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【カタリ】第5章_歌舞伎町のカタリ (全7章)

第4章_ほころび<<  

■永遠に貢ぐ女

 奏はそのまま佳澄の部屋に走った。

「お母さん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

なかば乱暴にドアを開けると、佳澄はベッドに横になったまま寝ぼけ声を返した。

「大きな声を出さないでよ。それに勝手に部屋に入らないで」

 そう言うと佳澄は枕元の時計に目をやる。午前3時を少し過ぎている。ため息をもらす佳澄を見て、奏は声を荒らげた。

「ゴメン。でも、大事な話なの」

 佳澄はだるそうに唸りながら体を起こした。奏は感情を押さえながら、今までの経緯を話す。佳澄は目を丸くして奏を見上げた。

「あなた、水商売までしようと思ったの? まるでお金の亡者だね」

「話の軸はそこじゃないから」

 永遠の件を切り出した。家の近所で何度か見かけたことや、誕生祭のボトルの件を問い詰めても、佳澄は首を振るばかりだ。

「お母さん、この人と知り合いなんじゃないの?」

「知らないわよ」

「じゃあ、どうして家の前で何度も見かけたの?」

「知らないわよ。偶然この近所に住んでいるんじゃないの?」

 確かにそうかもしれない。ただ、どうしても疑惑が晴れない。

「なんなの一体? 奏はどうしたいのよ」

 忌々しげな佳澄に、奏は直感のままに問うてみた。「ねえ、もしかして、この人のお店に通ってる?」。佳澄の顔がわずかに硬直した。

「いいじゃない、そんなこと」

「お母さん、ちゃんと納得がいくように答えて」

「いろいろと子どもにはわからない付き合いがあるのよ」

 佳澄は抵抗しながらも、とうとう白状した。

 奏が高校を卒業した直後である2年前の春頃から秋の終わりにかけて、佳澄は歌舞伎町のホストにハマって散財していたそうだ。相手は24歳だという。奏より幾らか年上ではあるが、さほど変わらない。2年前の12月頃に、貯金を奏の学費に充てると言ってくれたが、佳澄が把握していなかっただけで、その頃には貯金などとうに使いきっていた。そればかりか雄一郎が返済のために佳澄に預けたお金も、すっかりホストに貢いでいたという。さらには、店に70万円もの「売り掛け」と呼ばれるツケまであったらしい。

 もともとは経営者の奥さん仲間の1人に、こう誘われたのが切っ掛けだという。

「家の恥をさらすようだけれど、数カ月前に家を飛び出して行った息子が、最近は歌舞伎町でホストをしているみたいなの。私立探偵を雇って怪しいお店に目星をつけたんだけれど、やっぱりこの目で確かめてみたい。相場を調べたら、初回は数千円しかかからないらしいのよ。その料金は私が持つから、棚絵さんも一緒に行ってくださらない? こんなことをお話しできるのは、棚絵さんだけなの」

 そのときに出会ったのが永遠だった。永遠は数年前にテレビのドキュメンタリー番組で取り上げられたことのある有名ホストで、その顔に佳澄もなんとなく見覚えがあった。当時に比べて勢いは落ち着いたものの、現在はインターネットで定期的に配信される動画番組にレギュラー出演しており、ときどきテレビの深夜番組に出ることがあるそうだ。永遠は佳澄に、ホストを上がった後に自分で起業したいという夢を語った。どこまでが事実でどこまでが営業トークかは未だにわからないが、経営者の妻である佳澄と話は合った。目標額を貯金するためにホストをしていると話す永遠に、昔の雄一郎を見た佳澄は、応援したいと思ったという。

 店に2回ほど2人で行って、結局その店に探している息子は働いていないことがわかった。奥さん仲間はそこでホストクラブに行くのを止めたが、3回目以降は佳澄が1人で通うにようになった。店の中で癲癇の発作が出たこともあったが、他にも酔って倒れている女の子が何人かおり、ホストも慣れた様子だったという。永遠に煽られるままシャンパンなどのボトルを入れ、会計が手持ちを越えた日を境に、売り掛けで飲むことが増えた。徐々に金銭感覚が麻痺し、いつの間にか月に50~80万円はお店で使うようになっていた。

 永遠とは一緒に食事をしてから同伴出勤をすることが何度かあっただけで、それ以外に店の外で会うことはなかった。週に1回ある店の定休日にも、永遠は起業や経営に関する学校に行ったり、人に話を聞きに行ったりして忙しかったからだ。

「起業のことで聞いてほしいことがあるんだ。奢るから店に来てくれない? 佳澄ちゃんにしか相談できなくて」

 こんなふうに店に呼ばれた日が少なくなかった。営業ではない。個人的に頼られている自分は、選民であると佳澄は感じていた。しかし店に行くと、永遠は席について数分もすると別の席に行ってしまう。呼び戻すには、佳澄も相手より高価なお酒を注文する必要がある。店では料金を多く払ったお客様が優先されるからだ。

 永遠が母親の意向で子どもの頃から芸能事務所に所属していたことを、佳澄は永遠本人から聞いた。どこまでが誇張された「キャラクター設定」で、どこまでが「事実」なのか、佳澄にはわからない。もしかしたら永遠自身にもわからなくなっているのではないだろうか。ただ、言われてみれば整った永遠の顔は、テレビCMやドラマで、メーン俳優の横に立っているのを見たような気がしたものだ。

 3年前、永遠の言葉を借りれば「ストーカーばりに執着してくる女性社長の、独占欲とセクハラに耐え切れず」自ら所属事務所を辞めるときに、永遠は事務所に借金を負わされたという。永遠を直々に送迎するなど特別に目をかけてきた社長が、先行投資としてつぎ込んできた資金に、違約金を上乗せして請求してきたそうだ。永遠側は裁判を起こそうとしたが、事務所側に圧力をかけられて引き下がった。その時点では、状況が落ち着き次第別の事務所に移籍して、タレント活動を再開するつもりでいたからだ。

 しかし現実は甘くなかった。他の事務所に永遠はトラブルの種として認識され、仕事をすることが叶わなかった。くすぶっていたそんな折、新宿アルタ前で歌舞伎町のホスト店代表を名乗る男性にスカウトされた。年齢は20代前半といったところか、永遠とそう変わらない。しかし着古したパーカー姿の永遠に対して、男性は派手なスーツに身を包み、高価そうな時計を着けて身なりを整えていた。

 君ならすぐこれぐらいは稼げるようになる。そう言ってホストがチラつかせた高い給料と煽て文句に乗せられて、永遠は軽い気持ちでホストになった。しかし「一般人にまざってこの俺様が働いてやっている」と言う態度で客に接したため、周囲の予想に反して3カ月以上売れなかった。そのため今度は店に60万円ほどバンス(給料の前借りによる借金)ができた。ここまでは佳澄が永遠に聞いた話だ。「佳澄ちゃんだから、こんなことまで話せる。他の人には見せられない素だよ。だからこの話は俺たちだけの秘密にして」。甘えた声でそう言われると佳澄は5万、10万と小遣いを渡すのだった。

 しかし、とうとう売り掛けが払えないときがきた。お金を工面できなかった佳澄は、雄一郎にありのままを告白した。本来は返済に充てる予定だった雄一郎からの送金に手をつけていたことも謝罪した。普段は冷静な雄一郎も、そのときは激怒したそうだが、結局は佳澄の後始末をしたそうだ。

 ふと奏の耳に、誕生日に聞いた雄一郎の声が蘇った。大学を辞めてほしいと言った時、雄一郎は「家に借金があることがわかった」と言った。今思えば、雄一郎は佳澄を庇っていたのだ。あのとき雄一郎は、どんなに問い詰めても詳細について口をつぐんでいた。理論立ててものごとを捉える雄一郎を、よく佳澄は「感情が薄くて、体温が感じられない」と揶揄している。しかし、己の感情に酔って事実を歪曲する人間より、雄一郎のシンプルさは、何倍もあたたかいのではないだろうか。

 佳澄は絞り出すような声で話していたが、奏の心には何の影響も及ぼさなかった。心をよせる価値もない。奏の頬を、怒りとも落胆とも軽蔑ともいえない感情が溢れて、伝った。さらに驚くことには、年が明けて永遠が系列店に移動してからも、佳澄は雄一郎に隠れて何度か足を運んだと言う。気づくと奏は怒鳴っていた。

