。
「棚絵です」
 声にすると、頬の辺りでわずかに空気が、震えた。視界の端に宿る美しさが、心を無防備にする。それは、生まれて初めて名乗ったときの実感に、似ている。               

ー了(全7章)ー

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