見出し画像

【カタリ】第6章_それぞれの破滅 (全7章)

第5章_歌舞伎町のカタリ<<

■障害年金

 気が付くと窓の外が明るくなっていた。部屋のライトは煌々とついたままだ。随分深く眠っていたようだ。奏は大きく伸びをして枕元を弄った。指は何にも探り当てない。普段は枕元に置いて寝る携帯が、今朝は部屋の隅に転がっていた。あくびをしながら拾い上げると、昨夜のことを思いだした。時刻は昼をすぎている。寝ている間、着信もLINEもメールも届いていない。

「そうか、もう終わったのか」

 初めて2人で食事をした日に、大樹がこう言ったのを思い出した。

「すべては流れだよ」

 妙に腑に落ちた。すべては、流れていく。ほんのひととき、私の傍にいただけのこと。

 いつの間にか雨が降り出していた。奏がシャワーを浴びている間に本降りになって、夕方には浴槽をひっくり返したような大雨になった。窓ガラスを叩く音を聞きながら、奏は再び眠りに落ちた。寝ている間に世界中の老廃物が洗い流されてくれればいい。真新しい世界で目覚めたなら、生き直すことができるかもしれない。

 目覚めたのは水曜日の早朝だった。すでに雨はあがっており、窓を開けると潤いのある新鮮な空気が室内にするり、流れ込んできた。携帯を見ると、7時になろうとしている。先日の夜に、浜本から着信とメールが来ていた。会社にコトから荷物が届いていると言う。記憶があいまいで自覚がなかったが、夢うつつながら奏も返信していたようだ。

「ありがとうこさ。お昼頃うかがいま」

 寝ぼけていたので指をすべらせていたが、我ながらちょうどいい設定だ。大きく伸びると、部屋の空気を入れ替える。風呂を沸かしている間に、リビングの窓を開け、コーヒーを飲んだ。先ほどよりも少しだけ陽の光が強くなったようだ。隣の家の庭で、きっちりと刈り揃えられた芝生が、朝露をまとっていた。空はゆるやかなグラデーションを彩っている。限りなく黒に近い紺色から淡い紫へ、青紫から赤みがかった紫へ。頭上ではカラスとスズメが鳴いている。

 風呂のアラームに呼ばれ、たっぷりの湯に身体を浸す。冷えた指先に体温が戻ると、徐々に意識が目覚めてきた。キッチンのテーブルに、厚揚げの煮物がラップをかけて置いてあった。コンロには味噌汁もある。もしかしたら佳澄は、奏が起きて食べるだろうかと、様子を見ながら少し待ってくれたのかもしれない。

 10時過ぎ。身支度を整えた奏が、家を出ようとすると、背後から佳澄が声をかけてきた。

「今晩、ちらし寿司でもつくろうか」

 素直に感謝の気持ちが湧いた。明るい色がちりばめられている、ちらし寿司は、奏の好物の1つだった。
「ありがとう」
 そう言葉にすると、佳澄は照れくさそうな顔をした。
「お金足りる?」

 パンプスを履きながら声をかけると、佳澄は頷いた。

「今日は振込み日だから」
「振込み? 何の?」
「私の、ほら、障害年金の」
「何それ?」
「お母さんは毎月、障害年金を受けているの」
「えっ、そうだったんだ。それって幾らくらいもらえるの?」

 佳澄は自身の障がいについて、自分から話す内容以外に具体的に質問されるのを嫌がる。奏の率直な質問に眉をひそめながらも、素直に答えた。

「……8万円ちょっと、かな」

 どうして言ってくれなかったの? そのお金は返済にあてているの? まだいろいろと聞き返そうとする奏に、佳澄は小さく笑いながら言った。

「アナゴは入れないわね」
 肩すかしをくらったようでもあり、余計な混乱を先に抑えてもらったようでもあった。
「ありがとう」

 佳澄にも収入があったようだ。あるまじきことだが、もしかしたらホストクラブへ行くお金は、もともとそこから出していたのかもしれない。手元にあるお金を使って、佳澄なりに人の面倒を見ようとしてきたのだ。その歯車がどこかで狂ったのだろう。

