ジョン・ファンテ「ロサンゼルスへの道」/アルトゥーロ/ワクチン

 ジョン・ファンテ「ロサンゼルスへの道」を読んだ。ひとが読んでいた。その感想文を読んで、ならばと読んでみた。めっぽうよかった。

 主人公はアルトゥーロという、文豪を自称する19の青年。父親が罷って、残された母と妹を己の手で養おうとするがどの職も長く続かず、一かを世話する叔父の援助でどうにか食いつないでいる。職場で盗みをはたらき馘首されたアルトゥーロは叔父のツテで、出稼ぎにきた異国人ばかりの缶詰工場に入ることとなり、半人前の仕事をしながら、小説をひとつ物した。そうして書かれた一作は荒唐無稽な物語、家族から酷評され、ついには妹に手を上げる。母と娘は叔父の家へと引き払い、残された主人公は身辺のものを売り払い、ロサンゼルスへの上京を志す。

 筋といえばこんなところだが、この小説にあっては、筋なんてどうでもよいかもしれない。むしろ主人公が作中でまくしたてる自意識、自分自身との対話であったり周囲の人間への悪罵であったり女との妄想譚であったり、のほうが濃厚に描かれている。彼は語りの中で英雄になったり巨人になったりオリンピックランナーになったりすれば、そのくせふいに自分が不審者なんじゃないかとまごついたりつまらない仕事でムキになったり恋に苦しむ道化になったり、空想と現実は入れ代わり立ち代わり、一貫していることといえば、札つきの嘘つきであることくらいだ。年齢並みに性欲は強くて、年齢並みに諦めが悪くて、年齢並みに移り気だ。文学や哲学の毒に中てられて、ほどほどに衒学家でもある。言ってしまってもいいだろうか。彼は私だ。アルトゥーロは私だ。

 歳も違う。生まれも違う。けれどわかる。アルトゥーロ、お前が分かる。エロ本をクローゼットに持ち込んではそこで淫事にふけるお前が分かる。私もかつて「ToLoveる」の2巻を買って、「ToLoveる」は3巻まで乳首の描写があったからいちばんいい乳首が描かれた2巻を近所から遠く離れた本屋まで行って手に入れて、物置小屋の奥隅に隠してひとりこっそり読んだあのころを、アルトゥーロ、お前は鮮明に思い出させてくれた。あとでこっそり裁断して捨てた。ところどころとれない湿り気があったから。アルトゥーロ、よくも思い出させてくれたな。彼の作中にて描かれる習作は私がむかし嬉々として書いて親に見せた雑文を思い出させた。ぶつ切れでとりあえず知っている言葉ばかり並べたてましたというような、読み手を微塵も思わない愚作を。あるいは当時ハマっていたアニメの百合の二次創作を掲示板に好き好き書き込んでいた高校生の時分を。当世一の文筆家だと内心で気取っていたあの頃を。俺も小説家になるんだと思っていた大学時代を、何も成し遂げられずに流れ着いた今までを、アルトゥーロ、お前はたやすく暴くから、俺はお前がきらいだ。この小説は四部作の一作目、前日譚とでも言うべきものらしい。せめてアルトゥーロ、お前が報いられていることを祈る。祈るよ。ほかにはなにもいらないから、僕はただ祈りたかった。

 光文社古典新訳文庫でニーチェを買った。お前もニーチェを読んでいたから。

 § § §

 石原慎太郎が死んだ。西村京太郎の存命を確かめた。生きていた。よかった。西村京太郎さえ生きていれば、まだ昭和や平成が残っている感じがする。勝手な思い込みで済まない。新たな元号になって四年、私はまだ、令和になったのを信じられていない。西村京太郎のもとには3回目のワクチンの接種券が配られているのだろうか。私はまだ一回も打ってはいなかった。面倒くさかった。ただでさえ少ない休みに余計な予定は入れたくない。給付金の十万円ももらっていないからおあいこだろう。

 医療従事者の女と付き合っていたとき、病禍の流行によりしばしば会えないことがあった。そうして関係は消滅した。ひとりになってからしばらくして接種券は届いた。どうでもよかった。どうでもよくはなかった。まったく私怨で、打たないままずるずると今日まできた。職場では矢継ぎ早に罹患者が増え、私はひとり者だから、どうとでもなった。どうとでもなるべきではなかった。けれど現状、どうとでもなるから、働くのだ。いつしか世相はそういう風だった。世間は私を気づかわないから、私も世間を気づかわなかった。とはいえ性根はアルトゥーロだったから、マスクを着けてはいるけれど。アルトゥーロ、きっとお前も今の世にいれば、こんなふうだったろう。

 現在の付き合いがある女もまたワクチンを打っていなかった。おたがい、ものぐさだった。そんな共通点は、おそらくあまり好ましくない。それだけはわかった。わかっただけだった。休みの日とあればふたりで猿のような生活をしている。長続きしないことを感づいている。ただまあ、そういう経験も大切だろう。大切だよな。大切だと思いたい。アルトゥーロはカリフォルニアの水産業の素材集めをするためと称して缶詰工場に勤めた。私は? 私はそうだ、かれこれ長いこと恋愛小説の素材集めをしている。いまのところは悲恋しかない。

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