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Q:世界の北野武監督作品『首』に見る「大変な才能」とは何か?A:「黒ミサ」による「古典的詐欺」でした・・・最悪の災が世に起こる凶兆

「白ミサ」のメシアと「黒ミサ」の暴君(サタン)

「頭の良さ」とは何だろうか?

例えばイマーゴ(真善美の回復)への信仰を直観する存在は神に愛された子どもと言えます。
そしてそういった存在は「カトリック信仰から形成されるオリジナル」であり「唯一性のペルソナの確立」とされる。
そのような「神の子」は「頭の良さ」をカトリック信仰から受肉しているのです。

一方でそういった「神の子」へ一々敵対し「黒ミサ」を試みる「頭の良さ」が存在します。
しかしそのような「頭に良さ」は「黒ミサ」を「ヲタ芸」によって祀った「堕天使ルシフェル召喚」と言っていいだろう。
「頭の良さ」ではなく「マジック」に過ぎないのです。

  1. ※ 「黒ミサ」とはカトリック信仰に対する逆転を形成することです。

  2. ※ ただ逆転を形成する「黒ミサ」にオリジナルはありません。

  3. ※ オリジナルはイマーゴ(真善美の回復)への信仰でありその敵対者として「黒ミサ」が存在します。

では何故「堕天使ルシフェル」は「黒ミサ」へ堕ちたのだろう?

ここで言えることはそういった「頭の良さ」へ一々敵対し「黒ミサ」の頭を良しとする「ヲタ芸」は人間存在の最大の堕落とされる。
そういった存在を「堕天使ルシフェル召喚」と言ったのです。
「神の子」の「頭の良さ」を嘲笑し、「ヲタ芸」による「マジック」を祀る行為はカトリック信仰の神に対する最大の冒涜であります。

※例 カミオカンデ、量子力学、精神薬理学、経済学、『首』・・・・これらは「黒ミサ」による「古典的詐欺」なのです。

最後に「頭の良さ」の「黒ミサ」へ貶められた人間存在を救済するメシアはそのような頭へ「白ミサ」を齎します。
それはイマーゴ(真善美の回復)への信仰によって「神の子」を「神の王国の到来」へ導くのです。
それが「信仰」のあり方なのです。


先ず映画とは何でしょうか?

「映像と音声によって、現実を時間的・空間的に再現する表現手段。映画は報道と記録を主とするドキュメンタリーと,表現を主とする劇映画に大別できる。前者は広い意味での教化教育に役立ち,後者は大衆娯楽であると同時に,芸術分野における最新の表現手段でもある。」とされています。

次いでアニメーションとはなんでしょうか?

「生命のない物体や絵に,あたかも生命が宿っているかのような動きを与える技法。またはその技法で得られた映像。」とされています。

宣伝作品と映画(アニメーション)の差異

ここで指摘しておきたいポイントはデマゴーグを目的とした「宣伝作品」は「映画」ではないと言えることです。
何故ならばデマゴーグとは「真理(報道)」へ一々敵対する「黒ミサ」だからです。
「情報操作」です。
そのような宣伝作品は「現実を時間的・空間的に再現する表現手段」とはなっていません。

又、「生命(ロゴス)」ではなく「破壊」と「冒涜」と「殺戮」を描く作品は「アニメーション」ではないと言えます。
何故ならばこのような「作品」は「生命(ロゴス)」へ一々敵対する「黒ミサ」だからです。
「暴力(絶対知)」だからです。

そういったあり方は「歴史信仰(ロゴス)」に「バビロン捕囚」として刻まれています。

バビロンほしゅう【バビロン捕囚】
Babylonian Captivity(Exile)
前 597~538年にわたってイスラエルのユダヤの人々がバビロニア王ネブカドネザルによってバビロニアに捕囚となった事件をさす。捕囚民は『エレミヤ書』 52章 30によれば,前 597,586,581年の前後3回にわたって 4600人と記されているが,これは男子のみをさしているので,全体では約1万 5000人ぐらいであろう。当時ユダヤの人口は約 25万人であったが,捕囚民は支配階級に属する者や技術者であったので,残された民は衰退した。バビロニアでは宗教的自由は許されたが,エルサレム神殿において行なっていた祭儀を失ったので,それにかわって安息日礼拝が中心になり,会堂(→シナゴーグ)における律法の朗読と祈祷を中心とする新しい礼拝様式が始められた。またこの時期にモーセ時代から彼らの時代までの歴史,すなわち『申命記』から『列王紀』が編纂された。したがって預言活動はやんで,かわって律法学者や書記が祭司と並んで重要な位置を占めるようになり,旧約の宗教は「書物の宗教」の性格を強めていった。そして前5世紀後半に⇨ネヘミア,⇨エズラが帰国して新しい法典のもとに民族の再建をはかり,ここにユダヤ教が成立することになった。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

