Q:世界の北野武監督作品『首』に見る「大変な才能」とは何か?A:「黒ミサ」による「古典的詐欺」でした・・・最悪の災が世に起こる凶兆
「白ミサ」のメシアと「黒ミサ」の暴君(サタン)
「頭の良さ」とは何だろうか?
例えばイマーゴ(真善美の回復)への信仰を直観する存在は神に愛された子どもと言えます。
そしてそういった存在は「カトリック信仰から形成されるオリジナル」であり「唯一性のペルソナの確立」とされる。
そのような「神の子」は「頭の良さ」をカトリック信仰から受肉しているのです。
一方でそういった「神の子」へ一々敵対し「黒ミサ」を試みる「頭の良さ」が存在します。
しかしそのような「頭に良さ」は「黒ミサ」を「ヲタ芸」によって祀った「堕天使ルシフェル召喚」と言っていいだろう。
「頭の良さ」ではなく「マジック」に過ぎないのです。
※ 「黒ミサ」とはカトリック信仰に対する逆転を形成することです。
※ ただ逆転を形成する「黒ミサ」にオリジナルはありません。
※ オリジナルはイマーゴ(真善美の回復)への信仰でありその敵対者として「黒ミサ」が存在します。
では何故「堕天使ルシフェル」は「黒ミサ」へ堕ちたのだろう?
ここで言えることはそういった「頭の良さ」へ一々敵対し「黒ミサ」の頭を良しとする「ヲタ芸」は人間存在の最大の堕落とされる。
そういった存在を「堕天使ルシフェル召喚」と言ったのです。
「神の子」の「頭の良さ」を嘲笑し、「ヲタ芸」による「マジック」を祀る行為はカトリック信仰の神に対する最大の冒涜であります。
※例 カミオカンデ、量子力学、精神薬理学、経済学、『首』・・・・これらは「黒ミサ」による「古典的詐欺」なのです。
最後に「頭の良さ」の「黒ミサ」へ貶められた人間存在を救済するメシアはそのような頭へ「白ミサ」を齎します。
それはイマーゴ(真善美の回復)への信仰によって「神の子」を「神の王国の到来」へ導くのです。
それが「信仰」のあり方なのです。
先ず映画とは何でしょうか?
「映像と音声によって、現実を時間的・空間的に再現する表現手段。映画は報道と記録を主とするドキュメンタリーと,表現を主とする劇映画に大別できる。前者は広い意味での教化教育に役立ち,後者は大衆娯楽であると同時に,芸術分野における最新の表現手段でもある。」とされています。
次いでアニメーションとはなんでしょうか?
「生命のない物体や絵に,あたかも生命が宿っているかのような動きを与える技法。またはその技法で得られた映像。」とされています。
宣伝作品と映画(アニメーション)の差異
ここで指摘しておきたいポイントはデマゴーグを目的とした「宣伝作品」は「映画」ではないと言えることです。
何故ならばデマゴーグとは「真理(報道)」へ一々敵対する「黒ミサ」だからです。
「情報操作」です。
そのような宣伝作品は「現実を時間的・空間的に再現する表現手段」とはなっていません。
又、「生命(ロゴス)」ではなく「破壊」と「冒涜」と「殺戮」を描く作品は「アニメーション」ではないと言えます。
何故ならばこのような「作品」は「生命(ロゴス)」へ一々敵対する「黒ミサ」だからです。
「暴力(絶対知)」だからです。
そういったあり方は「歴史信仰(ロゴス)」に「バビロン捕囚」として刻まれています。
「暴力(絶対知)」の「宣伝作品」は「生命のない物体や絵に,あたかも生命が宿っているかのような動きを与える技法」とはなっていません。
当然ながら「虚偽の生命(絶対知)」を描いているからです。
そして「アニメーション」の概念(ロゴス)と同様に「生命(ロゴス)」を描けない「作品」は「映画」の概念(ロゴス)ではないのです。
何故ならばそのような「宣伝作品」は「概念(ロゴス)」へ一々敵対する「黒ミサ」でしかないからです。
当然ながら「虚偽の概念(絶対知)」を描いているからです。