 また、年金を受給しながらも、社会に出て働こうとパートに挑んできた佳澄の気持ちが、奏にはわかったような気がした。佳澄は人生を諦めたくないという気持ちが強いのだ。人の面倒を見ることができるほど、自分に力があるのだと実感したいのだろう。もしかしたら、持ち家にこだわり自己破産を拒んだ理由も、そこにあるのかもしれない。

■代償

 昼ごろ、王子神谷駅に着いた。駅から会社に電話をかける。荷物は7階にあると黒澤が言うので、直接7階に向かった。黒澤は笑顔で迎え入れ、応接ソファに誘導した。部屋の奥から、郵送会社の紙パックを持ってくる。コトからのプレゼントだ。開くと中には、オーガニックコットンのストールが入っていた。やわらかなベビーピンクが一瞬、大樹を連想させた。

「お、いいやん。似合うわ」
「なんだか申し訳ないです。ありがとうございます」
「気持ちやから、もらっておき」と黒澤は言うと少し黙り込んだ。言葉を続けたとき、その表情から微笑みは消えていた。

「ちょっと迷うねんけど、一応、棚絵さんの耳にも入れておくわ」
「なんでしょうか」
「実はな、コトさんがクーリングオフをしてきてんねん」
「え?」。と、思わず大きな声をあげた。

「何か、いらん知恵ついたようやわ。これまでの契約も全部まとめて解除したい言うてきてる。他の会社にもキッチリ5年分、遡って返還請求してんのやろう」

「だって、これ」。奏がストールに目を落とすと、黒澤は続けた。

「それはコトさんが送ったんやろうな。通知は家族の仕業やろう。察するに、ほぼ同時ちゃうか。ちなみに画集も返品されてきたよ」

 項垂れる奏を、慰めるように黒澤が言う。

「棚絵さんがせっかくとってくれた契約もキャンセルになっちゃった。そこで報酬の件やねんけど。約束は、1回目の入金があった月からだよね。申し訳ないんだけど、こういう事情だから、2冊目の画集と、この前の展覧会は支払いナシとさせてほしいねん」

 皮膚の内側が毛羽立っているようだ。言葉もなかったが、絞り出すように奏は言った。
「そうですか。わかりました」

 以前の奏なら、キャンセルしたとわかる書類を見せてくれと言っただろう。しかし、わざわざ確かめるまでもない。また、その気力も残っていない。8階に顔を出して行くかと聞かれたが、奏は力なく首を振った。

 真美術出版舎の入っているビルのエントランスは、エレベーターを降りると右手に出入り口があり、左手の奥にテナントの郵便ボックスが並んでいる。ボックスにはすべて鍵がかかっている。

 奏がエレベーターから出ると、真美術出版舎の郵便ボックスの前で、片手でボックスの蓋を開いたまま、覆い被さらん勢いで郵便物を確認しているスーツ姿の男性が見えた。背が大きいためか、目立った。手元には淡いグリーンの封筒が数枚。裏返したり、透かしたりしながら食い入るように見ている。

 奏はすぐに、それが佐久間だとわかった。返信されてきた契約書の中に自分宛てのものが何通あるか確認しているのだろう。奏にも覚えがある。通常、昼食の帰りに一括して事務所に持ち帰るのだが、どうしても気になって、食事に向かう前に確認するのだ。この時間だと、今届いているのは午前中に配達された分だ。13:00少し前にもう1度配達があるので、作家が投函した時間によって、こちらが昼食を食べている間に郵便物の数が増える。

 奏にとっては別に微笑ましくも懐かしくもないが、妙に目に馴染んだ。佐久間とは面識があるわけではないので、そのまま郵便受けとは反対側に向かい、玄関を出た。しかし背後で自動ドアが閉まったとき、ふと気が付いた。

 奏が振り返る。ちょうど自働ドアが開き、佐久間がこちらに向かって歩いてくるところだった。少し長めの前髪を、大きな目の片方に少し被るように垂らしている。肌の色は白く、まるで作り物のように顔が整っている。あと数歩のところまで近づくと、向かい合った。奏の視線を感じたらしく、佐久間は顔をあげ、目が合った。そのまま逸らさずにいるので、怪訝な表情をしている。その一連の動きに合わせ、奏の心臓が激しく打つ。