「ひどいよ! 私がどんな思いで稼いだお金だと思ってるの? お母さんは働けないぐらい具合が悪いんじゃなかったの?」

 佳澄はうなだれて奏の罵倒を受けていたが、謝ることはなかった。

 ふと佳澄は顔を上げると、ホストに逃げ場を求めた原因として、雄一郎への不満を訴えはじめた。奏が聞きたくないと怒鳴ると、都合の悪いことには耳をふさぐところが雄一郎にそっくりだと言って、話の論点をすり替えようとした。しかし、奏は許さなかった。

「今話してるのは、お母さんが小僧に散財したことだよ。その分だけでも今すぐ私に返してよ」

 そう詰め寄ると、佳澄は布団を被って泣き始めた。ここで引き下がると、こういう人は味を締めて、この先も分が悪くなると毎回すぐに泣いて逃げるだろう。わかってはいたが、これ以上は奏のほうが持ちそうになかった。

「明日も仕事だから、もう寝るわ。私の睡眠だけは妨害しないでね」

 そう言って佳澄を睨むと、自室に戻って鍵をかけた。結局その晩は悔しさのあまり、一睡もできなかった。

 数日後、新たなことがわかった。その日の奏はネガティブ思考で、相手の何気ない言葉に傷つき続けていた。どうにも気持ちが奮わなかったので、昼過ぎに会社を早退した。池尻大橋の駅を出ると、数メートル先に永遠に似た男を見かけた。246で下りのタクシーを止めようとしている。

 背中にスカルの書かれた赤いジャケットを着ていた。身長が高いこともあり目立つ。ブラウンの髪はセットされていなかったが、すぐに本人だとわかった。246から枝分かれしている駅前の路地に、ちょうど軽自動車が曲がってきていたので、奏は足止めを食っていた。しかし目は永遠を捉えていた。道が空くと思わず駆け寄ったが、永遠はちょうどタクシーに乗ってしまい、結局は追いつけなかった。帰宅後すぐに佳澄に聞くと初めこそシラを切っていたが、すぐに小遣いを取りに来ていたことを白状した。

 佳澄はこの2年半の間、永遠に小遣いを渡し続けていたそうだ。最初は「財布を落とした」と言われ、次は「お客さんに売り掛けを飛ばれて、自分が借金を背負うことになった」と泣きつかれた。その後「財布に今、2百円しか入ってない」と言われたり「明日から携帯が止まる。そうなったら佳澄ちゃんと連絡がつかなくなっちゃう」と泣きつかれたりした。

 さらに、奏がときどき家の近所で永遠を見かけたのは、小遣いを取りに来ていたからだった。渡す額も徐々に大きくなってきて、最近は1回会うごとに3~50万円を渡すと言う。2週間~1カ月に1度会うというだけで、佳澄は合計額を把握していなかった。回数を数えさせると、おぼろげながら7回くらいと答えた。ざっと見積もっても約300万円に上る。そのお金を佳澄は、雄一郎からの送金から少しずつ抜き取って工面していた。

 話を聞き終えると、奏の目の前が暗くなった。雄一郎に相談したかったが、佳澄から聞いた番号は既に使われていなかった。奏はショックのあまり、そのまま気を失うように寝てしまった。言い知れぬ虚しさと孤独感がまとわりついて、窒息しそうだった。

 翌日、奏は携帯電話の解約を盾に、佳澄から永遠の携帯番号とLINEのIDを聞きだした。出勤前に何度か電話をかけたが、すべて留守番電話に切り変わった。吐き気がするほど緊張したが、メッセージを残した。

「初めまして。棚絵と申します。昨日は家に来ていらっしゃいましたよね。母から事情を聞きました。我が家には借金があり、私と父とが働いて懸命に返済している最中です。こういった状況ですので、もう母からお金を受け取らないでいただけないでしょうか。また、お金を返していただけませんでしょうか。まずは法的機関よりもご本人にご相談しようと、お電話をした次第です。お忙しいところ誠に恐れ入りますが、一度お話しさせていただけますと幸いです」

 横で聞いていた佳澄は、なぜ自ら家庭の恥をさらすようなことをするのかと耳まで赤くして怒っていたが、冷ややかな視線を向けると、僻みっぽい反論をいくつかし、そのまま自室に逃げて行った。

 損した分を取り返したい。奏は少し迷ったが、永遠のLINEにも同じ文面を送信した。夕方には既読になっていたが、特に何も動きはなかった。

 永遠に電話がつながったのは、翌週の火曜日の昼だった。黒澤とデザイナーは終日外出しており、ちょうど浜元が昼食に出て、奏が事務所に1人のときだった。小中学校が春休みに入る前に、何とか契約書を回収しようとクロージングに集中していたが、ふと思いついて永遠の携帯を鳴らしてみた。

「ああ、何度か連絡をしてきた人ね」

 電話の向こうで永遠は、穏やかに返した。やわらかな声は少し鼻にかかっており、舌足らずな話し方をする。もっと甲高い声で、まくしたてるような早口でしゃべるのかと思っていた奏は、少々面食らって挨拶をした。

「突然お電話をかけちゃってゴメンなさい」

「いえ、慣れてるから。ところで、おっしゃっていた事情はわかりました。で、結論から言うとね、僕には覚えのないことだから、お金をあなたに渡すことはできないよ」

「あなたが家にいらした日、母が複数回に渡って、あなたに小遣いを渡していたと白状しました。それに私自身、咲楽さんの姿を何度か、我が家の近くで見かけたことがあります」

「そうは言うけどさあ、僕たちは面識がないじゃない。人違いだよ。似たような雰囲気の男なんて山のようにいるじゃん」

「咲楽さんは目立つから、写真や動画を見たことがあれば本人だってわかりますよ。家の恥をさらすようですが、ともかく我が家の経済状況はお話ししたとおりですので、母が勝手に使い込んだお金はとても大きな負担なんです。法的機関に訴える前に、ご本人に事情をご斟酌いただきたいと思って、不躾ながらお電話をした次第です」

「うーん、さっきから断定的に話しているけど、根拠に乏しくない? そもそも借用書でもあるわけ?」

「それは」

「ないんでしょ? 黙って聞いていると、ただ偶然が重なったことを自分に都合よく解釈して、まるで鬼の首をとったかのような言い方をしてくるけどさ、棚絵さんだっけ? あなた僕の立場を想像してみてよ。見ず知らずの人に個人情報を勝手に共有されて、言いがかりをつけられて金銭を要求されている。先ほどからあなたが印籠のようにかざしている法的機関とやらに助けを求めるべきは、むしろ僕のほうなんじゃないの?」

 奏は何も言えずにいると、永遠は続けた。

「また同じようなことを言ってくるなら、それはもう脅迫だと感じるから、こっちも相応に動かざるを得ないんだけど」

 奏は返す言葉がなく、「でも」、「だって」と繰り返すだけだった。永遠は「もういいかな? 仕事の前に少しでも休んでおきたいんだよね。あと、俺は今、あなたに恐怖を感じてるよ。二度と連絡してこないで」と言うと、電話を切った。

■恐怖の正体

 3月中旬のある週末。代々木公園で東南アジア・フードフェスティバルが開催し、大樹に誘われて奏も遊びに行くことにした。このところ大樹は課題が増えたらしい。ギャラリーのアルバイトも辞めて勉強に専念していたので、2人が会うのは約3週間ぶりだった。

 13時に渋谷駅で待ち合わせた。奏が地下鉄の階段を上りきると、すぐに大樹は気付いて、片手をあげた。くの字に曲げたままスッとあがる右腕の動きが相変わらずスマートだ。水色のポロシャツの衿の内側に、ピンク色のラインがアクセントとして入っている。

 空は晴れ渡り、まるで初夏のような陽気だ。光が燦々と降りそそぎ、街路樹の枝のつぼみも生命力にあふれている。大樹とただ並んで歩いているだけで、奏はとても満ち足りた気持ちになった。途中、ファッションビルの立ち並ぶ一角で信号待ちをした。ちょうど奏の背面には銀行の展示ギャラリーがあり、洋画や日本画や書が数点展示されていた。今まで気にして見たことがなかったので、展示物が定期的に交換されているのかどうかはわからない。