「暴力(絶対知)」の「宣伝作品」は「生命のない物体や絵に,あたかも生命が宿っているかのような動きを与える技法」とはなっていません。
当然ながら「虚偽の生命(絶対知)」を描いているからです。
そして「アニメーション」の概念(ロゴス)と同様に「生命(ロゴス)」を描けない「作品」は「映画」の概念(ロゴス)ではないのです。
何故ならばそのような「宣伝作品」は「概念(ロゴス)」へ一々敵対する「黒ミサ」でしかないからです。
当然ながら「虚偽の概念(絶対知)」を描いているからです。

北野武監督の特徴と庵野秀明監督の特徴

北野武監督作品は「宣伝作品」であり「映画」の概念(ロゴス)ではないと言えます。

北野武監督作品と同様に庵野秀明監督作品も「生命(ロゴス)」を前提(絶対知)として「破壊」と「冒涜」と「殺戮」を描きました。
それは「前提(絶対知)」という名の「黒ミサ」でした。
一個の「生命(ロゴス)」へ敵対者として存在するサタン(詐欺性)なのです。
だから彼自身では全く「生命(ロゴス)」を描いていないのです。
それは「アニメーション」の概念(ロゴス)ではないことを示しています。
そして「生命(ロゴス)」を描かない作品は「映画」の概念(ロゴス)でもないのです。

北野武監督作品の「悲哀感(クール)」もそのような「暴力性(絶対知)」から描かれています。
それは庵野秀明監督作品と同様であり一個の「生命(ロゴス)」へ敵対者として存在する「破壊」と「冒涜」と「殺戮」を描いている。
サタン(詐欺性)を描いているのです。
そして堕天使ルシフェル召喚(絶対知)としての「ヲタ芸」だったのです。

そのようなヤンキー(地域的エリート感覚)はカトリック信仰へ一々敵対する「黒ミサ」でありますが一個の存在理由を持っていません。
それはロゴスへ一々敵対する絶対知でありデマゴーグ(詐欺師)です。

そのような「劣等な人間動物(クール)」が「スター」の如く祀られているのです。
それが北野武主演映画であり碇シンジくんだったのです。
そのような堕天使ルシフェル召喚(絶対知)が北野武監督作品の「抒情感(クール)」を生んでいるとされています。
しかし北野武監督は一個の「生命(ロゴス)」へ敵対するサタン(詐欺性)の作風でしかないのです。
サタン(詐欺性)が「クール」とされ「スター」の如く祀られているのです。
これはサタン崇拝(特殊詐欺)でしか無いでしょう。

やはりそれは「生命(ロゴス)」への「黒ミサ」であり自らでは全く「生命(ロゴス)」を描けないことを示している。
「才能(カトリック信仰)」がないのです。
逆に「生命(ロゴス)」へ一々敵対する「黒ミサ」によって冒涜することを「才能(絶対知)」としている。
しかしそれは一個の才能ではないです。
一個の「才能(カトリック信仰)」へ一々敵対することでしか「才能(黒ミサ)」足り得ない。
それは絶対に一個の「才能(カトリック信仰)」とは言えない代物です。
一個の「才能(カトリック信仰)」へ一々敵対し「黒ミサ」を行う敵対者でしか無いのです。
それが「サタン(詐欺性)」の概念(ロゴス)です。
サタン(詐欺性)とはロゴスへ一々敵対する絶対知でありデマゴーグ(詐欺師)なのです。
そのような存在の出現は「最悪の災が世に起こる凶兆」となっているのです。

「現実を時間的・空間的に再現する表現手段」であるのが「映画」の概念(ロゴス)です。
「生命(ロゴス)」を描けないことは映画(アニメーション)の制作にとって致命的です。
北野武監督作品や庵野秀明監督作品は「映画(アニメーション)」の概念(ロゴス)へ敵対者として「黒ミサ」を行ったのです。

彼らは一個の「概念(ロゴス)」へ一々敵対し「黒ミサ」を行うサブカルチャーでした。
しかしそれ自体では一個の「概念(ロゴス)」とはなり得ず、一個の「概念(ロゴス)」への敵対者として絶えず「黒ミサ」を行うサタン(詐欺性)として存在しています。

最高悪サタン(詐欺性)の出現は「堕天使ルシフェル召喚(絶対知)」を賛美する「ヲタ芸」を形成しました。
そういった一個の「概念(ロゴス)」への敵対者として絶えず「黒ミサ」を行う行為とはカトリック信仰(最高善の神)への反逆者と言えます。

「COMME des GARCONS」の川久保玲は露骨にそれを表明しています。
彼女もサブカルチャー(絶対知)であり「黒ミサ」として形成された「ヲタ芸」だったのです。