 奏は声をかけた。
「佐久間さん。いえ、咲楽永遠さんですよね」

 佐久間は一瞬、こわばったように見えた。数秒の間をおいて、永遠は答えた。
「いいえ」

 穏やかだが、ハッキリとした口調だ。まっすぐに奏を見て、事実とは違うことを言う。永遠は奏から視線を外すと、駅に向かって歩き出した。少し首を突き出して、左右に振るような歩き方をする。少しだけ早く感じるのは、奏の願望だろうか。その黒い背中を追う。左肩から二の腕にかけてのタトゥは、ジャケットに隠れている。今ここで話しかけることは、デメリットのほうが多い気がする。それでも、逃がしたくない。

 陸橋の先に団地が見えた頃、ふと永遠の足が止まる。再び声をかけるタイミングを見計らっていた奏は、不意に永遠の右側に並んだ。そのまま前に回り込むと、永遠の冷ややかな視線が刺さった。

「何?」
「急に呼び止めて、すみません。以前お電話をした、棚絵と申します。あなたに小遣いを渡している棚絵佳澄の娘です。現在進行形ではないかも知れませんが、お金を返してください。父の借金を返済するために、私が稼いで、母に預けたお金なんです」
「普通、初対面の相手に、そんなこと言う?」

 やわらかな声は少し鼻にかかっていて、舌足らずな話し方をする。電話で話したときのことが蘇る。
「だって、あなた、永遠さんでしょ」
「頭、大丈夫? さっきから断定的に話してくるけど、僕たちは今初めて会ったんだよ。人違いだよ」

「前も言いましたけど、咲楽さんの写真や動画を見たことがあれば、本人だってわかります。長い前髪で目を隠していたつもりでしょうけど、咲楽さんはとても印象的な顔をしていますよ」

「テレビか何かで見ただけで、一方的に知ったつもりになって、似てるってだけで言いがかりをつけられてもね。これ以上絡んでくるなら、とりあえず一緒に交番に行こうか?」
「母がお店でどんなふうに言っていたかはわかりませんが、我が家には借金があって、父と私で返しているんです。母が勝手に使い込んだお金はとても大きな負担なんです」

 永遠の頬に、赤みがさした。その輪郭をなぞるように、永遠の周囲で怒りの感情が、静電気のようにパチパチと音を立てるようだ。
「根拠に乏しくない? そもそも借用書でもあるわけ?」
「それは」
「ないんでしょ? 黙って聞いていると、自分に都合よく解釈して、まるで鬼の首をとったみたいに言ってくるけどさ」

 この会話に覚えがある。3カ月前に会社から電話をかけたときも、同じようなことを言われた。永遠は続けた。

「だいたい、その男はサービス業を全うしただけなんじゃねえの? あんたのお袋さんだって散々楽しんだんだろう。金を払ってることを大義名分に、勝手に依存して際限なく求めて、それが返ってこないからって、都合が悪いときだけ急に被害者ぶるパターン?」

 返しながら永遠も思い出したようで、ふと言葉が途切れた。

 奏は、大樹に問われたときのことを思いだした。相手は自己重要感を埋められて、私はその対価を得る。それのどこが悪いのよ? あのとき、思わず答えたのは、本音だった。

「ていうか、こんなところで、よく偶然……」
 そう言うと、永遠のもともと白い顔から、すっと血の気が引いた。
「棚絵さん……」。奏を見つめながら、呟くように言う。

「はい」。視線を合わせたまま、奏は続けた。「でも、お店の外でお金を引っ張るために、母を騙してるじゃないですか」

「僕はその男じゃないからわからないけど、そういう娯楽なんだろうよ。それに、電話だのメールだの、店の外でも面倒くさいことに付き合ってやったんじゃない? もしかしたら、金を盾にしつこく言い寄られて、売上のために嫌々抱いたことだってあったかもしれないよね。だったら妥当な価格なんじゃないの。小遣いだかなんだかしらないけど、受け取ってやることも、そいつにとって仕事の一環なわけでしょ。それに、本人はどうしたいの? そこをお袋さんにちゃんと聞いた? あんたは俺にストーキングする前に、まず、することがあるんじゃねえの?」

 奏が黙っていると、永遠は吐き捨てるように言った。
「もういいかな?」。忌々しそうに奏を睨み、立ち去った。湿気を含んだ風が、奏の背筋を撫でた。

■まっとうな理由

 コトからのプレゼントを抱えたまま、奏は表参道で下りて、原宿、渋谷と歩き回った。気が付くと途中下車をして3時間近く経っていた。こんなに歩いたのは久しぶりだ。無駄に動き回ればその分お腹がすくだけだと、これまで会社帰りにどこかに寄ることもなかったのだ。ヒールで歩き回ったので、指の付け根がひどく痛む。