 そのとき奏は、大樹に名前を呼ばれるまで、ガラスの向こうを食い入るように見ていた。競合他社の雑誌だったか展覧会の図録だったかは定かでないが、太筆で力強く1行だけ書く、文字を擬人化したような書体には見覚えがあった。他の絵には作家名が添えられていたのに、その書にだけは名前がなかった。大樹を振り返るときにわずかに、ガラスの向こうからお金の匂いがした。携帯で写真を撮ると、その場で会社のパソコンにメールした。そのときからずっと、その書が頭にこびりついて離れなかった。

 この人からは、幾らとれるだろう? 代々木公園で大樹の友達と合流し笑顔でハイタッチしていたときも、シンハービールを飲んでいるときも、ドリアンを食べて笑っているときも、頭の隅には、明日の朝一番に電話しようという気持ちが湧き上がっていた。

 月曜日。奏は出社すると挨拶もそこそこに、記憶を頼りに図録を捲った。黒澤が数年前に、競合他社の展覧会で買ってきたという図録の片隅に、その書の写真があった。渋谷で見たものとは違っていたが、文字を擬人化した書体は同じだった。そこで初めて、作家の名前に辿りついた。

 野見山風雅。

 普段ならまず前日契約した人にクロージングの電話をするところだ。とくに月曜日は、週末の間に作家の気が変わっていることが少なくないので、契約書の返送状況を念入りに確認することにしていた。けれどこの日は、パソコンを立ち上げると名簿ファイルで野見山の名前を入力し、契約状況を確認した。野見山は展覧会だけ毎回契約している。分割回数は少ない。

 真美術出版舎では現在、「アールヌーベルヴァーグ展~燦~」という展覧会の営業をしている。展覧会の後には、同じ作品を画集に掲載する企画が控えている。展覧会の参加費は10万円、画集は30万円前後の予定だ。メモ欄には「夫は評論家の野見山昌三。もうやらない」と書かれている。しかし、最後の契約から4年も経っている。出展を控えていた理由はわからないが、経済的な理由であれ何かしらのトラブルであれ、ほとぼりが冷めるには十分だろう。

「イケる!」。そう直感した奏は、すぐに野見山に電話をかけた。

――ダメ!

 同時に奏の脳裏には、うるさいくらい警鐘が鳴り続けている。奏の中で小さな点と点がつながっていく。この作家の名前を見た瞬間から、かつて奏を追いつめた男のキツネ顔が浮かんでいた。当然だ。忘れるはずがないじゃないか。彼の父親は美術評論家だと聞いた。ほぼ間違いない。野見山風雅は、野見山健吾の母親だろう。

「いけ!」

 身が千切れるような激しい抵抗を感じながら、そこに向かって自ら加速していく。まるでエンジンを噴射しながら滑走路を加速する航空機のようだ。今、野見山に電話をかければ、これまで辛うじて奏を支えてきた、相手のいい所を発見して教えてあげたいという心は完全に損なわれるだろう。ただ憎しみから言葉を選び続ければ、二度と以前の自分に戻れなくなるに違いない。

――どうか電話に出ないで。

 そう願いながら、眉ひとつ動かさずに矛盾した行動をとる。1度目は留守番電話に切り替わったので、前の週に契約していた人へのクロージングを挟み、20分ほどしてから再び電話をした。

 備考欄には、こうも書かれていた。「長男は大学助教授で現代美術を教えている。次男は才能がない。次男の話題はNG」。ウェブ運営会社で奏が現代美術の話をしたときの、野見山のイラ立った顔を思い出した。あれ以来、厳しさが増したように感じて、野見山の地雷を踏んでしまったに違いないとは思っていた。そうか、劣等感を刺激してしまったのか。呼び出し音を聞きながら、心の中で何かが確実に死んでいく。しかし一方で、それまで奥底に押し込めてきた魂が、激しく燃え上がっている。

「この恨み……」。奏が呟くと同時に、呼び出し音が止む。

「はい、野見山です」

 高い声の女性が出た。書体の感じから勝手にエネルギッシュなイメージを持っていたが、声からは華奢な印象を受ける。

 陸と機体の脚が、離れた。

「野見山風雅先生でいらっしゃいますか。わたくし、真美術出版舎の棚絵と申します」

 奏が言うと、野見山は気のない返事を返した。その声には警戒心が滲み出ている。

「突然のお電話を申し訳ございません。先生、渋谷の銀行のギャラリーにお作品を展示されていらっしゃいますよね?」

「あら、そうなんです。よくおわかりになりましたね」

 野見山の声のトーンが変わった。その隙に奏は素早く滑り込んだ。

「わかりますよ! 美術に関わっている人間なら当然、野見山先生のお作品を見逃すはずがありません。実は一昨日ジェイコブ・マルコビッチ先生をNHKのほうにお連れしたときに、タクシーが偶然お作品の前の信号で止まったんです。そのときたまたま窓の外を見ていたマルコビッチ先生が突然、『タクシーを発進しないように!』と大きなお声を出されて、そのまま外に走って出て行かれたんです」

「まあ、本当? そういうことってあるかしら」

「野見山先生はマルコビッチ先生とご面識がおありなんですよね?」

「いいえ、初めて聞くお名前です」

「あっ! そうでしたか、大変失礼致しました。マルコビッチ先生のお口から、勉強会の度に野見山先生のお名前を伺っていたものですから、勝手にお話しを進めてしまいました」

「勉強会?」

 するり、たらした吊り針が、魚の口に入った。奏はにわかに興奮した。口調が早くならないように注意しながら、普段の営業通りにジェイコブ・マルコビッチはフランス人の有名な評論家であることを伝え、日本の既存団体を遠回しに貶し、日本国内と海外とでは評価の高い美術家が違うのだと伝えた。野見山の相槌の打ち方から、警戒心などとうに吹き飛んでおり、こちらに関心が向いていると伝わってくる。奏の胸に、ある種の冷酷な興奮が首をもたげる。

 どう? 気持ちいいでしょう。自分の存在が肯定されて必要とされている状態は。自分の哲学を心のままに語ることができて、相手に喜ばれると満たされるでしょう。

 騙っていると時おり現れる恍惚感が、今も奏の頬を撫でていく。イマジネーションがほとばしる。奏は微笑みながら、電卓を叩いた。野見山の反応によって一括で納金させるか、分割回数に応じて、通常より金額を上乗せしよう。

 時計を見ると、電話で7分も話っている。ちょうどいい節目だ。奏は釣り糸を静かに引き寄せるように用心しながら、展覧会の営業に話題を切り替えた。いつものように展覧会の内容を騙り、野見山が特別に優遇されると騙る。野見山がどのタイプの作家かはまだわからないが、今日の奏にはラッキーなことに、「スピリチュアル系」、「グローバル志向系」、「権威系」を同時に刺激できるネタがある。

「マルコビッチ先生がタクシーを止めたまま出て行ってしまったので、私も慌てて追いかけたんです。野見山先生のお作品は一番左側に展示されていましたよね。マルコビッチ先生はガラスに張り付くようにして野見山先生のお作品を見つめておられ、『まさか野見山の作品を生で見られるなんて。今回、日本に来てよかった。このところハードスケジュールが祟ってあまり体調がよくなかったから、正直に言うと今日の取材も乗り気ではなかったんだ』とおっしゃったんです。野見山先生のお作品にだけお名前が添えられていませんでしたが、私もすぐにわかりました。あれほどまでに宇宙のパワーを宿した書を生み出すことのできる方は、日本では野見山先生のほかにいらっしゃいませんから。マルコビッチ先生は今回、私たちがお手伝いしている画集の監修と、今お話しした展覧会への招待作家を選定するために日本に滞在しています。有名な評論家ですので、滞在期間中はどうしても様々なメディアの取材を受けざるを得ません。NHKのほうに向かっていたのも、その一環です。時間が迫っていましたから何とか先生をタクシーに戻そうとがんばったのですが、マルコビッチ先生は、『今回のアールヌーベルヴァーグ展には野見山の書は絶対に外せない。ご覧、この躍動感と宇宙エネルギーに満ちた筆の運びを』とおっしゃいました。私も同感でしたので、『わかりました。すぐ野見山先生にご参加をお願いしますから、ともかくNHKのほうに急いでください』とお願いしてなんとかタクシーに戻っていただいたのです。これは必然というか、運命だと思います。高次の意志によるお導きだと思うのです」