「I must be a rebellious person.」by Rei Kawakubo

えいが【映画】
motion picture; film; movie
映像と音声によって,現実を時間的・空間的に再現する表現手段。映画は報道と記録を主とするドキュメンタリーと,表現を主とする劇映画に大別できる。前者は広い意味での教化教育に役立ち,後者は大衆娯楽であると同時に,芸術分野における最新の表現手段でもある。
映画のフィルムは,動いている人や物をすばやく感光する映画用カメラで撮影された静止画像の連続写真から成る。このとき画像と画像の間の時間的空白は,多くの場合 50分の1秒程度であるため,連続した画像との違いはごくわずかである。フィルムが映写機の光源を通して,画像を撮影したときと同じスピードで動かすことによる残像効果によって,白いスクリーンに映し出されたひとつひとつの画像が,連続して動いているシーンのように見える。音声は磁気録音テープか磁気フィルムに録音され,最後に画像の陰画と一緒に1本の陽画フィルムにプリントされる。これを合成プリントという。音を出す部分は⇨サウンド・トラックとも呼ばれ,フィルムの片側に沿って,撮影された画像と平行に取付けられる。商業用映画は通常1秒間 24フレームで撮影され,上映される。最も多く使用されるフィルムは 35ミリ幅である。
映画はシナリオ,演出,カメラ・ワーク,編集の4つの基本となる要素を組合せて制作される。商業用映画のスタジオでは,プロデューサーの指揮のもとで,担当者や制作会社のスタッフがそれぞれの役割をになう。プロデューサーは制作資金の調達も担当する。映画のストーリーやアイデアの脚色をシナリオと呼び,1人もしくは数人のシナリオ・ライターが担当する。シナリオは映画を制作するにあたっての全体の青写真となるのが普通である。すべての会話,あるいはナレーション,スクリーンに映る予定の視覚的イメージ,そして観客に聞こえる予定の音声まで,すべて詳しく記される。伝統的に,監督が実際の映画制作をほとんどコントロールする。監督はシナリオにある素材を動きのある絵に移し替える。カメラ・オペレーター,セットや衣装のデザイナー,俳優,編集者といった人々を採用し,管理するのも監督の役目である。構成,照明,それぞれのシーンでの俳優の演技も監督が指揮する。撮影中,監督はカメラ・オペレーターの主任と緊密な関係をもちながら撮影を進める。撮影が終了すると,監督は編集者と協力して最終的にどのショットやシーンを残すかを決定する。編集者はカメラで撮られたさまざまなショットやシーンをつなげて,最終的に完成された映画に仕上げる。サウンド・トラックも編集の過程で,ビジュアル・トラックに合成される。
映画の基本的な技術革新は,フランスとアメリカで,1880~90年代に完成した。本格的な映画をつくった先駆者はアメリカの T.A.⇨エジソンとフランスの⇨リュミエール兄弟である。 20世紀初めの 10年間は,フランスの映画制作会社が世界をリードし,C.⇨パテが最初の国際的な映画帝国を築いた。アメリカでは⇨ニッケルオデオンと呼ばれる5セント劇場が東部の大都市での映画制作に拍車をかけた。ただし制作される映画は基本的に短編のコメディやメロドラマばかりであった。アメリカの映画産業を支配しようとしたモーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー(1908~12)の試みは,独立した映画制作会社を刺激し,より高い技術水準を求め,スター・システムを発展させる原動力となった。この頃,監督の D.W.⇨グリフィスが長編の意欲的な映画を制作し,編集や映画撮影法や照明に技術革新をもたらした。彼の映画『⇨国民の創生』(15)は,アメリカにおいて芸術としての映画を確立した。
第1次世界大戦はヨーロッパの映画産業と市場に打撃を与え,これによりアメリカ映画は商業的な面でも,評価の面でもヨーロッパを追抜いた。戦争が終る頃には,大規模な制作会社と世界中で人気のあるスターをかかえた⇨ハリウッドが国際市場を支配し,1917年から 27年にかけてアメリカの⇨無声映画は絶頂期を迎えた。ハリウッドの映画はさらに豪華になり,人気のある俳優あるいはスターの魅力に頼るようになった。監督のグリフィス,M.⇨セネット,C.B.⇨デミル,俳優の D.⇨フェアバンクス,C.⇨チャップリン,L.ギッシュ,B.⇨キートン,W.S.⇨ハートらが 1920年代のアメリカ映画界を代表する。戦争が終ると,ヨーロッパの国々でも映画制作が復興し,特にドイツでは F.W.⇨ムルナウ,G.W.⇨パプスト,F.⇨ラング,E.⇨ルビッチらの実験的な表現主義と力強い社会派リアリズムが台頭した。デンマークの C.T.⇨ドライヤーとソ連の S.M.⇨エイゼンシュテインも無声映画の重要な監督たちである。 26~30年に,アメリカの⇨ワーナー・ブラザースが発声映画(→トーキー)を紹介し,他もすぐさま追随した。音を使うことによって,より説得力のある表現を生み出すことが可能になり,この新しいメディアの可能性を開拓しようとする新人監督たちが現れた。アメリカの F.⇨キャプラ,J.⇨フォード,H.⇨ホークス,のちにアメリカに渡ったイギリスの A.⇨ヒッチコック,フランスの J.⇨ルノアールらである。 30年代にはミュージカル・コメディや歌と踊りを主体にした映画が人気を集め,⇨マルクス兄弟のようなコメディアンが映画スターとして活躍した。
1930年から 40年初めにかけて,第2次世界大戦がヨーロッパの映画制作に打撃を与えると,ハリウッドのスタジオは絶頂期を迎えたが,戦争が終ると,市場独占を規制する法律によって制限を受け,劇場チェーンを縮小させられたり,映画の配給を支配されたりした。また 50年以降はテレビが映画の観客を奪いはじめた。戦後の著しい発達はアメリカよりもむしろヨーロッパで起った。イタリアでは V.⇨デ・シーカ,F.⇨フェリーニ,M.⇨アントニオーニらによるネオレアリズモ映画と呼ばれる新写実主義が登場し,フランスではヌーベルバーグの監督,J.-L.⇨ゴダールと F.⇨トリュフォーが大きな影響を与えた。イギリスでは,引続き喜劇のジャンルが発達したが,いわゆる「怒れる若者たち」による映画で写実主義の風潮も生れた。個人的な芸術の表現のためのメディアとして映画をとらえる新しい主張は,他の国々の監督の作品でも明らかであった。スウェーデンの I.⇨ベルイマン,スペインの L.⇨ブニュエル,日本の⇨黒沢明,インドの S.⇨ライらに代表される。アメリカでは大手スタジオが西部劇,ミュージカル,犯罪ドラマ,歴史大作,聖書大作などを盛んに制作している間に,独立した若い映画制作者たちはよりまじめで芸術的な映画を目指しはじめた。その代表的な監督は S.⇨キューブリック,F.F.⇨コッポラ,W.⇨アレン,M.⇨スコセッシ,S.⇨スピルバーグらである。 20世紀後半もアメリカの映画産業は世界市場を支配し続けている。ハリウッドが優位に立っている理由としては,国内外に多くの観客がいること,技術面でも映画市場への出荷の面でも競争相手がいないこと,人気のある映画を生み出す能力を常に失っていないことなどがあげられる。アメリカの SF映画およびアクション冒険映画は,すぐれた特殊効果をはじめとして,映画技術のあらゆる可能性を追求している。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