 渋谷から家まで、30分もあれば歩いて帰ることができる。いっそ家まで歩こうかと思ったが、痛みに耐えきれずに地下鉄に乗ることにした。下り電車の到着まで、まだ5分ほどある。ホームのベンチに腰を下ろすと、バッグの中から携帯を取り出した。20分ほど前に、浜元からメールが届いていた。

「プレゼントを受け取ったんやね。よかったです。ちなみに、佐久間さんも、飛んじゃった。棚絵さんにとっては、もう興味ないことかもやけど、つい言うてもた」

 毎朝、律儀に全員のデスクを水拭きする浜元の姿と、困ったような笑顔が同時に浮かんだ。

「ええー! (さっきは、邪魔しちゃ悪いなと思って、そのまま失礼しちゃいました)」
 驚いた顔文字とともに返信すると、すぐにメールが返ってきた。
「昼休みに出て、そのまま。またこのパターンやわ」

「ビックリ。あとね、ちょっと相談させてもらってもいいですか」
「どないしました?」
「いきなりゴメンなさい。佐久間さんの履歴書を、ナイショで見せてもらうことってできますか? 理由は後で話すってことで」
「そら、アカンでしょ」

「信じられないと思うんですけど、実は母と佐久間さんは知り合いだったの。しかも我が家にとって大事なことで、佐久間さんの現住所を知りたいんですよね」送信を押す前に、もう一言追加した。「訴訟を起こすかもしれないんです」

「ゴメンな。うちは非合法スレスレの職場やけど、それはやったらアカン気がする……」
「とんでもないことです! こちらこそ、変なこと持ちかけちゃってゴメンなさい」
「でも、携帯番号を知ってるんやったら、興信所を使って住所なんか調べられるんちゃう?」
「あ、そっか! ありがとう。いきなり変なこと言ってゴメンなさい。またね!」

 そう送信すると、浜元から返信は途絶えた。奏はコトにもらったストールを再び取り出して、広げてみた。袋の底に、白い封筒が入っている。手紙が同封されているらしい。取り出そうと手を入れる。指先が封筒の角に触れたとき、電車がホームに滑り込んだ。少し慌てて立ち上がると、ストールを袋に戻す。

 ちょうど帰宅ラッシュにぶつかったようで、渋谷からはおびただしい数の人が乗り込んできた。奏は人の流れに任せて、車両の奥へと進む。座席は人で埋まっているが、その前に立つことができた。これで池尻大橋に着くまでの2分間は、他人の背中の隙間で、息苦しい思いをしなくて済む。

 ベルが鳴り、発車とともに車両が揺れた。一度、大きく前に押されたが、吊り革につかまっていたので、転ばずに済んだ。姿勢を戻したとき、左手で抱えているプレゼントの隅に、先ほどの封筒の角が見えた。車両の揺れはおさまっている。奏は吊り革から手を放すと、その封筒を取り出して、開いた。

 中には、一筆箋が入っていた。鮮やかなブルーのあじさいの水彩画とともに、いつか見たコトの字があった。

「先日はお目にかかれて幸せでした。お伝え忘れてしまいましたが、あの日がお勤め最後とおっしゃっていましたね。新しい職場でもますますご活躍されることと思います。棚絵さんなら、きっと大丈夫。親切で責任感のある方ですから、誰からも信頼されて愛されることでしょう。またお目にかかれることを、楽しみにしいます。くれぐれもお身体は大切に。心から感謝致しております」

 手紙には1万円が添えられていた。

 不意に地下鉄が止まった。時間調整のために途中で1分ほど停車するという。駅に着くのがもどかしかった。池尻大橋駅に着くと、奏はなかば小走りで改札を出た。地上に出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。246を渋谷方面にゆっくりと上ってゆく車に、ライトが灯っている。

 鼓動ばかり高まって、ひどく息苦しい。電車の中から握りしめていた携帯を落とした。拾い上げると、震える指で操作した。今までの癖で「よくかける相手」のフォルダを開いたが、すでに登録を解除していた。あらためて個別に名前を検索すると、発信した。