 相槌の感触から野見山が「スピリチュアル系」だと踏んだ奏は、会話に必然・運命・宇宙エネルギーという単語を盛り込んだ。30分ほど話したろうか、野見山の食いつきが悪くなる度に奏はタクシーの一件を持ちだした。すると野見山はその度に笑った。

「そうですね、きっとそこで赤信号になったのは必然だったんだわ。だってその展示作品には名前も添えていなかったのに」

 そういうと野見山は、10万円を2分割で契約した。電話を切ると、これまで味わったことのない達成感があった。逆恨みではあるが、あの2カ月間の仇は打った。社内では、とりわけ黒澤が驚いていた。

「そうかぁ、野見山さんは復活したんやな。もうずっとお金がないって言って出てこなかったんですよ」

「でも、旦那さんも評論家だとデータに書いてあるので、マルコビッチ先生のことを旦那さんに確認されたらどうしょうって、ヒヤヒヤしていましたよ」

「あ、それは大丈夫やねん。ここだけの話なのですが、あの2人はもう長いこと別居してはるんですよ」

「そうなんですか」

「備考の所に、『二男の話題はNG』って書いてるでしょう? 昔ちょっとだけ聞いた話なんですけどね、風雅さんは野見山さんの後妻さんなんですって。長男は亡くなった先妻さんとのお子さんで、二男が風雅さんの子どもなんですけど、それがまったく芸術の才能がなかったらしいんです。どんなに教育に力を入れてもまったく見込みがなくて、それでとうとう『野見山家の看板に傷がつく』と野見山さんが怒らはって、勘当するのしないので、とうとう家庭に亀裂が入ったんですって」

「そんな、いくらなんでも大袈裟では」

「戦前から芸術界に名前を残してきはった家ですからね、僕たちとは感覚がまた違うんちゃいますか」

「でも、奥様はこういう企画に乗るんですね」

「展覧会に出すのは好きみたい。二男の件があるからか、才能を認められることにはとても弱いんです。噂によると、風雅さんのDNAの質についても随分責められたっていう話ですからね。でもね、展覧会には出しても、評論文のつく画集は、絶対にやりませんよ」

 その話を聞きながら、奏の中で野見山に対するこだわりが氷解していくのが分かった。目の前に立ちはだかる恐怖の壁などではなかった。ただのネズミのように小さな魂が震えながら、正論をふりかざして八つ当たりをしてきただけに過ぎないのかもしれない。奏の考え方は屈折しているのだろうが、少なくとも、恐怖の正体がわかったことで、過去に対するあらゆる感情が薄らいでいった。

「まあ、いろいろあるんですね」

 黒澤がそう言うと、浜元が言った。

「実はこの前、僕も営業してアカンかったんですよ」

「それはハマちゃんが甘かったんや」

 そう言いながら黒澤はホワイトボードの奏の名前の下に、数字の「1」を書き加えた。

 想像力が暴走するのに任せていた奏は、現実にゆっくりと戻った。このところ集中して営業をする間、まるで何かに憑かれているように自分で自分がコントロールできなくなった。

 たいてい相手の話を聞きながらノートの片隅にボールペンで落書きをしていたのだが、以前はピースマークやテディベアだった絵が、最近ではページ一杯のヒビや目玉やドロドロに解けたケーキや人形、棺といった縁起の悪そうなものばかり精巧に描いていた。この日も同じだった。できあがったその絵を見た瞬間、耳を境に身体の後ろ半分がベリッ! と音を立ててはがれ落ちたような気がして恐怖が走った。また、つい先ほどまでの達成感は消え、言い様のない虚しさに飲みこまれた。

 その日の帰り道。事務所を出て駅まで歩いている間、何度か不意に悪寒がした。目黒方面へ上る地下鉄では、身体を背もたれに預けて後頭部を窓ガラスで支えていた。振動が頭蓋骨の響くが、ヒヤリとした感触が気持ちいい。鼻先に見える吊り広告では、大手就職情報誌が主催の就職相談イベントについて宣伝していた。相談ブースを出す企業の一覧の横に、奏ぐらいの年齢の、爽やかな男女が写っており、大きくコピーが書かれていた。

「大変だったけど、がんばってよかったな」

「この人の幸せにつながる仕事をしよう」

 言葉が目に飛び込んでくると同時に、心が強く反発した。それでいて、広告が目に焼き付いてひどく息苦しい。地下鉄が後楽園を過ぎ飯田橋に差し掛かろうとする頃、奏は耳を境に身体の後ろ半分が妙に熱を持ち、ところどころ痒いことに気が付いた。徐々にひどくなり、永田町に着く頃には、ピリピリとした痛みに変わった。南北線から半蔵門線に乗り換えるため、いつものように長い下りエスカレーターに乗る。ホームまでは30メートルはあるだろうか。ゆっくりと降りるとともに、奏の気力もゆっくりと、確実に低下するのがわかった。家に帰って鏡を見ると、耳の後ろから背中にかけて、赤い湿疹が出ていた。

「ああ、ここが限界なんだ」

 泥濘に足をとられながら限界に向かって匍匐前進しているような日々だったが、とうとう止まるときがきたようだ。これまでにも辞めたいと思ったことは何度もあったけれど、今回は本気だった。

■奏の限界

 奏は翌朝、下りの地下鉄の中で、黒澤に伝える「退社理由」を考えた。仕事の内容を否定するような言い方は避けなければならない。もしかしたら黒澤は、辞めた後に奏が余計なことを吹聴しないように、奏にクギをさすだけでなく、その場合に備えて奏の弱みを握ろうとするかもしれない。

 気分の変動が激しい奏は、他人の気分についてもまったく信用していなかった。今は打ち解けた仲間だとしても、数時間後にどう思われているかはわからない。例え本心から微笑んでいたとしても、瞬間的なものだ。実際に退社するまで3カ月は勤めることになるだろう。その間に何が起こるかわからない。給料の支払い履歴も何かの証拠になるだろう。何より黒澤には実家の住所を知られているのだから、履歴書を取り戻しただけでは何の防御にもなるまい。

 その日、どのタイミングで伝えようか探っていたけれど、黒澤と事務所に2人きりになることがなかったので、結局は言いそびれてしまった。翌日も同じだった。いつものように冗談を言った黒澤に対して、浜元が突っ込んで、みんなで爆笑したときは、ふと「このままここにいるのも悪くないな」という気分になった。

 浜元にはランチのときに話した。いつもの喫茶店で、2人ともナポリタンを食べていた。奏が告げると、浜元は大きなから揚げを運ぶ手を止めた。あんぐりと開けた口がゆっくりと閉じられて、表情もわずかに暗くなった。数秒の沈黙の後に、こう呟いた。

「ほんまですか。いや、ほんまですよね。そらそうやわな」

 奏は理由を言おうとしたが、浜元は目線を手元から上げた。

「そのほうがええと思います。兄貴には言えましたか?」

「いえ、まだ黒澤さんには言っていないんです」

「そうですか。話してくれてありがとう。兄貴も気持ちよく見送るはずやけど、もし何か面倒なことを言われたら俺に言うてください」

「ありがとうございます」

「淋しくなるけど、最終日はできるだけ早いほうがええでしょうね」

「そうですね」

 その後、浜元はすぐに話題を切り替えて、この店のからあげの味や、最近太ったことなどを冗談まじりにぼやき、つとめて明るく接してくれた。

 とうとう黒澤には話すタイミングを掴めないまま水曜日になってしまった。今日こそは伝えようとタイミングを狙っていたが、結局それは叶わなかった。午前中は会社に全員揃っていた。昼時に黒澤と2人になったものの、奏は問い合わせの電話があったうえに営業電話が長引いてしまい、まったく話せなかった。しかも黒澤は午後になると出かけてしまい、とうとう戻ってこなかったのだ。そこで奏は、会社帰りに自分の携帯から黒澤の携帯に電話をかけた。

「ちょっと事情がありまして、すごく残念なんですが、会社を辞めさせていただかなければならなくなりました」

 カタリのときは流暢に言葉が出るのに、このときは情けないほど、たどたどしい言い方だった。もっともらしい退社理由を考えていたにもかかわらず、黒澤はそこに一言も触れなかった。