アニメーション
animation
生命のない物体や絵に,あたかも生命が宿っているかのような動きを与える技法。またはその技法で得られた映像。この技法は,エミール・⇨レイノーが 1888年に開発した装置,テアトロ・オプティークによってある程度完成されていたが,この独特な装置によらず,映画の機械装置でそれを実現したのは,1906年に『愉快な百面相』を発表したスチュワート・ブラックトンや,08年『ファンタスマゴリー』を発表したエミール・コールであり,したがって彼らが,今日の一般的なアニメーション映画の創始者とされている。アニメーション映画は⇨コマ撮りの方法によっており,その素材には絵や切り紙,影絵,人形などがよく用いられるが,あらゆる物体が利用可能で,またフィルム面に直接描き込む方法もある。ウォルト・⇨ディズニーは,本格的なトーキー化と色彩化,長編化の成功で,劇場用漫画映画の分野の発展に大きな貢献をしたが,アニメーション映画の利用範囲としては,娯楽のほかに,広告,教育,芸術などの分野がある。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

「白ミサ」のメシアと「黒ミサ」の暴君(サタン)の譬え

歴史信仰と国家信仰は救民救国のあり方だった。
その解説を『「白ミサ」のメシアと「黒ミサ」の暴君の譬え』で詳らかにしたいと考えています。

「白ミサ」と「黒ミサ」の違いは明確です。
「白ミサ」はイマーゴ(真善美の回復)への信仰があることによって一々敵対するだけの存在とは決してならないのです。
仮に「黒ミサ」へ敵対する「白ミサ」だとする立ち位置を指摘されたとしてもそういったあり方だけの存在とはなりません。
何故ならば「白ミサ」はイマーゴ(真善美の回復)への信仰として存在しているからです。