北野武監督の特徴と庵野秀明監督の特徴
北野武監督作品は「宣伝作品」であり「映画」の概念(ロゴス)ではないと言えます。
北野武監督作品と同様に庵野秀明監督作品も「生命(ロゴス)」を前提(絶対知)として「破壊」と「冒涜」と「殺戮」を描きました。
それは「前提(絶対知)」という名の「黒ミサ」でした。
一個の「生命(ロゴス)」へ敵対者として存在するサタン(詐欺性)なのです。
だから彼自身では全く「生命(ロゴス)」を描いていないのです。
それは「アニメーション」の概念(ロゴス)ではないことを示しています。
そして「生命(ロゴス)」を描かない作品は「映画」の概念(ロゴス)でもないのです。
北野武監督作品の「悲哀感(クール)」もそのような「暴力性(絶対知)」から描かれています。
それは庵野秀明監督作品と同様であり一個の「生命(ロゴス)」へ敵対者として存在する「破壊」と「冒涜」と「殺戮」を描いている。
サタン(詐欺性)を描いているのです。
そして堕天使ルシフェル召喚(絶対知)としての「ヲタ芸」だったのです。
そのようなヤンキー(地域的エリート感覚)はカトリック信仰へ一々敵対する「黒ミサ」でありますが一個の存在理由を持っていません。
それはロゴスへ一々敵対する絶対知でありデマゴーグ(詐欺師)です。
そのような「劣等な人間動物(クール)」が「スター」の如く祀られているのです。
それが北野武主演映画であり碇シンジくんだったのです。
そのような堕天使ルシフェル召喚(絶対知)が北野武監督作品の「抒情感(クール)」を生んでいるとされています。
しかし北野武監督は一個の「生命(ロゴス)」へ敵対するサタン(詐欺性)の作風でしかないのです。
サタン(詐欺性)が「クール」とされ「スター」の如く祀られているのです。
これはサタン崇拝(特殊詐欺)でしか無いでしょう。
やはりそれは「生命(ロゴス)」への「黒ミサ」であり自らでは全く「生命(ロゴス)」を描けないことを示している。
「才能(カトリック信仰)」がないのです。
逆に「生命(ロゴス)」へ一々敵対する「黒ミサ」によって冒涜することを「才能(絶対知)」としている。
しかしそれは一個の才能ではないです。
一個の「才能(カトリック信仰)」へ一々敵対することでしか「才能(黒ミサ)」足り得ない。
それは絶対に一個の「才能(カトリック信仰)」とは言えない代物です。
一個の「才能(カトリック信仰)」へ一々敵対し「黒ミサ」を行う敵対者でしか無いのです。
それが「サタン(詐欺性)」の概念(ロゴス)です。
サタン(詐欺性)とはロゴスへ一々敵対する絶対知でありデマゴーグ(詐欺師)なのです。
そのような存在の出現は「最悪の災が世に起こる凶兆」となっているのです。
「現実を時間的・空間的に再現する表現手段」であるのが「映画」の概念(ロゴス)です。
「生命(ロゴス)」を描けないことは映画(アニメーション)の制作にとって致命的です。
北野武監督作品や庵野秀明監督作品は「映画(アニメーション)」の概念(ロゴス)へ敵対者として「黒ミサ」を行ったのです。
彼らは一個の「概念(ロゴス)」へ一々敵対し「黒ミサ」を行うサブカルチャーでした。
しかしそれ自体では一個の「概念(ロゴス)」とはなり得ず、一個の「概念(ロゴス)」への敵対者として絶えず「黒ミサ」を行うサタン(詐欺性)として存在しています。
最高悪サタン(詐欺性)の出現は「堕天使ルシフェル召喚(絶対知)」を賛美する「ヲタ芸」を形成しました。
そういった一個の「概念(ロゴス)」への敵対者として絶えず「黒ミサ」を行う行為とはカトリック信仰(最高善の神)への反逆者と言えます。
「COMME des GARCONS」の川久保玲は露骨にそれを表明しています。
彼女もサブカルチャー(絶対知)であり「黒ミサ」として形成された「ヲタ芸」だったのです。