「そうですか。わかりました」

 あっさり言うと、そのまま黙った。少しは引き留められると思っていたので、いささか拍子抜けだった。その後も会話が続く雰囲気でなかったので、合計1分も話さずに電話を切った。

 翌日出勤すると黒澤から奏に内線電話がかかってきて、7階に呼び出された。これまでに奏が7階に入ったのは数えるほどしかない。エレベーターのドアが開くと、馴染みの薄い空気が緊張を高めた。

 黒澤の専用フロア兼、倉庫になっている。広々としており、活気のある8階とは違って静まりかえっている。部屋の隅みには、10号ほどの絵が数点、梱包されたまま立てかけてある。「アールヌーベルヴァーグ展~燦~」の開催まで2カ月半もあるというのに、出展契約の済んだ作家の中に作品を送ってよこす人がいるのだ。

 預かることで作品に傷がついたという言いがかりをつけられないためにも、基本的に作品の受け付けはゴールデンウィーク明け以降にしているのだが。一方で、開催日の直前にならなければ作品を送ってよこさない人もいる。カタリ業界の大手出版社によって長期間、作品が保管されている場合があるのだ。競合他社の展覧会への出展を阻止しながら、自社の展覧会に連続出展させるためだ。

 来客用のソファに誘導されると、奏は腰を下ろした。黒澤は退社理由については一切触れず、淡々と今後の話をした。

「棚絵さんには今まで本当にがんばってもらって、感謝しています。会社として、今すぐにというわけにはいかないのをわかってもらえたら嬉しいねん。最長でも3カ月以内にとは思っているけど、これから求人広告を出して、どのくらいで新しい人が決まるかわからないので、何とも言えない。でね、新しい人が決まったら、場合によっては棚絵さんに2週間くらいは指導してほしいねんけど」

「わかりました」

「ハマちゃんには僕からも話すし、棚家さんから話してもらっても構わないからね。今の展覧会が棚絵さんにとって最後の展覧会になるけど、最後まで頼むね」

「はい、よろしくお願いします」

 自分で言っておきながら、何の実感も湧かなかった。ただ、職探しはすぐにでも始めなければならない。そのためにも、退社日の目途はつけておきたいと思った。

 8階に戻ろうと立ち上がると、ちょうど宅配業者が荷物を届けに来たところだった。ダンボールで包まれた、10号ほどの作品だ。奏がサインをする横で、黒澤が受け取り、事務所の奥に運んでいく。荷物の内容の欄には、人によって「芸術作品」と書かれていたり、「絵」とだけ書かれていたり、作家のタイプによってまちまちだ。今回は「絵・額縁・ガラス」と書かれている。

 何気なく差出人を見て、奏は胸が締め付けられた。そこにはやわらかな筆跡で「神門コト」と書かれていた。

■カタリの新人

 前に求人広告の会社に勤めているときに、卒業や入学など一年の節目である3、4月に転職する人は少ないと聞いたことがあるが、真美術出版舎が求人広告を出すと応募は複数あったそうだ。まだ他の会社に勤めているため、こちらへの入社日が先になる人を除いて、15人ほど黒澤が面接をした。2週間ほどすると女性が2人加わった。

 「アールヌーベルヴァーグ展~燦~」の営業開始と時期が重なったため、奏と浜元は営業に専念し、新人の指導にはもっぱら黒澤が当っていた。奏たちが腰を据えてアドバイスすることはできなかったが、新しい企画の営業が始まったばかりの頃は、入れ食い状態でもある。社内には適度に活気があり、マニュアルをもとに指導するよりもいい手本になるだろう。

 黒澤が行ったレクチャーは基本的に、奏が受けた内容と同じだ。ただ、奏が入社したときよりも評論家や美術団体が架空であることを慎重に伏せている印象を受けた。新人は美術の雑誌と「アールヌーベルヴァーグ展~燦~」の企画書および簡単な営業トークマニュアルを目の前に広げて、目を泳がせながら電話をかける。1人が電話をかけている間は、もう1人は黒澤と一緒に傍らで見ている。

「おめでとうございます! このたび先生は、アールヌーベルヴァーグ国際名誉賞に輝かれました」 

 棒読みだ。その横で黒澤は小声で「誉めて!」だの「元気よく!」だの言って煽る。新人はトークマニュアルを覗き込みながら続ける。

「高名な評論家なので先生もご存じでしょうが、ジェイコブ・マルコビッチ先生を中心としたフランスのさる美術団体が選定しました」 

 受話器を持つ手が小刻みに震えている。緊張からだろうか、それとも恐怖からだろうか。彼女は雑誌に視線を移すと、作品のいいところを誉め始めた。このエサは、いったい幾らに化けるだろう。そう思いながら、奏は電話機のボタンを押した。

 1人は初日の午前中に電話を1本かけただけで、ランチに出たまま戻って来なかった。もう1人も翌日から出てこなかった。すぐに次の候補に連絡を取って急きょ2人が採用となったものの、彼らも1週間も持たずに辞めていった。これが普通の感覚なのだろう。

 その後、あらたに面接をした女性がいたが、その日のうちに辞退の電話をかけてきた。新しく入ってくる人の反応を見ると、奏は自分がしていることを否定されている気がして、やりきれなかった。どんな理由であれ、結果的に1年以上も続いたのだ。自分では気づかなかったけれど、奏は感覚が完全にズレているのだ。

 大樹とは変わらず1週間から10日に1回は会っていた。カタリの電話をかけるときのように、意識を切り替えて接したが、時間が経つごとにそれも難しくなってきている。一緒にいるときに大樹から、コトに雑誌掲載の営業電話が掛かってきたという話が出ることがあるからだ。

「受賞したと言うんだけど、婆ちゃんは別に応募していないそうなんだよね」

 そう言われたときは、シラを切りながらも恐怖に似た罪悪感を覚えた。課題と平行して調べているのに、大樹はどんどん情報を集めているように思う。そのうち、奏の素性がわかってしまうのではないだろうか。奏は大樹といつだって一緒にいたかったが、一方で、課題が忙しくて会えない日には安堵してもいた。

 1カ月ほどかかったろうか、ゴールデンウィーク明けに新しく2人の女性が入ってくると、ようやく社内も落ち着きを取り戻し始めた。1人は保険会社で電話営業をしていたという22歳の好川涼子。耳下5センチほどのショートボブで、穏やかな雰囲気のOL然としたタイプだ。声質にも顔だちにも、これといった特徴はない。入社間もないので余所行きの顔をしているのだろうと思うが、入って3日経っても「当たり障りのない普通の人」という印象で、申し訳ないが会社の外ですれ違っても気づかないだろうと思われた。

 しかし、この普通さがいいのだ。ときどき奏は展覧会や作家のレセプションパーティなどで、他の会社の人と接触があった。カタリの業界では、グローバル・アート出版社の篠岡のように、実在の人に関する事実でないことを平気な顔で、どんどん発展させて貪欲に契約をとっている女の子が多いのだと思う。妙にテンションが高かったり、熱く語ったりするアクの強いカタリが跋扈する中、素人だからこそ安心して話を聞いてくれる層は確実にいる。

 2人目は元銀座のギャラリーで接客をしていたという30歳の山﨑かずえ。彼女は明るくて、一緒にいるとこちらまでパッと照らしてくれるようなタイプだった。特に日本の美術団体に関する知識が豊富で、笑顔を交えながら教えてくれる。その様子も内容もとても魅力的だった。団体の成り立ちや派閥など、一般的に出回っていないような情報まで知っていた。

 銀座のギャラリーでは売上に応じて給料が変動する、いわば完全歩合制で絵を販売していたらしく、そういう裏の人間関係を知っているのといないのとでは、収入が大きく左右されるのだという。また、長時間の接客が日常茶飯事だったようで、たいてい長時間に渡るカタリにもニコニコと対応していた。社交辞令も上手くクセのある人への対応にも慣れていたが、なまじ美術への審美眼があるだけに、カタリの電話をかける腰がやや重く、電話の途中も苦しそうな顔をしているのが気になった。

 奏は2人に対して慎重に接した。先輩面などもっての外で、お客様として大切に扱った。身銭を切って一緒にランチに行くこともあったし、顧客を引き継ぐときは、自分がどんな気分のときでも笑顔を心がけ、相手が失敗してもいいところをみつけて誉め続けた。