 数秒呼び出し音が鳴っても、大樹は出なかった。諦めて切ろうとしたとき、「もしもし」と、馴染みのある声が返った。久しぶり、というほど時間は経っていない。

「もしもし、奏です。今、大丈夫?」
「うん。少しなら大丈夫だよ」
 奏は、コトからプレゼントをもらったこと、その中に手紙が添えられていたこと、餞別が同封されていたことを、ひと息に話した。大樹は小さく相槌を打ちながら聞いている。
「私、コトさんに正直に話して、謝りたい」。そう言うと、大樹は厳しい口調で言った。

「今さら何だよ。真実を告白したいのは奏が救われたいからだろう。もう関わるな。他の被害者に対しても同じだよ。まだ支払いが残っているのに、それが虚構だとわかった老人の気持ちを察してあげてほしい」

 初めてまとまった額のお金を手にしたときにも震えなかった手が、震えている。合わせて乾いた音を立てる袋の中で、コトの手紙が揺れている。大樹は続けた。

「前に奏は、仕事が忙しいって言っていたときに『大学に戻るっていう夢が私を支えてる』って言ってたよね。想像してほしい。僕の婆ちゃんにとっても、奏が騙った話は、夢だったんだよ」

「わかった」絞り出すように奏が言うと、大樹は続けた。
「僕にとって、とてもつらい選択だったんだけど」
「うん?」

 さらに胸が締め付けられた。奏との別れを指してくれているのだろうか。
「まさか、こんなにつらいとは思わなかった。自分で情けなくなったよ」

――私も。

 奏がそう言うとしたとき、大樹が言った。

「奏のことは伏せたけど、婆ちゃんに騙されていると説明して、すべての契約をクーリングオフした。中には食い下がってくる会社もあるから、場合によっては裁判になると思う。今はその準備をしているところ」

「そう、だったんだ。コトさんは何て?」

「泣いていた。僕たちがバイトしていたギャラリーとか、趣味で集まっている団体の人たちもそうなのかと聞くから、ひとつひとつ調べて、安全なものを教えてあげると安心したみたい。ただ、僕が調べている間に、これまで仲良くしてきた絵の会の真偽を一瞬でも疑ってしまった自分が悲しいと言っていた。とくに、絵の会で仲良くしているお友達を、奏が関わっていたような出版社に紹介してしまったことがあったみたいで、それをひどく悔いていた。一緒に出展料を払って展覧会に小さな絵を出展したそうだよ」

「どこの展覧会?」

「会社名は書類を見ないと、すぐには思い出せない。場所は海外だったらしい。聞いたこともないような小国だったよ。チケットを大切にとっていたから、見せてもらったけど、インターネットでも調べ当らないような美術館だったよ。写真を見せてもらおうとしたら、国賓以外には見せることのできない特別な展覧会だからと言って、婆ちゃんは自分が出展したにも関わらず、画集を購入しないと会場の写真さえ見ることができなかった。それに、自分の絵の写真を画集に掲載するのにも、さらに数十万円というお金がかかるから、婆ちゃんとお友達は展覧会へ出展しただけで、会場の写真さえ見ていないと言っていた」

 次の電車が到着したようで、駅の出口からどっと人が溢れてきた。奏は背中を押されながら、人気の少ない暗がりへ移動した。

「婆ちゃんがもっとも心配していたのは、奏のことだった。奏は美術の勉強のためフランスに転勤するって言ったんだって?」
「うん」
「婆ちゃんの言葉をそのまま借りると、嘘の会社なのでしょう、講義料といって何百万円も騙し取られていなければいいんだけどって、そう言っていた」
「うん」
「だから、僕もよく知らないけど、奏が留学するのは会社とは直接関係のない、ちゃんとした教育機関みたいだよ、と言っておいたよ。とてもつらかった」
「ごめんなさい」
「それを今さら、婆ちゃんに何を告白するつもりなんだよ。少しでも婆ちゃんを思いやってくれるなら、もう二度とこういうことに関わらず、僕たちの前に現れないでくれ」
「わかった」。言い終わらないうちに、電話は切られた。

 リビングのライトが消えていた。奏はスイッチを入れると、プレゼントをソファに置いた。窓を開けて換気をする。コーヒーを淹れている間、ソファに寝転がった。腱を伸ばしていると、マブタがとろりと重くなった。