一方で「黒ミサ」はイマーゴ(真善美の回復)への信仰がないのです。
イマーゴ(真善美の回復)への信仰へ一々敵対することでしか存在しないのです。
だから「黒ミサ」は敵対者とだけされるのです。
そういった敵対者は古より「堕天使ルシフェル」又は「サタン」と言われます。
その出現は「最悪の災が世に起こる凶兆」とされます。

どうしてお前は天から落ちたのか、明けの明星、暁の子よ。

岩波書店「旧約聖書 イザヤ書」

北野武監督作品『首』はそのようなメシアと暴君(サタン)の差異である「歴史信仰と国家信仰」と「歴史観と国家観」を明確に理解するための格好の材料と言えるのです。

簡単に言ってしまえば「歴史信仰と国家信仰」は一個のオリジナル(作家性)を形成します。
オリジナル(作家性)とはカトリック信仰から受肉するロゴスです。

しかし「歴史観と国家観」は「歴史信仰と国家信仰」へ一々敵対する「黒ミサ」によって形成された「ヲタ芸」となっている。
「ヲタ芸」はその特性上、堕天使(絶対知)を「スター」の如く祀っている。
堕天使(絶対知)とは倫理性を失った存在なのです。
そして一個のオリジナル(作家性)に一々敵対するあり方はサタン(詐欺性)と呼ばれます。
敵対者は影のように付き纏います。

サタン
Satan
ヘブライ語 Sātānに由来し「敵対する者」を表わす。旧約聖書では「敵」「仇」など人間について用いられた例も多いが,『ゼカリヤ書』(3・1~2),『ヨブ記』などユダヤ教後期の聖典では,超人間的存在とされている。しかし,旧約聖書では,これもヤハウェによる試練として人間に課されるものであり,新約聖書にみられる超自然的「⇨悪魔」としてのサタンの観念は,善悪二元論に立つペルシア宗教の影響である。新約聖書では,サタンは神の計画の成就を妨げ,キリストを試し,信仰者を誘惑するものとされるが,ここでも神と二元的に対立するものではなく,最後には神の支配下におかれ,滅ぼされる。イスラム教でもユダヤ教,キリスト教,ゾロアスター教などの影響を受け,悪をなすシャイタン(サタン)を教義のなかにもっている。これらは古来文学や絵画などで描かれ,ルキフェル,メフィストフェレスなどは有名である。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

ad・ver・sar・y [ǽdvərsèri|―səri]〓
―n. (pl. ―sar・ies)
1 敵,敵対者,反対者(↔ally).⇨OPPONENT〓
2 (試合・ゲームなどの)対戦者,相手(contestant).
3 ⦅the A―⦆ 悪魔,サタン.
―adj. (また⦅特に英⦆ ad・ver・sar・i・al[ædvərsέəriəl])
1 敵の,敵手の.
2 (原告・被告など)当事者の:〓
[1340.中期英語 adversarie<ラテン語 adversārius (adversus より;⇀ADVERSE)]
ad・ver・sar・i・ness [ǽdvərsèrinis|―səri―]
―n.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

「ヲタ芸」の天国における「堕天使ルシフェル召喚(絶対知)」の別称はサタン(詐欺性)です。

Lu・ci・fer [lúːsəfər]〓
―n.
1 ルシフェル,ルシファー:天から落ちた傲慢(ごうまん)な大天使;Satan と同一視される.
2 明けの明星.
3 ⦅l―⦆ =friction match.
[1000年以前. 中期英語,古期英語<ラテン語「明けの明星」]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

Lucifer /ˈluːsɪfə/
▶noun
1 another name for SATAN.
2 <literary> the planet Venus when it rises in the morning.
3 (lucifer) <archaic> a match struck by rubbing it on a rough surface.〓
-ORIGIN
Old English, from Latin, ‘light―bringing, morning star’, from lux, luc― ‘light’ + ―fer ‘bearing’. Sense 1 is by association with the ‘son of the morning’ (Isa. 14:12), believed by Christian interpreters to be a reference to Satan.

●Oxford Dictionary of English, Second Edition revised

歴史信仰へ一々敵対する暴君(サタン)

先ず言えることはカトリック信仰とは「知の廃棄」の容易さへの導きとしてあります。
「知の廃棄」の容易さはロゴスの受肉を齎すのです。

イマヌエル・カントによるカトリックロゴス感覚の受肉についての論考

純粋理性批判(第二版序文)
したがってわたくしは、信仰に余地を求めるために、知識を除去しなければならなかった。

実践理性批判
「きみの人格やいっさいの他者たちの人格のうちにある人間性を、つねに同時に目的として取りあつかい、決してたんに手段として取りあつかわないように行為せよ」。