 4月に続けて新人が辞めていったことで面倒くさくなったのか、黒澤は好川と山﨑の指導を奏に任せた。真美術出版舎のローカルルールだけでなく、営業の手法についても指導してほしいと言われたとき、奏はすぐに歩合の交渉をした。

 新人が契約をとったら、その分は百%奏に還元してほしい。もしくは、奏がこれまでに稼いでいた歩合給の平均額を、指導手当として別途支給してほしい。これまで奏は、歩合給を月に3~50万円ほど稼いでいた。他人にかかずらうことで失うには大きな額だ。簡単な話し合いの末、指導手当として月に40万円が支給されることになった。条件として、好川と山﨑それぞれが、1日に1本ずつ契約をとることを目指す。

 奏が担当している作家の内、企画へ積極的に参加する人や経済力のある人は浜元へ引き継ぎ、それほどでもない人を好川と山﨑へ30人ずつ引き継いだ。1日2、3名ずつ営業してもらって、あとは新規開拓をしてもらうつもりだった。

 2人と奏は年齢が近いこともあり、いつの間にか友達のように下の名前に“ちゃん”づけで呼び合うようになった。しかし、友情など微塵も感じなかった。今この瞬間に集中して一緒にいるだけで、自分も相手も、人の気持ちがそれ以降も同じように続くとは思わない。今はまるで親友のようにわかり合えたとしても、明日も同じ情熱を互いに持てるとは限らない。

 2人の面倒を見ている傍ら、奏は担当している作家の中でも特に親しい人たちには電話をかけて挨拶をした。作家は全国各地に点在しているので「彼氏の転勤について行く」とは言わず、あくまでも2年ほどフランスに転勤すると伝えた。

「ジェイコブ・マルコビッチ先生のところに研修に行くんです」

 お世話になったお礼を言っているときは、心から感謝の気持ちが溢れていた。友人や弟子を紹介してくれた人もいたし、話していて勉強になったことも少なくなかった。作家たちに挨拶をした後「今度あらためて新任の者から電話をさせますので、どうぞいろいろ教えてやってください」と言っておいた。

 正直に言えば、作家と彼女たちの関係性ができていったり、会社の中にどんどん2人の居場所ができていったりすると、少しずつ淋しさも感じた。けれど、一銭にもならない感傷に足を引っ張られている場合ではない。好川と山﨑。どちらか1人だけでも、2週間続 いてくれさえすればいい。そうすれば奏は円満に足を洗える。

 5月下旬にさしかかった頃、山﨑が辞めていった。厚意が踏みにじられたばかりか、奏の退社日がズレるかもしれない。そう思うと猛烈に腹が立った。山﨑が急に辞めて以降、好川にはより一層、丁寧に接するようにした。

 辞められないように、営業の引き継ぎの際にも精神的に負担をかけないように注意を払った。後任者が定着しないことに黒澤も頭を抱えていたようで、すぐに新しい人を面接することにした。今度は佐久間純也という24歳の男性だった。求人サイトからエントリー用紙が送られてきてから2カ月が経っていた。佐久間は当時、会社に勤めていたので面接までことが運ばなかった内の1人で、黒澤が電話をかけたとき、ちょうどアパレルの販売会社を退社する折だった。

 佐久間が会社を訪ねてきたのは、6月に入ったばかりのある午前中だった。約束の5分前に会社のチャイムが鳴った。ちょうど奏は他の電話に出ており、対応したのは浜元だった。佐久間は背が高いようで、パーテーションからダークブラウンの頭が半分見えていた。やわらかな声は少し鼻にかかっており、舌足らずな話し方をする。

 オフィスの左奥にはシンプルなテーブルを置いている。奏たちの席とはパーテーションで区切られており、そこで打ち合わせや簡単な来客対応をしている。佐久間の面接もそこで行うようだ。

「どうぞおかけください」

 浜元はそう言うと、刷り上がったたばかりの画集「アールヌーベルヴァーグ」を、佐久間に手渡した。濃紺の背景に、タイトルを金に見える特色を使って印刷することで重厚感を出した。A4ほどのサイズで厚さは5センチを超えている。

「今、黒澤が参りますので、それまでこちらをご覧いただけますか」

 そういうと浜元はニコニコしながら席に戻ってきた。「めっちゃイケメンやで」小声でそう言うと、再び名簿に目線を落とした。

 パーテーションのこちら側では、3人で画集の先行営業の電話をかけ続けている。数日後にせまった「アールヌーベルヴァーグ展~燦~」の出展者を対象に、記念画集への掲載を1ページ30万円で売っているのだ。金払いのいい「太(ふと)客(きゃく)」から優先的に営業しており、「出展者の全員にお声がかかるわけではございません。特別なお話なので、どうぞまだ公表はお控えください」と添える。

 これは展覧会場でゴネられることを避けるための方便で、1週間後には出展者全員に対して営業する。

 こちらの声は、佐久間の耳にも届いているはずだ。どう感じるのだろう。ふと、奏は自分が面接に来た日のことを思いだした。あのとき手渡された画集の厚みは2センチ弱だった。紙の厚さがちがうこともあるが、参加者も相当増えている。

 画集のページをめくりながら黒澤の電話が終わるのを待っている間、専門的に美術を勉強したこともないし、作家についての知識もない自分が採用してもらうにはどうアピールすればいいだろうと、不安になったものだ。もし願が叶うなら、あのときに戻ってやり直したい。

「お待たせしてすみません、黒澤です」

 黒澤が7階から上がってくると、佐久間は立ち上がったようで、パーテーションから頭が半分見えた。

「本日はお忙しいところ、お時間をいただきありがとうございます。佐久間純也と申します。よろしくお願い致します」

「うわー、イケメンですね。芸能のお仕事とかされていたんですか」
 黒澤がそう言うと、浜元が小声でつっこんだ。「いきなり何を言うとんねん」奏と好川も笑いながら、次の電話をかけた。

「へえ、24歳なんやね。もっとお若く見えますよねえ」

 黒澤の声から、徐々に奏の意識は電話の呼び出し音に移り、集中していく。電車で見て以来、あの吊り広告の言葉が何度も目の前を過ぎる。もう少し。あと少しで、ここから抜け出せる。深く息を吸い込みながら、奏は自分に言い聞かせた。

■ 溺れゆくアヒル

「棚絵さん、起きてる?」

 その声にハッとして、奏は目を開けた。

 一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。真っ白い壁に囲まれた、天井の高い室内。壁には絵や書や写真などが並べてかけられ、中央のテーブルには小さな彫刻と工芸作品が並べられている。

 壁に大きく「アールヌーベルヴァーグ展~燦~」と印刷されたポスターが貼られているのを見ると、奏は我に返った。どうやら短い時間、眠ってしまっていたようだ。

「ちょー、起きてや」

 黒澤が笑いながら展示室に入っていく。奥で浜元も笑っている。昨日のレセプションパーティでひと段落したような気持ちになっていたが、展覧会は金曜日から日曜日までの3日間。まだ2日目だ。いや、いよいよと言うべきか。好川の出社が続いていることと、新たに佐久間の入社が決定したことで、奏は今回の展覧会をもって退社することになった。佐久間が前の職場を完全に退社するまでまだ少し期間があるので、彼の入社よりも奏の退社のほうが先になる。

 真美術出版舎のデスクは、木曜日の夜に整理整頓し、空にした引き出しの奥まで拭き掃除を済ませている。会社で使っていた私物はすべて捨てた。水拭きに使ったマイクロファイバークロスだけは、浜元が使いたいというので残してきた。今は給湯室の隅にたたんで置いてある。いつも持ち歩いていた自作のマニュアルは、帰宅するやいなや細かく刻んでゴミ箱に放り込んだ。

 一通り整理が済んでから大樹に電話で報告すると、とても驚いていたが、そのうち少し呆れたように笑った。会社を辞めることについて初めて聞くのだから無理もない。次の就職先がまだ決まっていないことを心配していたが、最終日に向けて休日を返上して出勤すると言うと、「じゃあ、来週のどこかでお祝いをしようか。がんばってな」と言ってくれた。

 これで、少しは正々堂々と付き合うことができるだろうか。退社の意志を伝えてから2カ月半。ようやくここまでこぎつけた。あと1日半で、カタリ人生が終わる。晴れやかな気持ちの中に、わずかに名残惜しさもある。

