七月隆文「天使の跳躍」

 今日、七月隆文「天使の跳躍」という小説が世に出た。

 私は七月隆文の大ファンで、小説を読むようになったきっかけが彼の書いていたライトノベル「ラブ★ゆう」に中学時代、出会ってからだった。
 それまでの私といえば文字ばっかの本なんてダリ~wと週刊少年チャンピオンを愛読書にしていたのだけど、オタクのクラスメイトにラノベもいいよと勧められた。当時の流行はハルヒとかシャナとかインデックスとか、なるほど本屋のラノベコーナーにも並んでいて、私は流行りものを忌避する傾向があったから、この電撃文庫や角川スニーカー文庫は漫画でいうジャンプみたいなものなのだなと察して避けた。ラノベの出版社でチャンピオンにあたるところはどこの文庫だろうと本屋の棚を眺めていく。スーパーダッシュ文庫、というのがいちばん陳列量が少なくて、私は適当に一冊手に取った。それが七月隆文「ラブ★ゆう」だった。

 高校二年生の主人公・神田俊がRPGゲームしていると画面の中から女勇者・ロザリーが現実に出てきて……というが物語の掴みで、現実世界に無知なロザリーと俊のどたばたラブコメディが始まる。三巻で明確な敵が出てくる。どうやらこの世界を創りなおそうとしている敵の一群があるらしい。四巻では謎の少女・朧とのバトルが展開される。ロザリーを人質に取られた俊が、朧の能力によってシェイクスピアや童話の世界に引きずり込まれ、各種物語世界で絶体絶命のピンチに遭うわけだ。五巻は短編集で、四巻のシリアスさを吹き飛ばすギャグ多め。けれど一話だけ、朧の過去編があり、それまでの筆致とはうってかわって、静かで、丁寧で……。六巻では学園祭編、敵も俊とロザリーを狙いに高校に足を踏み入れてきた。七巻からはバトルが始まる……という引きで終わる。七巻は、そのころまだ出ていなかった。

 私はもう夢中になって読んだ。擦り切れるくらい読み返した。それで、七月隆文の過去作にも手を出した。過去作は電撃文庫から出ているようだ。この際いいよ。なんでも読ませてくれ。「イリスの虹」は「ラブ★ゆう」とおなじボーイミーツガールで、朧の過去編のときのような文体だった。二巻で主人公の省吾とヒロイン・箒が別離するシーンが、私は好きだ。

 冷蔵庫のうなりが止まり、部屋が完全に無音となる。さっき箒がいたときも、そうなる瞬間はあった。
 けれど――この瞬間は、それとはまったく別の呼び名となる。
 二人ならば『沈黙』。
 一人ならば、それはただの『静寂』となるのだ。

「イリスの虹Ⅱ」

 今まで小説に触れてこなかったぶんを回収するみたいに、私は七月隆文から言葉の使い方を学んだ。
 続いて「白人萠乃と世界の危機」。私は度肝を抜かれた。コメディに全振りしていた。トチ狂ってるのかと思った。私は以降数多くの本を読むことになったけれど、いちばん衝撃を受けた小説はと訊かれたら、白人萠乃を挙げる。小説はこんなにも自由自在なのだと。ふざけ倒した世界観や設定なのに、文章が丁寧なのがさらに輪をかけておかしかった。きちんと馬鹿をしている誠実さがある。

 それより前は、作者の名義が変わって「今田隆文」となっている。作者曰く、今田名義はシリアスで、七月名義はギャグを意識しているらしかった。「フィリシエラと、わたしと、終わりゆく世界に」は1巻で打ち切られてしまった物語、厄難により人のほとんど滅びた世界で人工の少年少女が崩壊を食い止めているという。白人萠乃(ハレンチなものにモザイクをかけていく敵と、AVという戦隊を名乗る主人公たちが戦うアクション小説)の後に読んだせいで、名義が違うこともありほんとうに同じ作者かと思った。はやく二巻目を出してくれ。

「Astral」は後年、「君にさよならを言わない」というタイトルに改められて出版された、幽霊が見える主人公のヒューマンドラマ。「Astral」は三人称、「君にさよならを言わない」は一人称で物語が進み、単純にタイトルを変えただけではないので二度楽しめる。私は三人称のほうが好きだ。七月隆文は三人称でいちばん花が咲く小説家なので。いや、一人称も最高なのですけど……。「Astral」の二巻のラストで私はべそべそ泣いた。

 七月(今田)隆文は「ときめきメモリアル」というギャルゲーのノベライズが、作家としてのデビューらしい。ゲームこそプレイしていないけれどこの作家の書いたものなら大丈夫だろうという安心感で読んだ。四作あるうち「ときめきメモリアル3 約束のあの場所で〈2〉」がいっとう良かった。また泣いた。

 私は七月隆文の豊かに描く喜怒哀楽に魅せられて、本を読み始めるようになった。初めこそラノベばかりだったけれど、ミステリや純文学に手を出すとさらに世界は広がった。好きな作家も増えた。やがて日本の古典に行き着き、大学では古文を専攻するようになった。けれどもひな鳥が生まれて最初に見たものを親と思うように、生まれて初めて読んだ作家を敬愛する気持ちは変わらない。私は七月隆文を、その物語を文章を愛している。