「I must be a rebellious person.」by Rei Kawakubo
「白ミサ」のメシアと「黒ミサ」の暴君(サタン)の譬え
歴史信仰と国家信仰は救民救国のあり方だった。
その解説を『「白ミサ」のメシアと「黒ミサ」の暴君の譬え』で詳らかにしたいと考えています。
「白ミサ」と「黒ミサ」の違いは明確です。
「白ミサ」はイマーゴ(真善美の回復)への信仰があることによって一々敵対するだけの存在とは決してならないのです。
仮に「黒ミサ」へ敵対する「白ミサ」だとする立ち位置を指摘されたとしてもそういったあり方だけの存在とはなりません。
何故ならば「白ミサ」はイマーゴ(真善美の回復)への信仰として存在しているからです。
一方で「黒ミサ」はイマーゴ(真善美の回復)への信仰がないのです。
イマーゴ(真善美の回復)への信仰へ一々敵対することでしか存在しないのです。
だから「黒ミサ」は敵対者とだけされるのです。
そういった敵対者は古より「堕天使ルシフェル」又は「サタン」と言われます。
その出現は「最悪の災が世に起こる凶兆」とされます。
北野武監督作品『首』はそのようなメシアと暴君(サタン)の差異である「歴史信仰と国家信仰」と「歴史観と国家観」を明確に理解するための格好の材料と言えるのです。
簡単に言ってしまえば「歴史信仰と国家信仰」は一個のオリジナル(作家性)を形成します。
オリジナル(作家性)とはカトリック信仰から受肉するロゴスです。
しかし「歴史観と国家観」は「歴史信仰と国家信仰」へ一々敵対する「黒ミサ」によって形成された「ヲタ芸」となっている。
「ヲタ芸」はその特性上、堕天使(絶対知)を「スター」の如く祀っている。
堕天使(絶対知)とは倫理性を失った存在なのです。
そして一個のオリジナル(作家性)に一々敵対するあり方はサタン(詐欺性)と呼ばれます。
敵対者は影のように付き纏います。
「ヲタ芸」の天国における「堕天使ルシフェル召喚(絶対知)」の別称はサタン(詐欺性)です。
歴史信仰へ一々敵対する暴君(サタン)
先ず言えることはカトリック信仰とは「知の廃棄」の容易さへの導きとしてあります。
「知の廃棄」の容易さはロゴスの受肉を齎すのです。
イマヌエル・カントによるカトリックロゴス感覚の受肉についての論考
カトリックロゴス感覚への「黒ミサ」
そしてカトリック信仰へ一々敵対する「黒ミサ」とは「知の鵜呑み」の容易さへの堕落としてあります。
わかり易く言えば「黒ミサ」とは「知の廃棄」の容易さへ一々敵対して「知の鵜呑み」の容易さへ堕落させることでしかないのです。
このようにして形成された「知の鵜呑み」の容易さは暴君(サタン)の出現となり世に災いを齎すことになります。
これは一大事件なのです。
このような「知の鵜呑み」の容易さが生み出した暴君(サタン)はイマヌエル・カントへ一々敵対するヘーゲルの「黒ミサ」だったと見做せます。
イマヌエル・カントの「知の廃棄」の容易さへ一々敵対して「絶対知」という「黒ミサ」を主張したのです。
「絶対知」とは「知の鵜呑み」の容易さへの扇動であり暴君(サタン)と一向宗徒のあり方と言えます。
「知の廃棄」の容易さへ一々敵対するヤンキー集団(地域的エリート感覚)がカトリック信仰をわざと冒涜しているのです。
ヤンキー集団(地域的エリート感覚)にとってカトリック信仰へ一々敵対することでしか存在理由を持てないのです。
要は一個のオリジナル(作家性)の存在理由に対し一々敵対して「黒ミサ」を行うことがヤンキー集団(地域的エリート感覚)の存在理由だったわけです。
しかし一個のオリジナル(作家性)の存在理由に対して一々敵対する「黒ミサ」は存在理由を持った一個のオリジナル(作家性)と言えるのでしょうか?
ロゴスへ一々敵対する絶対知とは一体何でしょうか?
