【カトリックアニメ信仰】
イマーゴ信仰(オマージュ信仰)が受肉した名シーン
天軍七隊 権天使(Principalities)
ヨハネによる福音書の冒頭に出てくる「はじめに、ことばがいた。」の「はじめ」にあたる言葉である。
聖宮崎駿のルパン三世(ホワイトマジシャン)とモンキー・パンチのルパン三世(ブラックマジシャン)
副題 旧約聖書サムエル記「ダビデとゴリアテ」
「生命」とは「神の著作権」であり「芸術の著作権」である
劇場用アニメ映画「ルパン三世 カリオストロの城」はモンキー・パンチのキャラで聖宮崎駿がアニメ映画監督デビューを飾った記念作品だった。
私はこのアニメ映画をこよなく愛している。
しかしアニメ映画の「著作権」の在り処は誰にあるのであろうか?
モンキー・パンチにあるのだろうか?
聖宮崎駿監督にあるのだろうか?
それとも「怪盗アルセーヌ・ルパン」を書いた作家「モーリス・ルブラン」にあるのだろうか?
私には「著作権法」の兼ね合いは実際にはよくわからない。
この映画のアニメ制作会社なら「トムス・エンタテインメント」だろう。
これは大きな問題を孕んでいる。
果たして漫画「ルパン三世」を描いた人気漫画家「モンキー・パンチ」は「怪盗アルセーヌ・ルパン」と「モーリス・ルブラン」に対してオマージュ(敬意)を持っていただろうか?
もし人気漫画家「モンキー・パンチ」がオマージュ(敬意)を持っていたなら漫画「ルパン三世」に「神の著作権(アニキャラの生命)」は存在するだろう。
「アニキャラの生命」は「神の著作権」、「設定のアイデア」は「人の著作権」
「設定のアイデア」を思い付いた「人の著作権」とは「古典的詐術」であり、「アニキャラの生命」を創作した「神の著作権」とは「芸術のアイデア」であった。
それは「アルセーヌ・ルパンの三代目」という「アイデア」にオマージュ(敬意)があるかどうかで判断される。
要は「唯一性のペルソナ」(オリジナル)へのオマージュ(敬意)が「神の著作権(アニキャラの生命)」を成立させる。
しかしモンキー・パンチの「アイデア」にはオマージュ(敬意)が存在していない。
このモンキー・パンチの「アイデア」は「唯一性のペルソナ」(オリジナル)を「倒錯対象」としたコンフィデンスマン(倒錯性の支配)と言えるのです。
このアイデアマンは「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を「倒錯対象」としたコンフィデンスマン(倒錯性の支配)でしかなかった。
これは「ブラックマジック(黒ミサの儀式)」であるのです。
こういったアイデアマンは「ヲタク芸術」に於いて多く跋扈している。
例えば「金田一少年の事件簿」も同様に「唯一性のペルソナ」(オリジナル)の三代目と言う「設定のアイデア」であった。
庵野秀明監督の傑作アニメ「ふしぎの海のナディア」も名作アニメへのオマージュ(敬意)として制作され人気を博したと言われている。
またコミックマーケットの同人誌もオマージュ(敬意)で二次創作をすることで好評を博したと言われている。
しかしこれらはモンキー・パンチの「アイデアマン」と同じであった。
これはオマージュ(敬意)を「倒錯対象」としたコンフィデンスマン(倒錯性の支配)だった。
アニメファンの持つオマージュ(イマーゴ)を「倒錯対象」としてコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を制作していた。
それが「唯一性のペルソナ」(オリジナル)への「ブラックマジック(黒ミサの儀式)」となっていた。
こういった「アイデア」は「人の著作権(設定のアイデア)」でした。
「ホワイトマジック(神の恵み)」の「生命」と「ブラックマジック(黒ミサの儀式)」の「死に体」
では劇場用アニメ映画「ルパン三世 カリオストロの城」はどうでしょうか?
