オリオンは静かに詠う
本屋に行ってぶらぶらしていると単行本コーナーに奇麗な表紙を見かけた。百人一首のカルタが書かれている。気になって手に取り、あらすじを読んだ。
若草ろう学校高等部一年生の咲季は、偶然入ったカフェのオーナー・陽子の誘いで競技かるたに出会う。その魅力に惹かれ、ライバルでコーダのカナとしのぎを削るように。大会では、読み手の「読み」を手話通訳してもらう必要がある。咲季の担任・映美の通訳は完璧だったが、大会後、突如通訳を降りると言い出して……。
奥付を見ると昨日発売されたばかりの本だ。そのままレジに行って買った。帰って、すぐに読んでみた。
あらすじに登場する四人の女性の視点から物語がそれぞれ語られる。第一話では先天的に耳の聞こえない咲季が、健常者の世界に引け目を感じながらも百人一首の競技カルタを通して、少しずつ世界に開いていく様子が。第二話の視点はカナで、彼女は両親が耳の不自由な二人であり、彼らの通訳として幼いころから奮闘していた。あらすじでカナを形容するコーダとは、聴覚障害の親を持つ聴者の子ども(Children Of Deaf Adult)の謂らしい。続く二話では陽子と映美それぞれの屈託や決意が描かれている。百人一首と手話(聴覚障害)を主軸にして主人公四人がめいめい成長していくやさしいお話で、とっても面白かった!
ほかの人の感想を調べたけれど、出版されてから日が浅く見当たらないのだけが残念だ。今後また別の読者が感想を探すときに、面白かったという感想を見つけられるようにここに残しておきたい。「オリオンは静かに詠う」とってもいい小説だったよなあ! わかるよその気持ち!! 本屋大賞を獲ってくれ!!!
私はもともと日本の古典を大学で専攻していたので、百人一首だとかがスポットライトを浴びて小説になっているのを読むとすごく楽しい。小躍りする。とはいえ私はそのうちの一首、西行の「嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな」くらいしか諳んじられないけれど。そんな百人一首にわかでも、改めて小説で百人一首の何首かが取り上げられ、作中人物それぞれの展開に即した解釈を読んでいると、これもいい歌だなああれもいい歌だなあと惚れ惚れする。また、競技カルタというスポーツ要素によって、百人一首がある種のゲームのように取り扱われていて、その分野に詳しくないからすごく勉強になった。競技カルタでは、歌によっては上の句の一語目だけでどの下の句かわかってしまうものらしい。一枚札と呼ばれている。む、す、め、ふ、さ、ほ、せ。この七語は発音された瞬間に反応できる(するべき)みたいだ。どれもなんの歌なのか心当たりがない。ほんとうに大学出たのか? うるせえ! 悔しいので調べた。
村雨の 露もまだ干ぬ 槇の葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ
住の江の 岸に寄る波 よるさへや 夢の通ひ路 人目よくらむ
めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな
吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ
さびしさに 宿を立ち出でて 眺むれば いづこも同じ 秋の夕暮れ
ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば ただ有り明けの 月ぞ残れる
瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
聞いたことのある歌が多くてあぁ~~と膝を打った。「せ」から始まる百人一首の歌って瀬を早みの一首だけなんだ! この一首は「崇徳院」という落語の元ネタでもあるのでけっこう知られている。「むべ山風を 嵐といふらむ」とかも、高校時代に国語の授業で触れた覚えがある。あったあったこんな洒落歌と寄り道しながら一人でわいわい小説を読んでいた。秋の夕暮れ、で歌が終わる和歌が一枚札にふたつもあるのにも驚く。清少納言「枕草子」でも秋は夕暮れがいっとう良いとされている。和歌にも秋の夕暮れで締められる歌はそこそこあって、私の好きな西行という歌人にも見受けられる――心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮(山家集・470)。秋の夕暮と締める和歌でとりわけよいものを三つ選んで”三夕和歌”と称されており、西行の上掲歌はそのひとつに数えられている。
何の話? 和歌って最高だなという話だ。百人一首、いいねえ。もう全部好い。とても素敵だ。自分まで競技カルタをやりたくなってしまう。競い合う主人公たちの熱に読者まであてられる。いい小説だ。いい小説だ!