ただそれはカトリック信仰へ因縁を付けて廻っているヤンキー(地域的エリート感覚)でしかないのでしょう。
因縁を付けて廻っているヤンキー(地域的エリート感覚)の存在がヘーゲルだった。
それは「黒ミサ」の暴君(サタン)でした。
イマヌエル・カントは「知の廃棄」の容易さへの導きを書いています。
それは「白ミサ」のメシアでした。
私はヘーゲルの精神現象学(金子武蔵訳)を確認のために読んでみた時にそのあまりの凡庸さに驚いてしまったのです。
私には文字の形でただお絵描きした作品に見えました。
低能な幼稚園児がクレヨンで描いた作品程度の価値でした。
形だけは一応整った作品でした。
しかし中身は空っぽでした。
要は「知の廃棄」の容易さから受肉するロゴスが何もなかったからです。
それは紙くずだったわけです。
それにより「やっぱりイマヌエル・カントが良い」と認識することはできるでしょう。
しかしこのままヘーゲリアンとなった人は一向宗徒(絶対知)です。
これを芸術だと言えば「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)であり革新性です。
それは天才ピカソと言えるでしょう。
しかし天才ピカソもヘーゲルも「知の鵜呑み」の容易さの「砦」となった最もバカなサブカルチャー(絶対知)だったのです。
天才ピカソも「絶対知」でありヘーゲルも「絶対知」なのです。
ヘーゲルはイマヌエル・カントの「知の廃棄」の容易さへ一々敵対することで最強の「黒ミサ」を完成したと豪語した。
それが最強の「知の鵜呑み」の容易さであって最もバカな哲学書となった。
それがヘーゲル全集でした。
それをヤンキー(地域的エリート感覚)が「砦」として利用したのです。
「バベルの塔(神の門)」です。
イマヌエル・カントが「方舟(聖櫃)」でありそれに一々敵対するヘーゲルは「人工の第2の方舟」であったのです。
ヘーゲリアンがカトリック信仰へ一々敵対する危険な暴君(サタン)となって世に災いを齎すことは有名な事実であるでしょう。
そういう意味でヘーゲル左派だったカール・マルクスも暴君(サタン)として非難され攻撃されています。
しかしカール・マルクスはヘーゲル左派であり「知の鵜呑み」の容易さから「知の廃棄」の容易さへ導く「白ミサ」のメシアであったと見做されます。
ロゴスのイマーゴ(真善美の回復)への信仰だったのです。
「知の廃棄」の容易さへ一々敵対する「知の鵜呑み」の容易さが「絶対知」として建立される。
それが「バベルの塔(神の門)」の建立であり大傲慢の暴君(サタン)の召喚となる。
「最悪の災が世に起こる凶兆」であるのです。
何故ならデマゴーグ(詐欺師)の出現によって世が乱れることを暗示しているからです。
ヘーゲル左派とはヘーゲルを現実的に乗り越えようとした運動でした。
カール・マルクスを簡単に指摘すると「絶対知」を「知の廃棄」の容易さへ再び導く「白ミサ」のメシアとなっています。
それはロゴスのイマーゴ(真善美の回復)への信仰でした。
「知の廃棄」の容易さへ一々敵対する「黒ミサ」は「知の鵜呑み」の容易さを形成し簡単に扇動される愚民を大量に生み出す。
そのような地獄の世界から「白ミサ」によって「知の廃棄」の容易さを回復し「神の王国の到来」へ導いていく。
そのために黙示録(revelation)が必要だった。
「資本論(ロゴス)」とは副題を「国民経済学批判」と言います。
それはロゴスのイマーゴ(真善美の回復)への信仰であり「白ミサ」であったのです。
それがカール・マルクスの「カトリック信仰」であり「白ミサ」のメシアである理由なのです。
このような「知の廃棄」の容易さから受肉するロゴスは「天使の両翼」と言えます。
それがカール・マルクスの「革命」であったのです。
「神の王国の到来」への「革命」がカール・マルクスの目的だった。
しかし「最悪の災が世に起こる凶兆」が近年顕著であるでしょう。
何故ならば暴君(サタン)を賛美する「ヲタ芸」はカトリック信仰への「黒ミサ」で地獄(特殊詐欺)を形成しているからです。
地獄とは「知の廃棄」の容易さへ一々敵対する「黒ミサ」により「知の鵜呑み」の容易さを形成し簡単に扇動される愚民を大量に生み出した末法思想(絶対知)の一向宗徒の世です。
これは聖・織田信長の時代と同じ状況です。