 七月隆文は「ラブ★ゆう」の七巻をうっかり忘れたのか打ち切られたのか、もう十六年ほど私は待っている。
 けれどその間、七月隆文は次々と新作を出した。「学園とセカイと楽園」これは微妙だった。「俺がお嬢様学校に「庶民サンプル」として拉致られた件」これは七月隆文のギャグの集大成とでも言ってよく、アニメ化もされ、七月隆文の活躍の足掛かりとなった。

 七月隆文の出世作といえば、誰にも異論がない小説がある。
「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」だ。
 2014年に、今まではラノベ畑で活躍していた七月隆文が、一般の文庫から本を出した。私は即日買った。もうそのころ古参ファンを気取っていたので、「これは”今田”だね……」と懐かしむように読んだ。この作品は瞬く間に大ヒット、小松奈々と福士蒼汰で映画化もされた。私は我がことのように嬉しかった。そこからはあれよあれよと七月隆文の快進撃が始まる。今までの打ち切り常連作家だったのがウソみたいに。「ケーキ王子の名推理」は今もシリーズが続く(今月末に最終巻が出る)新潮文庫nexの代表作。文春文庫からは「天使は奇跡を希う」が出た。アニメ調のキャッチ―な表紙もかわいいし、物語も七月隆文らしさが存分に溢れていた。近年では角川文庫から「100万回生きたきみ」が登場、版を重ね季節ごとに表紙のカバーを変えるというサプライズが、ファンの身にはうれしかった。作品自体もよくてnoteで感想を書いた。

 「100万回生きたきみ」を出して以降はシリーズ物以外の新刊の音沙汰がなかった。作者のTwitterはたまに稼働していた。どうやら将棋にまつわる小説を書いているらしい。私は待った。七月隆文は打ち切りの多い作家だ。待つことには慣れている。先月の頭に、新刊情報として七月隆文の名があった。「天使の跳躍」。出版社は文藝春秋。文春で天使タイトルは二作目になる。「天使は奇跡を希う」の続編? いやでもあらすじはぜんぜん違う……なんて考えながら、まあ読んでみればわかると思って、出版のされる8月7日を待った。

 その日は来た。

 私は電子書籍で0:00になった瞬間買った。紙の本のほうは七月隆文初のハードカバーであるらしい。私の住む北海道ではどうせ一日二日発売が遅れる。実物が出たらあとで買うとして、今は真っ先に読みたい。

 読んだ。

 七月隆文の本領は、三人称にある(と私は思っている)。「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」以降は、そのヒットの手ごたえゆえか、一人称の小説が多かった(例:「ぼくときみの半径にだけ届く魔法」「サラと魔女とハーブの庭」)。それはそれで面白い、凡百の小説を後にするストーリーテリングであるのだけど、もう人生の過半を七月隆文に夢中になっている私には物足らなかった。魅せてくれよ。七月隆文の領分を。そう思っていた。「天使の跳躍」は、私の飢えをすっかり満たした。

 舞台は棋界、不世出の中年棋士が、タイトル戦をかけて最後の勝負に挑む。相手は八冠を持つ新進気鋭の将棋の天才。その天才は、駒の動かし方しか知らないくらい将棋に疎い私ですら、モチーフが(たぶん)藤井聡太だと分かる。
 この十年、恋愛小説を書いてきた作者が、老いと将棋を題材に物語を描く。新境地に行こうとしている。その目論見は、「天使の跳躍」において生った。私は読後、万雷の拍手をした。ここまで魅せてくれるか。私は七月隆文と、「天使の跳躍」の主人公をいつしか重ね合わせていた。円熟、という単語が浮かんだ。将棋に門外漢な私ですら息詰まる攻防、そして三人称ならではの人間活劇、何より七月隆文の、私が中学生のころから惚れてきた、文章、その息遣い。新時代だ。そう思った。直木賞候補になるに違いない。直木賞は獲れないと思う。直木賞向けではないから。伊吹有喜の同日出た新刊とかのほうが好まれそうだ。いや七月隆文に獲ってほしいけれど。ほかの候補作が12月に出たらぜんぶ読んで確かめたい。けれど確実に本屋大賞にはノミネートされる。来るぞ。来る。七月隆文の時代。ラノベから一般文芸に転向した作家といえば有名どころでは桜庭一樹や米澤穂信がいる。その後塵を拝して、七月隆文はここからさらに跳躍するに違いない。跳躍したらどうなる? 過去作の打ち切りの作品の続きが出るかもしれない。私はフィリシエラの続きを読めるかもしれない。イリスの虹の結末を知れるかもしれない。ラブ★ゆうの七巻の激闘をこの目で拝めるかもしれない。白人萠乃で五人目の追加戦士が登場するかもしれない。胸が震える。待ってたんだ。待ってるんだ。七月隆文、あなたの描く物語を。


 感想を調べていると、小説の主人公にも元ネタがあるらしい。木村一基。たまらず調べた。小説の内容通りに不遇ながら、受けの将棋を打って日の目を見た人物らしい。彼の将棋解説の動画を見てみると、小説で描かれていたよりもずっと軽妙でおしゃべり好きなおじさんという感じで好感が持てた。登場する棋士たちの元ネタが知れたらさらに楽しめるのだろうと思う。私は将棋を知ろうと思った。良い小説は未知の世界に読者の手を取って連れて行ってくれる。「天使の跳躍」は、物語の面白さはもちろん、将棋小説としても最良の案内人である。

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