手話の話。
大学生のころ、二年の半ばまで、手話サークルに通っていた。大学デビューとして何か新しいことを始めたいな~と思って、けれども根がインドアな人間なので、スポーツ系はちょっと難しい。文芸部というサークルには入っていたけれど、そんなものは読書好きな人間の延長線上に過ぎず、大学デビューという感がない。屋内で静かにできる新しいもの、と探して手話サークルを選んだ。
手話サークルは、サークル員こそ同じ大学の人たちが多かったけれど、手話を教えてくれる先生というのが、先天的な難聴のおじさんだった。私含む一年生が自己紹介をする。おじさん先生の横にはサークル長の先輩が手話で私たちの自己紹介を通訳していた。私以外の一年生は、サークルに入る動機を語った。いわく、身内に耳の不自由な人がいるからだとか、看護師を目指していて手話を使えるようになりたいとか、いかにも高邁で、大学デビューするぜうひょ~という私の動機とはあまりにかけ離れていた。周りがみんなまじめなのに冷や汗を垂らしながら、私の自己紹介の番になる。「ぼ、ぼくは教師を目指していて、耳の聞こえない生徒のサポートができるように……」とかなんとか言って済ませた。
それまで私の実人生で聴覚障碍者の人に出会ったことがなかったから、そのおじさん先生が初めてなにかしゃべったときに、私は面食らった。たぶん相手にも察せられてしまったろう。意味は伝わるが、抑揚や音量が明らかに違う。聞き取れるのが奇妙だった。「オリオンは静かに詠う」にも、聴覚障碍者側からの発話で健常者に戸惑われる場面があり、私は痛くなった。
まずは手話で、自己紹介を覚える。その次は五十音の指文字だ。「オリオンは静かに詠う」でも指文字は活躍する。「瀬を早み…」の和歌では、和歌の通訳者が広げた手の甲をこちらに見せるという具合に(手の甲→後ろ→背中→≪せ≫)。「オリオンは静かに詠う」での手話並びに指文字の描写はどれも覚えがあって、とても懐かしかった。
手話は手や指だけ動かせばいいというわけでもなく、表情によっても意味やニュアンスが変わる。作中で先天的な聴覚障碍者のひとが、ネイティブではない手話に対して「表情の表現がイマイチね」と評する場面がある。私なんかはいつでも仏頂面しているので、手話がぜんぜん上手くなかった。
私は手話サークルをサークル長と喧嘩して辞めたし、教師の道も教育実習先の教師と喧嘩して辞めた。喧嘩してばっかりだなこいつ。当時は若く向こう見ずでした。今は若さだけ失って向こう見ずなところは相変わらずだ。
手話に触れずに十年ほど経って、指文字も私は「あ」からやらないと思い出せない。「た」の指文字を思い出すのにいちいち、あいうえおかきくけこさしすせそを通らなければ手が勝手に動かないのだ。だから小説本編で指文字の描写が出るたびあいうえおから実際にやりなおして思い出していた。脳トレ? 指文字は覚えやすい奴はほんとうに覚えやすいのだけれど(例:「き」→きつねの影絵)、「た」「て」「と」「ほ」「ゆ」「わ」あたりはどうだっけとかどっちがどっちだっけとなる。
閑話休題。手話サークルに一年ほど在籍していたら、つたないながらも少し話せる(?)ようになった。それでおじさん先生と、その日あったことだとかと手話でやり取りすると、どうにか伝わった。手話って楽しいな。そう思った。
「オリオンは静かに詠う」本編には、手話でやり取りするその楽しさが描かれた一幕もあり、百人一首も手話も半可通ながら馴染みのある私としては、最良の小説だった。それにこの小説は宇都宮を舞台にしていて、ローカルな要素がふんだんに盛り込まれている。私は内地にまったく縁がないけれど、作中で描かれる郷土料理の描写だとか街並みだとかは読むだけで読者を宇都宮に連れて行ってくれるみたいで、ほんとうに良かった。いい小説は自分の世界を広げてくれる。私はそう思っている。「オリオンは静かに詠う」は読み手の興味関心を広げる最良の案内人として、私の大切な一冊だ。