1765-66年冬学期講義計画公告
まず悟性が形成されるが、これは、悟性が経験から直観的に判断をして、この判断を通じて概念を得ることによる。この上で、このような概念は、理性を通じて原因と結果の関係のなかで見られ、最後に学問によって、秩序ある全体のうちで見て取られるようになる。こういうわけで、指導は、これとまったく同じ道を進むべきである。教師には、自分の学生からまず悟性的人間を、ついで理性的人間を、そして最後に学者を育てることが期待されるのである。このやり方は次のような利点がある。これは普通のことだが、たとえ学生が最後の段階にまるで到達しなかったとしても、この学生は得るところがあったのであり、学校向けではないにせよ、人生に向けて前より錬れて聡明になっているはずである。

イマヌエル・カントのカトリックロゴス感覚

カトリックロゴス感覚への「黒ミサ」

そしてカトリック信仰へ一々敵対する「黒ミサ」とは「知の鵜呑み」の容易さへの堕落としてあります。
わかり易く言えば「黒ミサ」とは「知の廃棄」の容易さへ一々敵対して「知の鵜呑み」の容易さへ堕落させることでしかないのです。

このようにして形成された「知の鵜呑み」の容易さは暴君(サタン)の出現となり世に災いを齎すことになります。
これは一大事件なのです。

このような「知の鵜呑み」の容易さが生み出した暴君(サタン)はイマヌエル・カントへ一々敵対するヘーゲルの「黒ミサ」だったと見做せます。

イマヌエル・カントの「知の廃棄」の容易さへ一々敵対して「絶対知」という「黒ミサ」を主張したのです。
「絶対知」とは「知の鵜呑み」の容易さへの扇動であり暴君(サタン)と一向宗徒のあり方と言えます。
「知の廃棄」の容易さへ一々敵対するヤンキー集団(地域的エリート感覚)がカトリック信仰をわざと冒涜しているのです。

ヤンキー集団(地域的エリート感覚)にとってカトリック信仰へ一々敵対することでしか存在理由を持てないのです。

rai・son d’ê・tre [réizoun détrə|―zᴐːn déit―;Fr. Rɛzɔ dɛtR]〓
―n. (pl. rai・sons d’ê・tre[réizounz détrə|zɔːnz déit―;Fr. ~]) 存在理由,レーゾンデートル;生き甲斐:〓
[1867.<フランス語]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

要は一個のオリジナル(作家性)の存在理由に対し一々敵対して「黒ミサ」を行うことがヤンキー集団(地域的エリート感覚)の存在理由だったわけです。

しかし一個のオリジナル(作家性)の存在理由に対して一々敵対する「黒ミサ」は存在理由を持った一個のオリジナル(作家性)と言えるのでしょうか?

ロゴスへ一々敵対する絶対知とは一体何でしょうか?

ただそれはカトリック信仰へ因縁を付けて廻っているヤンキー(地域的エリート感覚)でしかないのでしょう。
因縁を付けて廻っているヤンキー(地域的エリート感覚)の存在がヘーゲルだった。
それは「黒ミサ」の暴君(サタン)でした。

カント
Kant, Immanuel
[生] 1724.4.22. ケーニヒスベルク
[没] 1804.2.12.
ドイツの哲学者。近世哲学を代表する最も重要な哲学者の一人であり,またフィヒテ,シェリング,ヘーゲルと展開した,いわゆる⇨ドイツ観念論の起点となった哲学者。批判的(形式的)観念論,先験的観念論の創始者。 1740~46年生地の大学で神学,哲学を学んだ。卒業後,家庭教師を長い間つとめ,55年ケーニヒスベルク大学私講師。その後,エルランゲン,イェナ各大学から招かれたが固辞し,70年ケーニヒスベルク大学の論理学,形而上学教授となった。 96年老齢のため引退。主著『⇨純粋理性批判』 Kritik der reinen Vernunft(1781),『⇨実践理性批判』 Kritik der praktischen Vernunft(88),『⇨判断力批判』 Kritik der Urteilskraft(90)。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

ヘーゲル
Hegel, Georg Wilhelm Friedrich
[生] 1770.8.27. シュツットガルト
[没] 1831.11.14. ベルリン
ドイツの哲学者。⇨ドイツ観念論の大成者。⇨絶対的観念論の立場に立つ。テュービンゲン大学で神学,哲学を学んだ。 1801年⇨イェナ大学講師,05年同大学助教授,08年ナポレオン軍による大学封鎖で辞職,08~15年ニュルンベルクの高等中学校校長,16年ハイデルベルク,18~31年ベルリンの各大学教授を歴任したが,コレラのため急逝。彼の哲学体系は,論理学,自然哲学,精神哲学の3部門から成り,精神現象学がその序論として先行するが,各部門はさらに弁証法的に細分され,自然,歴史,倫理,芸術,宗教,哲学など精神現象全般にわたる百科全書的哲学体系が構築された。主著『⇨精神現象学』 Phänomenologie des Geistes(1807),『論理学』 Wissenschaft der Logik(12~16),『エンチクロペディ』 Enzyklopädie der Philosophischen Wissenschaften im Grundrisse(17),『法哲学綱要』 Grundlinien der Philosophie des Rechts(21)。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