 奏はあらためて周囲を見回した。展示室は、昨日パーティを行ったレストラン「華」に併設されており、階段を下りた地下1階にあった。奏は受付を担当していた。金曜日は好川と2人体制で、土日は人材派遣会社から女性スタッフに来てもらった。

「どうぞよろしくお願いします」

 奏はそう微笑むと、派遣社員に説明を始めた。来場者にはできるだけ芳名帳に名前を書いてもらう。作家が来場した場合は基本的に担当営業が挨拶をするので特徴を覚えておく。来場者が重なっている場合は、手の空いている者が対応する。

 作家の多くは昨日のパーティに併せて展覧会にも来ていたが、週末だけあって今日も来場者数が多い。昨日乾杯の音頭をとった佐伯が、今日は数人の友人を連れて来ている。このように、前日のパーティに参加した人で、2日目も足を運んでいる人が何人かいる。

 奏は50代の活発そうな痩せた女性に声をかけられた。すぐには思い出せなかったが、挨拶をしながら相手を観察した。ベージュのワンピースは昨日のパーティで着ていたものと似た形ではないか? 手に持っている淡いピンクの巾着袋は、パーティでも持っていなかったか? 持ち手の近くにあしらわれた大きなシャクヤクはどうだろう? 似た形のコサージュか何かを着けていなかっただろうか?

 パーティでは全員に名札をつけてもらっていたので対応しやすかったが、今日はそうではない。名前を呼ばずに、相手を認識していると伝えるために、奏は記憶力をフルに使って会話を続けた。彼女には同行者が数人いた。そのうちの1人が彼女に呼びかけたとき、奏は名前を思い出した。森井澄子だ。

 他にも昨日の会で打ち解けた人たちが出入り口に溜まって談笑している。彼らをそれとなく場内に誘導するのも受付の仕事だった。出入り口では頻繁に携帯のフラッシュが光っている。作家たちが撮影してはブログやSNSにアップするのだ。奏は名前と顔を勝手に晒されないように神経を尖らせていた。黒澤も浜元も同じだ。

 作家に同行して他社の営業も何人か来場した。グローバル・アート出版社のしーちゃんこと篠岡衣理もやって来たそうだが、黒澤がランチに連れ出したおかげで、奏と接触することはなかった。他にも名前を聞いたことのある同業の姿が散見された。中でも業界大手である某雑誌社の社員は目立った。森井が連れてきたのだが、彼女を囲む3人の男性がゾロゾロと移動する様子には威圧感があった。

 彼らは長年、真美術出版舎の3倍の料金で、安定的に売り上げている。随分と強引な営業をすると黒澤から聞いていたし、分割回数が少なく、あくどい手段で回収するという話も、どこからともなく聞こえていた。真美術出版舎の本棚にビッシリと揃えられている営業資料は、大半がこの会社から発行された雑誌だ。森井はもちろん、この展覧会に出展している作家もほとんどが、もとは彼らが開拓した客だった。

 一度はその場を離れかけた奏だが、森井に呼び出されて3人の中の1人と名刺交換をした。紺色のスーツを着た中肉中背の男は眼光が鋭く、奏は全身の産毛が逆立つような緊張を覚えた。男性の名刺には「評論委員・幹部」と書かれていた。

「河原さん」。奏が名刺を読み上げると、男性は笑顔で応えた。

「ええ、よろしくお願いします。御社の社長さんとは古い付き合いでね、昔からお世話になっているんですよ」

「さようでしたか、ただいま呼んでまいります」

「いえ、それには及びません。お忙しいでしょうから、森井先生と一緒に、ゆっくり芸術品を鑑賞させていただきますよ」

 一見すると男は、親しみやすい人だった。顔がツヤツヤしていてよく笑う。しかし、その笑顔が余計に奏の警戒心を煽った。内心は面白く思っていないはずだ。きっと状況を探りがてら、黒澤を威圧しに来たのだろう。男は奏と森井の目をまっすぐに見つめながら、事実ではないことを言う。腹を探り合いながら談笑するのは本当に疲れる。汗をかきながら受け流そうとしている奏に、横から別の作家が声をかけてくる。ようやくその場を離れると、誰かに呼び止められ、また別の作家の来場を告げられる。その連続だ。藻がからまって溺れゆくアヒルのように、奏は接客に追い立てられていた。 

「棚絵さん。コトさんが来てはるで」

 浜元にそう告げられたとき、奏はバックヤードで塩にぎりを食べながら放心していた。無防備な腹に突然、鉛が突っ込まれたような衝撃を覚える。

「え! お1人ですか?」

 ムセながら聞いたが、浜元は接客に戻ってしまって答えはなかった。30分の昼休憩は残り10分ほどだった。時間をかけて歯を磨き、身をすくめるようにして会場に戻る。コトには帰っていてほしいと願っていた。受付に座ると、コトとは別の作家が来場した。奏が担当している人だ。

 奏はイスから立ち上がると、会場に背を向けて接客をし始めた。数分ほど経ったろうか。その間はなるべく声を発しないように、ただ笑顔で頷いていた。話は上の空で視界の端で近くにコトがいないか警戒していた。作家を会場内に見送ると、奏は浜元に声をかけた。

「あの、コトさんはまだいらっしゃいますか?」

「あれ、さっきまでおったんやけどな。帰らはったみたいやね」

「そうですか」

「でも社長が挨拶してたから大丈夫ですよ」

「ありがとうございます」

 安堵した拍子に、全身の力が抜けそうだった。受付に戻ると、見覚えのある巾着袋が台の上に転がっていた。淡いピンク色で、大きなシャクヤクの飾りがついている。どうやら森井が忘れていったようだ。彼らは階段を上っている最中のようで、笑い声が響いてくる。

 奏はできるだけ展示会場の外に出たくなかったが、黒澤に言われてしぶしぶ追いかけることにした。受付をしているので常に来場者の目にさらされているはずなのに、地下であり、ほぼ関係者しか来ないというだけで、不思議と第三者の目から身を隠しているような気持ちになっていた。

 階段で1階に向かう。作家たちは階段を上りきったところだ。追いついて巾着を渡すと、作家の背後にガラス張りの正面玄関が見えた。エントランスは光に溢れ、地下展示室とはちがって平和な空気が流れていた。

 大きな長方形のソファに腰掛けている人たちには、奏と年の近い人の姿がたくさん見える。階段の左手にも展示室があり、そこではテキスタイルの展覧会が開かれている。ポスターによれば服飾やインテリアに使われる織物が展示されており、ファッションの流行などを辿ることができるそうだ。エントランスにいる多くはきっとそこの客だろう。シンプルな服装の人たち。中には奇抜な服装の人もいるが、みな洗練された雰囲気を醸し出している。

「まあ、ありがとう。どうも私って、おっちょこちょいなのよねえ」

 森井は会話を続けたい様子だったが、奏は受付に戻らなければならないと言い、その場を離れようとした。強い違和感のせいか、なんとなく嫌な予感がした。

 階段の右手に、手洗いがある。ちょうど出てきたお婆さんが、杖を鳴らしながら、奏たちの前をゆっくりと横切っていた。エントランスのソファに座っている青年が、立ち上がって手を振った。

「婆ちゃん、こっちだよ」

 聞き覚えのある声に視線を上げると、それは大樹だった。

 目が合った、かもしれない。

 いや、まさかそんなことはあるまい。だいたい大樹がここにいるはずがない。

 全身を思いが駆け巡り、血の気が引いた。

 忘れ物をした作家が、笑顔で奏に声をかけた。

「ありがとう。じゃあ棚絵さん、またね」

 動揺しながらも会釈をすると、その声にお婆さんが振り返った。

「あら、棚絵さんっておっしゃった?」

「え」

「まあ、あなたが棚絵さんなのね、嬉しいわ。神門です。いつもお電話をありがとう」

 コトは奏に近寄ると、ぶ厚い老眼鏡の奥から嬉しそうに見つめた。透明であたたかな眼差しに、奏は凍りついた。大樹はソファからこちらに歩いて来ると、不思議そうに微笑む。

「あれ、奏じゃん。驚いたな。どうしてここにいるの?」

 コトが大樹に言った。

「大樹、こちらがさっき話した、担当の方。棚絵さんよ」

「え? 婆ちゃん何言ってるの、奏には何度も会ってるだろう」

「普段は電話だけですものね。とてもお若くて、可愛らしい方ですね。でも、とても勉強熱心で、シッカリした方なのよ」

 コトは大樹を振り返った。大樹は状況が飲みこめたのだろう。孫だと紹介されて固まっている。コトも、奏たちがすでに知り合いであったと理解したようだ。とはいえ家で数回、キャンパス越しに言葉を交わした娘だとは気付いていないらしい。眼鏡をつけていない場合はほとんど見えないというのは、どうやら本当のようだ。