この作品が「プラックマジック(黒ミサの儀式)」であるならオマージュ(敬意)を持っていないだろう。
しかしこの作品が「ホワイトマジック(神の恵み)」であるならオマージュ(敬意)を持ち「生命」を宿す。
要は聖宮崎駿監督は「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」へのオマージュ(敬意)を持っていた。
それによって漫画「ルパン三世」を「パロディ対象」とする「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」が制作された。
聖宮崎駿監督は「ホワイトマジシャン」だった。
それによって「作品」に「生命」を吹き込んだのです。
聖宮崎駿監督のように「生命」を吹き込む創作者とは殉教者(確信性)を示している。
そういう意味で「ルパン三世」とは聖宮崎駿監督により「唯一性のペルソナ」(オリジナル)が形成されたと言えるのです。
「ルパン三世」の作者は「モンキー・パンチ」ではなく「宮崎駿」だった。
一方でモンキー・パンチや他のヲタク芸術の面々は「ブラックマジシャン」だった。
モーリス・ルブランの「怪盗アルセーヌ・ルパン」を「倒錯対象」とする漫画「ルパン三世」は「ブラックマジシャン」の「ブラックマジック(黒ミサの儀式)」としてあった。
しかし劇場用アニメ映画「ルパン三世 カリオストロの城」は「ホワイトマジシャン」の「ホワイトマジック(神の恵み)」により「生命」を吹き込まれることで「永遠の命」を得た。
ここで言えることはモーリス・ルブランに「怪盗アルセーヌ・ルパン」の「神の著作権(アニキャラの生命)」はある。
何故なら「唯一性のペルソナ」(オリジナル)を形成したからである。
それは「生命」が宿ったことを示している。
そしてその「生命」を「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を制作したのはモンキー・パンチだった。
それが漫画「ルパン三世」だった。
それは「アイデア」と言う「人の著作権(設定のアイデア)」だった。
そこには「生命」は宿らず「死に体」となるだけだった。
ただその「死に体」の漫画「ルパン三世」を「パロディ対象」として「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を制作したのが聖宮崎駿監督だった。
聖宮崎駿監督の「ホワイトマジック(神の恵み)」により漫画「ルパン三世」は生命を吹き込まれた。
それによって劇場用アニメ映画「ルパン三世 カリオストロの城」は「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」として成立する。
これは他の聖宮崎駿監督作品にも言えることです。
※「死の翼アルバトロス」「さらば愛しきルパンよ」
「神の著作権(アニキャラの生命)」とは「生命」を吹き込んだ芸術家が持つものです。
よって「ルパン三世」の「神の著作権(アニキャラの生命)」は聖宮崎駿監督にあると言えるのです。
それが「唯一性のペルソナ」(オリジナル)の存在証明です。
そしてそれらは「神の著作権(アニキャラの生命)」のあり方でした。
しかし「ヲタク芸術」の主張は「生命」の主張ではない。
「アイデア」と「生命」とは全く違っている。
彼らはオマージュ(敬意)と称して「アイデア」を盗む。
しかしそうやって制作された「ヲタク芸術」に「生命」は宿らない。
それはオマージュ(敬意)を「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)であり「ヲタク人の本性」だった。
「ヲタク人の本性」とは「人の著作権(設定のアイデア)」と言えるものだった。
このように「神の著作権(アニキャラの生命)」はダビデであり、「人の著作権(設定のアイデア)」はゴリアテであると言える。
「アイデア」と称する「人の著作権(設定のアイデア)」はナンセンスです。
「生命」を宿した作品が「神の著作権(アニキャラの生命)」であるのです。
「人の著作権(設定のアイデア)」は「贋金」です。
「神の著作権(アニキャラの生命)」は「本物」です。
聖書とは「永遠の命」の勝利を示している。
そしてアニメーションとは「永遠の命(神の恵み)」を指すのです。
(再編集版)