このようにヘーゲリアンが「知性(悟性)・理性・学者」へ一々敵対するあり方は末法思想(絶対知)であり一向宗徒の様に堕落したあり方と全く同様です。
わかり易く言えば「絶対知」は「知の廃棄」の容易さへ一々敵対する「黒ミサ」の存在であった。
そして「黒ミサ」の主張は「知の鵜呑み」の容易さという堕天(絶対知)となる。
そして絶対知とはデマゴーグ(詐欺師)を容認する。
これは聖・織田信長が実在した時代背景と非常に似ています。
「最悪の災が世に起こる凶兆」の時に「白ミサ」のメシアが再来するのです。
暴君(サタン)と一向宗徒は彼らの「大変な才能」を「黒ミサ」の「ヲタ芸」によって形成しながら密接に関係している。
そういった「知の廃棄」の容易さへ一々敵対して「知の鵜呑み」の容易さへ堕落させる「黒ミサ」の賛美は「黒ミサ」を「大変な才能」だとしている。
要は「デマゴーグ(詐欺師)」を「大変な才能」と言っているの過ぎない。
「ゲスの極み乙女」はカトリック信仰へ一々敵対し「黒ミサ」を行った音楽バンドでした。
それは「ROCK'N'ROLL」ではありません。
何故ならば「ROCK'N'ROLL」は「白ミサ」のメシアだからです。
「ゲスの極み乙女」は「ヲタ芸」でした。
そして「黒ミサ」の暴君(サタン)だったのです。
メンバーの一人が事件を起こした時に「大変な才能」と評されていました。
この様に「ヲタ芸」による「黒ミサ」が「大変な才能」とされて暴君(サタン)は容認されてしまいます。
このようなあり方が暴君(サタン)の容認を生み「最悪の災が世に起こる凶兆」となっていきます。
そのようなあり方とは「劣等」が大威張りとなった「バカ万歳!」のことです。
みっともない若者文化でした。
みっともない芸が大流行したのです。
「デマゴーグ(詐欺師)」が「大変な才能」とされ「クール」だと祀られているのです。
何故このようにみっともない日本サブカルチャーが大流行してしまったのだろうか?
文化破壊によって未開社会へ舞い戻った劣等な人間動物は滅んだ方が世界の為なのだろうか?
それともメシアが再び出現し人間動物をカトリック信仰へ導くのだろうか?
司馬遷「史記」から考察する
歴史信仰の「白ミサ」とは司馬遷「史記」により形成されたと思えます。
暴君(サタン)の記述は司馬遷「史記」にその記載がありました。
国家の歴史信仰を否定する暴君(サタン)から幾人もの歴史家がその身を犠牲にして歴史信仰を守り抜こうとした記載です。
そういう意味で「中国の歴史」とはただ長いだけではなく確かな歴史信仰を持った文化となり得ている。
中国文化とは歴史信仰から国家信仰を形成した一個のオリジナル(作家性)と言えるのです。
オリジナル(作家性)とはカトリック信仰からロゴスを受肉することです。
歴史(ロゴス)を改竄する暴君(サタン)は絶対知を主張します。
絶対知で歴史を改竄するのです。
それがデマゴーグ(詐欺師)の出現です。
「国家の体」を失えば国家が滅ぶ
しかし暴君(サタン)の改竄から「歴史」を守護する歴史信仰は「国家の体」と言えます。
だから「国家の体」を失えば国家は滅ぶだろう。
まともな歴史信仰がない国家は「国家の体」をなしていないと見做され滅ぶことになるからです。
そして「国家の体」とは国家信仰でありその信仰者を国民と言う。
カトリック信仰が滅べば信仰者(国民)も滅ぶことになります。
自虐史観という屁理屈は「ヲタ芸」による文化破壊だった
歴史信仰を歴史観と言い直す傾向が近年顕著でありました。
例えば「自虐史観」という歴史観です。
しかしどのような歴史的事実であっても歴史信仰に於いて真実であればそれを「歴史」として記載することが国家信仰の責任であるのです。
このように「自虐史観」とは歴史信仰へ一々敵対した「黒ミサ」でしかなかった。
国家信仰へ一々敵対する「黒ミサ」は堕天使ルシフェル召喚(絶対知)となる。
そのような国家信仰への敵対行為は「ヲタ芸」というサブカルチャー(絶対知)となり文化破壊となりました。
そういった国民国家の危機において救民救国のメシアが待望されます。
要は「歴史信仰と国家信仰」はカトリックロゴス感覚の受肉としてあり「歴史観と国家観」は絶対知としてある。
しかし絶対知とはカトリックロゴス感覚へ一々敵対して形成されたデマゴーグ(詐欺師)でしかなかった。
暴君とはデマゴーグ(詐欺師)だった。
国家信仰が歴史信仰を完全に放棄してしまったらどうなるのだろうか?