「大樹のお友達なら安心だわ。ね? だから若いのにシッカリしたいい方だって言ったでしょう? 大樹は何でも心配してかかるんですよ、今日も私が騙されているんじゃないかって心配してついてきたの。でもこうしてお目にかかれてよかったわ」

「そうですね」

 もう、スイッチを切り替えることができない。しどろもどろで答える。コトは話を続けようとしたが、大樹は止めた。

「婆ちゃん、暗くなる前に帰ろう」

 そう言うと大樹はコトの肩を支える。名残り惜しそうに手を振るコトを出口に促しながら、チラリと大樹が向けた視線は、奏に今すぐ自分の存在を消し去りたいと願わせた。

「後で電話する」

 別れ際に大樹がいつも言う言葉だったが、こんなに冷たい響きは初めてだった。コトは手を振り、奏も会釈で返す。ガラス扉の向こうで、鳥の群れが一斉に飛び立った。

「マジかよ?」。大樹の呟きは、奏の心の声と同時だった。

 今すぐ、この世界から消え去りたい。

 翌日の夜、大樹から電話が来た。奏は送別会を兼ねた展覧会の打ち上げを早々に切り上げて家に帰っていた。バッグの中で携帯が鳴ったのは、ちょうど自室に戻って、上着を脱いだときだった。奏は鉢合わせ以来、内臓が腐っていくような痛みを味わい続けていた。電話を心待ちにしていたようでもあり、避けたくもあった。ただ、大樹には許されたいと願っていた。重い沈黙の末、大樹は言った。

「聞きたいことはたくさんあるんだけど、まずは奏が勤めている会社の業務内容をきかせてほしい」

 奏は、求人広告に書かれていたことを基に答えた。真美術出版舎は、美術書の出版社である。住所は北区東十条。従業員は3~4名。うち3名が社員。1名が業務委託。平均年齢は26~27歳。業務内容は、展覧会の開催と画集の出版。奏は美術家に対して企画を提案し、画集への作品の掲載依頼や展覧会への出展依頼をしている。

 大樹の反応から、腑に落ちていないことが伝わったので、奏は少し慌てて、「最近では、自費出版を取り扱うことも多くなってきている」と付け加えた。いつだったか、作家の家族から問い合わせの電話がかかってきたときに、黒澤がこう答えていたからだ。

 ふと、黒澤に百万円の束で引き留められたときに、「守秘義務」について念を押されたことを思い出した。契約している作家の個人情報はもちろん、会社が公開していない、業務に関する情報について話すことは情報漏えいになるのだろう。

 大樹は静かに唸ると、言った。

「その作家たちは、どのような基準で選別されているの?」

「主に公募みたい。あとは、上司が選別してくれる。その基準については、よくわからないんだ」

「よくわからないって、1年以上も働いていたのに?」

「うん、よくわからない。あまり首をつっこみたくないなと思って」

 過去に別の会社から騙された経験がある人を優先的に選んで営業している、とは言わない。

「奏はさ、自分で決めて、やっていることなの?」

 奏は静かに答えた。

「うん」

「どうして?」

「ゴメンなさい」

「逃げないでちゃんと答えて。どうしてこんな、詐欺まがいの事をしているの?」

「まとまったお金が必要だから」

 そう言うと奏は、家の事情を話した。奏は、ある意味で被害者だ。正当な理由があって、カタリをしている。いや、それだけではない。本当はずっと前にわかっていた。自分より社会的立場のある相手を分析して契約に持ち込む度に、奏は相手より優位に立った気がして優越感に浸っていたのだ。これまで味わい続けてきた、他人と上手く関われないコンプレックスを、埋めたような気になっていたのだ。

「そうだったんだ。奏は1人で大変な思いをしていたんだね」

 奏は胸が詰まり、泣き出しそうになった。

「でも、こう言ってはなんだけど、まとまったお金を稼ぐんだったら、夜に働くっていう選択肢もあったわけじゃない?」

「向いてないし、嫌だったの」

「では、カタリは嫌じゃなかったということかな」

 消去法ではなく、カタリを選んでいる。奏はあらためて自覚した。作家と話しているうちに想像力が爆発するような瞬間があって、奏自身も想定していなかったような物語が不意に口を衝く。また、他人の欲望をお金に替える。そのことを面白いと思っていた。

 言葉に詰まっている奏を見透かしたように、大樹は言った。 

「最近は勉強を優先して、なかなか会えなかったし、奏のおかれている状況に気付いてやれなかったことを申し訳なく思ってる。でも、奏のことを以前のように、自分と同じ道にいる人とは思えないんだ」

「ちょっと待ってよ。私だって大樹くんみたいに、人の役に立つ仕事がしたいよ」

「そう思いたいよ」。長い沈黙の後、大樹は言った。「俺が婆ちゃんのことを相談したとき、奏はどんな思いで聞いてたんだよ?」

 2人でアルバイトの帰りに寄った、日本橋のタイ料理店が脳裏に浮かんだ。2月の下旬だった。街のいたるところに雪が残っていた。大樹は「お通し」の温かい碗を両手で包むように持っていた。活気にあふれた店の中で、大樹は深刻な顔をしていたが、それでも華やかなベビーピンクのシャツが似合っていた。あれから3カ月しか経っていないのに、ずいぶん昔のように感じる。二度と戻れないほど遠い。奏が答えられずにいると、大樹は冷ややかに言った。

「どうしてあんなに平気な顔で嘘がつけたんだ。正直に言うと、僕が詐欺師を見抜けなかったことがショックなんだ。こんなに人を見る目がなくて、人を弁護なんかできるんだろうか。心を整理するためにも、少し時間がほしい」

 曖昧な言い方をするものだ。二度と俺の目の前に現れないでほしいと言われたほうが、どれだけ楽か。奏の中で糸がプツリ、切れた。

 ふん、と鼻を鳴らすと奏は言った。

「何が宿り木よ」

「え?」

「だから最初に言ったのよ、大樹くんは私を受け止めきれないって」

「最初は奏のことを、まさかこういう人だとは思わなかったんだよ」

「今まで見えていた部分とは違う一面が見えたからって、すでに見えていた面まで否定しないでよ」

「僕に人を見る力がなかったのは認めるよ。今までも、この先も、せめて人として同じ道を歩いている子だと思っていたから」

 今ここで心の内を吐露できないと、このさき一生、他人に対して本音で接することができなくなる。奏はそう感じて口を開いた。

「見る気がなかっただけでしょ。大樹くんは私に勝手に期待して、勝手に失望して、勝手に去って行くだけだよ。普段はろくに連絡してこないくせに、いきなり夜中にLINEしてきたと思ったら、がんばってる姿をアピールしてくるか、弱音を吐くかのどっちかだったよね。これがいい例じゃん。そもそも大樹くんには関係ないから黙っていたけど、こっちだってギリギリの所を走り続けてたんだよ。大樹くんなんか自分の面倒しかみなくて済むくせに」

「いくらなんでも、それは失礼じゃない」

 大樹の言う通りだ。痛いほどわかっているが、言葉が口を衝いて溢れ続ける。その度に、命が削られていくのもわかった。

「相手は自己重要感を埋められて、私はその対価を得る。それのどこが悪いの? 都合の悪いときだけ被害者ぶらないでほしいわ」

「信じられないな。開き直るの?」

「こっちは親のお金で悠々と暮らしていける身分じゃないの。お金が要るの。私だって大学に戻りたいし、働くなら、誰かの幸せにつながる仕事がしたいよ。『大変だったけど、がんばってよかったな』って思いたいし、『棚絵さんがいてくれてよかった』って、誰かに思ってもらえるような仕事がしたい」

 最後は泣き声だった。しかし言葉は奏の耳にしか届かなかった。大樹のため息とともに、2人の関係は終わった。

6章 【それぞれの破滅】につづく

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