 心地よい微睡に滑り込もうとしたとき、ドアが叩きつけられるような音がして、目が覚めた。 

 人にでも会ってきたのか、余所行きの恰好をした佳澄が、脚を引きずりながらリビングに入って来た。佳澄は昔から、少しでも特別な用事にはシャネルのツイードのスーツを着る。そのスーツのボタンがとれかかっている。顔も赤く腫れて、髪の毛がボサボサに乱れている。

「奏! あんたって人は、どうしてわざわざ家の恥を晒したの!」
 そう叫ぶと、グシャグシャになった1万円札を数枚、奏に向かって投げつけた。
「え?」
永遠とわにもう迷惑をかけないで」

 そう言うと、一方的にわめきちらした。佳澄の話をまとめると、今日の昼過ぎに永遠から久しぶりに連絡があり、佳澄は新宿に呼び出されたそうだ。待ち合わせのカフェで、永遠は席につくなり佳澄に詰め寄った。そこで初めて奏とのやりとりを聞いた佳澄は狼狽したという。

「もしかしてあんた、俺からのLINEを娘に見せてんの?」

 佳澄が首を振る。永遠は携帯の動画撮影ボタンを押すと、財布から1万円札を数枚取り出して佳澄に投げつけた。そして佳澄は、娘が永遠に金銭を要求したことを認め、今後一切彼にかかわらないと約束させられたそうだ。

 振り向きもせずにカフェを出て行く永遠を佳澄は追いかけた。手渡そうと準備していた10万円を、バッグから取り出して押し付ける。変わらず友好的であると示したかったのだ。古びたテナントビルの前で追いつくと、永遠の腕を掴む。しかし簡単に振り払われた。そのままエントランスの奥に引っ張られ、佳澄は顔と腹に殴る蹴るの暴行を受けたそうだ。ビルは開店前だったため、人気がなかった。

 永遠が立ち去っても佳澄は動けなかった。ようやく立ち上がった拍子によろけて、地下1階へ続く螺旋階段を数段、転がり落ちた。


「返済にあてるべきお金に手を着けたことは謝るけど、お店に通うお金は、自分の収入からも出していた。私はただ、あの子を応援したかっただけなのよ」

 そう言う佳澄を奏は衝動的に責めようとしたが、脚を引きずりながら自室に逃げ込む佳澄の背中を見ると、何も言えなくなった。

 先ほど開けたままになっていた窓から、小さな虫が飛び込んできて、ライトにぶつかった。

棚絵たなえ 雄一郎ゆういちろう

 翌日は、午前中と昼に1件ずつ派遣会社の登録会に行った。1件目は新宿で、2件目は半蔵門だった。いずれも1時間半ほどで終わった。その後は何の予定もなかったが、奏は池尻大橋を乗り過ごし、スーツのまま二子玉川に向かった。

 二子玉川駅で電車を下りると、水の匂いがする。目の前に多摩川が広がり、ゆったりと流れながら午後の陽を反している。6月とはいえ、今日は夏のように暑い。心なしか解放的な構内では空気が軽い。奏は改札を出ると、川沿いの土手を数分歩く。

 奏が高校生の頃までは煙草屋だった場所が、真新しいコンビニになっていた。幅の広い川はところによって浅いらしく、強い日に照らされた中洲に、数羽の白サギが水を飲んだり羽を休めたりしている。川のせせらぎに重ねて、遠くから草野球の声援が聞こえてくる。対岸の橋付近に白いユニフォームの野球少年が、並んで自転車を引いている。奏の背後を、ランニングを着た青年が駆け抜けて行った。

 土手を下り、適当な場所で寝転がってみる。視界の端に青々とした草が力強い額をつくるが、その向こうに抜ける空には雲ひとつない。深呼吸をすると、昨夜のことが脳裏に蘇る。

 その時、太ももの辺りに置いていたバッグの中で、携帯が震えた。派遣会社がさっそく仕事を紹介してくれるのだろうか。起き上がってバッグから携帯を取り出すと、発信者は雄一郎だった。目を疑う余裕もなかった。電話に出ると、おだやかな懐かしい声がする。