イマヌエル・カントは「知の廃棄」の容易さへの導きを書いています。
それは「白ミサ」のメシアでした。

私はヘーゲルの精神現象学(金子武蔵訳)を確認のために読んでみた時にそのあまりの凡庸さに驚いてしまったのです。
私には文字の形でただお絵描きした作品に見えました。
低能な幼稚園児がクレヨンで描いた作品程度の価値でした。
形だけは一応整った作品でした。
しかし中身は空っぽでした。
要は「知の廃棄」の容易さから受肉するロゴスが何もなかったからです。
それは紙くずだったわけです。
それにより「やっぱりイマヌエル・カントが良い」と認識することはできるでしょう。
しかしこのままヘーゲリアンとなった人は一向宗徒(絶対知)です。

He・ge・li・an [heiɡéiliən,hidʒíː―|heiɡíː―,hiɡéi―]〓
―adj. ヘーゲルの;ヘーゲル哲学の.
―n.
1 ヘーゲル派哲学者,ヘーゲル学徒.
2 ヘーゲル学者.
[1838]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

これを芸術だと言えば「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)であり革新性です。
それは天才ピカソと言えるでしょう。
しかし天才ピカソもヘーゲルも「知の鵜呑み」の容易さの「砦」となった最もバカなサブカルチャー(絶対知)だったのです。
天才ピカソも「絶対知」でありヘーゲルも「絶対知」なのです。

ヘーゲルはイマヌエル・カントの「知の廃棄」の容易さへ一々敵対することで最強の「黒ミサ」を完成したと豪語した。
それが最強の「知の鵜呑み」の容易さであって最もバカな哲学書となった。
それがヘーゲル全集でした。
それをヤンキー(地域的エリート感覚)が「砦」として利用したのです。
「バベルの塔(神の門)」です。
イマヌエル・カントが「方舟(聖櫃)」でありそれに一々敵対するヘーゲルは「人工の第2の方舟」であったのです。

ヘーゲリアンがカトリック信仰へ一々敵対する危険な暴君(サタン)となって世に災いを齎すことは有名な事実であるでしょう。

そういう意味でヘーゲル左派だったカール・マルクスも暴君(サタン)として非難され攻撃されています。

しかしカール・マルクスはヘーゲル左派であり「知の鵜呑み」の容易さから「知の廃棄」の容易さへ導く「白ミサ」のメシアであったと見做されます。
ロゴスのイマーゴ(真善美の回復)への信仰だったのです。

天国という空想的現実のなかに超人を探し求めて、ただ自分自身の反映だけしか見いださなかった人間は、自分の真の現実性を探求する場合に、ただ自分自身の仮象だけを、ただ非人間だけを見出そうなどという気にはもはやなれないであろう。

この国家、この社会的結合が倒錯した世界であるがゆえに、倒錯した世界意識である宗教を生み出すのである。宗教は、この世界の一般的理論であり、その百科全書的要綱であり、それの通俗的なかたちをとった論理学であり、それの唯心論的な、体面にかかわる問題〔point-d'honneur〕であり、それの熱狂であり。それの道徳的承認であり,それの儀式ばった補完であり、それの慰めと正当化との一般的根拠である。

宗教上の悲惨は、現実的な悲惨の表現でもあるし、現実的な悲惨にたいする抗議でもある。宗教は、抑圧された生きものの嘆息であり、非情な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片である。
民衆の幻想的な幸福である宗教を揚棄することは、民衆の現実的な幸福を要求することである。民衆が自分の状態についてもつ幻想を棄てるように要求することは、それらの幻想を必要とするような状態を棄てるよう要求することである。したがって。宗教への批判は、宗教を後光とするこの涙の谷〔現世〕への批判の萌しをはらんでいる。

それゆえ、真理の彼岸が消え失せた以上、さらに此岸の真理を確立することが、歴史の課題である。人間の自己疎外の聖像が仮面をはがされた以上、さらに聖ならざる形姿における自己阻害の仮面をはぐことが、何よりまず、歴史に奉仕する哲学の課題である。こうして、天国の批判は地上の批判と化し、宗教への批判は法への批判に、神学への批判は政治への批判に変化する。

岩波書店「ヘーゲル法哲学批判序説」

「知の廃棄」の容易さへ一々敵対する「知の鵜呑み」の容易さが「絶対知」として建立される。
それが「バベルの塔(神の門)」の建立であり大傲慢の暴君(サタン)の召喚となる。
「最悪の災が世に起こる凶兆」であるのです。
何故ならデマゴーグ(詐欺師)の出現によって世が乱れることを暗示しているからです。