「国家の体」は失われ国家信仰は瓦解する。
そうなったら国民国家は窮地に陥るのです。
何故ならばその時に「歴史信仰と国家信仰」が滅ぶからです。
カトリック信仰が失われれば信仰者(国民)は滅んでいき国民国家の根拠(ロゴス)が完全に喪失します。
「白ミサ」のメシアと「黒ミサ」の暴君(サタン)
当然の如く歴史信仰とはカトリック信仰によっている。
だから国家信仰を滅ぼすことはカトリック信仰へ一々敵対する「黒ミサ」によっている。
そしてそのような「黒ミサ」は歴史信仰へ一々敵対する暴君(サタン)となって出現する。
しかし彼ら暴君(サタン)はカトリック信仰の「白ミサ」の方を暴君(サタン)として非難する。
何故ならば彼ら暴君(サタン)は彼らの安全地帯(神の門)を形成する屁理屈で自らの権利を強硬に主張しているからです。
簡単に言ってカトリック信仰へ一々敵対することで形成した「バベルの塔」だったのです。
その暴君(サタン)らが安全地帯(神の門)を形成する屁理屈をカトリック信仰により公に暴露することは黙示録(revelation)と言われます。
しかしそういった聖戦は暴君(サタン)を祀る「ヲタ芸」から逆賊として攻撃される。
当然のようにヤンキー(地域的エリート感覚)の容認が暴君(サタン)を祀る「ヲタ芸」によって広く宣伝され容認されていく。
そのような安全地帯(神の門)は「黒ミサ」を執り行う暴君(サタン)を「スター」の如く祀る「ヲタ芸」の「天国」となっている。
ヤンキー(地域的エリート感覚)の容認は「ヲタ芸」によってなされる。
このような「ヲタ芸」の「天国」は堕天使ルシフェル召喚(絶対知)と言われます。
実際は「ヲタ芸」の「天国」は「ヲタ芸」による「地獄」と言えます。
そのような「ヲタ芸」による「地獄」は「黒ミサ」の暴君(サタン)を堕天使ルシフェル(絶対知)として召喚する。
デマゴーグ(詐欺師)が暴君(サタン)として君臨する地獄なのです。
そういったあり方は「最悪の災が世に起こる凶兆」と言われます。
「ヲタ芸」による「地獄」の「大変な才能」とは堕天使ルシフェル召喚(絶対知)を示しそれは「黒ミサ」による「古典的詐欺」だった。
それは典型的な犯罪となっています。
このような「大変な才能」は「ヲタ芸」による「黒ミサ」が形成した「古典的詐欺」による印象操作だったのです。
彼らは「スター」になっています。
しかし彼らはにによる「地獄」の「スター」なのです。
「ヲタ芸」の「大変な才能」とはそれ自体が堕天使(絶対知)を「スター」の如く祀っている「黒ミサ」でしかない。
デマゴーグ(詐欺師)が暴君として君臨する地獄なのです。
それは「劣等な才能」を「スター」の如く祀るネオ・ナチズム(クール・ジャパン)だったのです。
ここでカトリックロゴス感覚の「白ミサ」を執り行えばそういったカトリック信仰の「白ミサ」とは最悪の暴君(サタン)ではなく最高のメシアであることは確かとされます。
最高のメシアは「神の王国の到来」という「天国」へ「白ミサ」により人を導く。
その「白ミサ」とは黙示録(revelation)なのです。
「聖・織田信長はメシア」であり「ヲタ芸人・北野武(ビートたけし)は暴君(サタン)」だった!