「もしもし、奏かい」
「うん」
「元気かい?」
「うん」
「今、どこにいる?」
「どこって。多摩川だけど。お父さん、急にどうしたの?」

 こんなふうに電話するのも2年ぶりだ。話したいことは溢れ続けるが、眩暈がするほどに心臓が鳴って、ほとんど言葉にならない。

「悪い。急だったね。お父さんは今家に帰っているんだけれど、奏は何時頃戻れるだろうか」
「家にいるの?」

 聞き返した声は、自分でもそうと分かるほど驚きでうわずっていた。奏は「20分くらいで帰る」と答えると、そのまま駅に向かった。

 頭に響くほど心臓が打っている。池尻大橋の駅に着くと、改札を出て家まで走った。息を切らしてリビングに入ると、雄一郎がソファに座っていた。水色のコットンシャツを着て、紺色のスラックスを履いている。佳澄は、まるで身を隠すように白いカーディガンを着て、少し離れて座っている。奏は、テーブルの前に敷かれたクッションに腰を下ろした。

「着替えてくるかい?」
「ううん、いい」

 奏はそう言うと、ジャケットだけ脱いでバッグに乗せた。これまでも雄一郎は、定期的に佳澄と連絡を取り合っていたそうだ。いつものように電話をすると、今日はとりわけ佳澄の様子がおかしい。仕事がひと段落したこともあり、すぐに帰宅して本人から昨夜のことを聞いたと言う。

「奏からも、何があったのか聞かせてもらえないだろうか」
 奏は頷くと、昨日あったことを話した。佳澄にとっては初耳のこともあったと思われるが、佳澄は俯いたまま黙って聞いていた。
「そうか」。雄一郎は静かに頷く。

「私、お母さんの借金のこともわかったよ。相手のホストとも話したけど、お金を返してはもらえなかった」
「連絡をとるうえで、奏はあぶない目には合っていないかい?」
「うん、大丈夫」

「そうか。向こうも商売だからね。彼の話は99%騙り文句だから、何を言われても信じないように。もう奏が連絡をしてはいけないよ。警察を通して解決しているから、あとはこちらに任せて」

「わかった。あとね、お父さん……」

 もう嫌だよ。そう訴えようとして、声がつまった。涙を浮かべている奏に、雄一郎は静かに言った。

「負担ばかりかけて、本当に悪かったね。奏がいてくれなかったら、どうなっていたかわからない。とても感謝しているよ。そして、もうここまでにしよう」
「え?」

「時間をかけてしまって申し訳ない。お父さんは、自己破産することにした。来月には家に帰るつもりでいたから、そのときに報告しようと思っていたのだが。今日は寮に戻るが、すぐに手続きをして、できるだけ早く家に帰るね」
「寮?」
「そうだよ。聞いていないのかい?」

「うん。なんだかいろいろ聞くと責めてしまいそうだったから、お父さんのことは何も聞かなかった」

 奏が言うと、雄一郎は静かに笑った。紆余曲折を経て雄一郎は現在、昼間は週に5日ほど肉体労働をしながら、洗足にある寮を拠点に夜と休日を使って健康食品の個人輸入の代理店をしていた。

 インターネット上にお店を持ち、日本と諸外国の双方で注文を受け付ては、問屋から卸したものを配送している。寮は個室だったが商品を保管しておくには手狭になってきた。池尻の家には元店舗のスペースが空いている。雄一郎はそこを商品の倉庫として活用できると考えた。そのこともあり、そろそろ家に戻る予定だったという。

 こんなに近くにいたのかと、あらためて不思議な気持ちになった。池尻大橋の実家から、王子神谷の真美術出版舎に通勤するよりも近い場所で雄一郎は働いていたのだ。離れて暮らしている間に、雄一郎と佳澄の間で何度か離婚を検討したようだ。まず離婚して奏は佳澄とともに暮らし、雄一郎は自己破産をするという案が随分前から出ていた。

「今日話してみて、あらためて覚悟が決まったよ」
「お母さんも働けばいいじゃない。あんなふうに1年以上も、具合が悪いふりをして、それをいいことに飲みまわっていたんだから」
「そうだね。でも、お母さんのことを、そんなふうに言わないであげなさい。こちらが悲しくなるからね」
「はい」

 雄一郎はそれだけ言うと、静かに息を吐き、ようやくソファに背中をつけた。佳澄は涙を拭きながら、「お茶でも入れよう」と立ち上がる。何もかも実感はなかったが、奏の全身から力が抜けていった。


最終章【棚絵たなえ かな】につづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?