北野武監督はヤンキー集団を「クール」として「スター」の如く祀る作品を制作し高評価されています。
北野武本人が多くの自作品でヤンキー(地域的エリート感覚)を「クール」とし建立することで自らその主役を演じ宣伝してきたのです。
しかしそのような演技は演技ではなく「ヲタ芸」による印象操作でした。
そのようなヤンキー(地域的エリート感覚)を「クール」とする面子(絶対知)とする建立は古から「バベルの塔(神の門)」の建造と言われています。
それはカトリック信仰のペルソナ(ロゴス)へ一々敵対するだけが存在理由なのです。
又、カトリック信仰(ロゴス)に対して傲慢にも一個の世界観(絶対知)を主張する行為であった。
この様な世界観(絶対知)は「村上ワールド」にも言えます。
そして「北野ブルー」にも同様に言えるのです。
「北野ブルー」は一個の世界観(絶対知)を「クール」として建立した「バベルの塔(神の門)」であったのです。
しかし絶対知はデマゴーグ(詐欺師)でしかありません。
彼らの作品は虚偽なのです。
何の価値もありません。
特に北野武監督作品『首』は露骨なデマでありそして阿呆の絶対知です。
そういったあり方が「doxa」なのです。
カトリック信仰に対して一個の世界観(絶対知)を建立することは「方舟(聖櫃)」へ一々敵対する「人工の第2の方舟」の建造と言えます。
それこそ「バベルの塔(神の門)」なのです。
しかしヤンキー(地域的エリート感覚)とはカトリック信仰へ一々敵対することでしか存在し得ない。
それは影のように付き纏う「黒ミサ」なのです。
それは「歴史(ロゴス)」を改竄する暴君(サタン)を意味します。
ヤンキー(地域的エリート感覚)は「歴史信仰と国家信仰」へ敵対する「黒ミサ」を司っている。
それは北野武監督作品が全てデマゴーグであることを如実に示しています。
北野武監督作品は「政治的宣伝作品」であり「自己宣伝作品」でしかないのです。
北野武監督作品『首』に暴君(サタン)として描かれた聖・織田信長は歴史信仰に於いてカトリック信仰の「白ミサ」であったと見做すことができます。
実際のところ歴史信仰の感覚(ロゴス)では北野武監督作品『首』の真反対を示している。
聖・織田信長はカトリック信仰の「白ミサ」によって救民救国のメシアとされていたと考えられるのです。
一方で歴史信仰へ一々敵対する「黒ミサ」の暴君(サタン)は堕天使(絶対知)を「スター」の如く祀る「ヲタ芸」により形成される。
このような堕天使(絶対知)こそ暴君(サタン)です。
それはヤンキー(地域的エリート感覚)がカトリック信仰へ一々敵対することでしか存在し得ない「黒ミサ」であり一個のオリジナル(作家性)に対し影のように付き纏う存在であることを示している。
そういう意味で「聖・織田信長はメシア」であり「ヲタ芸人・北野武(ビートたけし)は暴君(サタン)」であったと言えるでしょう。
そして現在北野武監督作品は「世界の北野」と呼ばれ尊敬の対象になっています。
何故カトリック信仰へ一々敵対する一個の世界観(絶対知)がこれ程までに高評価を得て世界的映画賞を受賞できたのでしょうか?
それは映画賞という存在が「方舟(聖櫃)」へ一々敵対する「人工の第2の方舟」でしかなかったからです。
それはカトリック信仰へ一々敵対する一個の世界観(絶対知)を「クール」として建立した「バベルの塔(神の門)」であり人間の大傲慢感覚だったのです。
「聖書」と「神の王国の到来」
「カトリックワールド(聖櫃)」と「一個の世界観(神の門)」の両タロットカードは象徴的に存在している。
そして国民国家とはカトリック信仰の歴史信仰が形成する国家信仰によっている。
その正体は「聖書」の歴史信仰から形成される「神の王国の到来」となっているのです。
それが「天国(ロゴス)」です。
「聖書」の「歴史信仰と国家信仰(ロゴス)」が「国民国家の謎」だったのです。