せいねんヘーゲルは【青年ヘーゲル派】
ヘーゲルの死後分裂した⇨ヘーゲル学派の一つで,ヘーゲル左派とも呼ばれる。この派の形成の端緒となったのは D.F.⇨シュトラウスや L.A.⇨フォイエルバハらによるヘーゲルのキリスト教論に対する批判であった。彼らは A.ルーゲが 1838年に創刊した『ハレ年報』によって思想集団を形成し,ヘーゲル哲学を現実的に乗越えようとした。これはやがて⇨マルクスを生み出す思想的土壌となった。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

ヘーゲル左派とはヘーゲルを現実的に乗り越えようとした運動でした。
カール・マルクスを簡単に指摘すると「絶対知」を「知の廃棄」の容易さへ再び導く「白ミサ」のメシアとなっています。
それはロゴスのイマーゴ(真善美の回復)への信仰でした。

「知の廃棄」の容易さへ一々敵対する「黒ミサ」は「知の鵜呑み」の容易さを形成し簡単に扇動される愚民を大量に生み出す。
そのような地獄の世界から「白ミサ」によって「知の廃棄」の容易さを回復し「神の王国の到来」へ導いていく。
そのために黙示録(revelation)が必要だった。
「資本論(ロゴス)」とは副題を「国民経済学批判」と言います。
それはロゴスのイマーゴ(真善美の回復)への信仰であり「白ミサ」であったのです。
それがカール・マルクスの「カトリック信仰」であり「白ミサ」のメシアである理由なのです。

このような「知の廃棄」の容易さから受肉するロゴスは「天使の両翼」と言えます。
それがカール・マルクスの「革命」であったのです。
「神の王国の到来」への「革命」がカール・マルクスの目的だった。

しかし「最悪の災が世に起こる凶兆」が近年顕著であるでしょう。

何故ならば暴君(サタン)を賛美する「ヲタ芸」はカトリック信仰への「黒ミサ」で地獄(特殊詐欺)を形成しているからです。
地獄とは「知の廃棄」の容易さへ一々敵対する「黒ミサ」により「知の鵜呑み」の容易さを形成し簡単に扇動される愚民を大量に生み出した末法思想(絶対知)の一向宗徒の世です。
これは聖・織田信長の時代と同じ状況です。

このようにヘーゲリアンが「知性(悟性)・理性・学者」へ一々敵対するあり方は末法思想(絶対知)であり一向宗徒の様に堕落したあり方と全く同様です。
わかり易く言えば「絶対知」は「知の廃棄」の容易さへ一々敵対する「黒ミサ」の存在であった。
そして「黒ミサ」の主張は「知の鵜呑み」の容易さという堕天(絶対知)となる。
そして絶対知とはデマゴーグ(詐欺師)を容認する。

これは聖・織田信長が実在した時代背景と非常に似ています。
「最悪の災が世に起こる凶兆」の時に「白ミサ」のメシアが再来するのです。

暴君(サタン)と一向宗徒は彼らの「大変な才能」を「黒ミサ」の「ヲタ芸」によって形成しながら密接に関係している。
そういった「知の廃棄」の容易さへ一々敵対して「知の鵜呑み」の容易さへ堕落させる「黒ミサ」の賛美は「黒ミサ」を「大変な才能」だとしている。
要は「デマゴーグ(詐欺師)」を「大変な才能」と言っているの過ぎない。

「ゲスの極み乙女」はカトリック信仰へ一々敵対し「黒ミサ」を行った音楽バンドでした。
それは「ROCK'N'ROLL」ではありません。
何故ならば「ROCK'N'ROLL」は「白ミサ」のメシアだからです。
「ゲスの極み乙女」は「ヲタ芸」でした。
そして「黒ミサ」の暴君(サタン)だったのです。

メンバーの一人が事件を起こした時に「大変な才能」と評されていました。
この様に「ヲタ芸」による「黒ミサ」が「大変な才能」とされて暴君(サタン)は容認されてしまいます。
このようなあり方が暴君(サタン)の容認を生み「最悪の災が世に起こる凶兆」となっていきます。

そのようなあり方とは「劣等」が大威張りとなった「バカ万歳!」のことです。
みっともない若者文化でした。
みっともない芸が大流行したのです。
「デマゴーグ(詐欺師)」が「大変な才能」とされ「クール」だと祀られているのです。

何故このようにみっともない日本サブカルチャーが大流行してしまったのだろうか?

文化破壊によって未開社会へ舞い戻った劣等な人間動物は滅んだ方が世界の為なのだろうか?

それともメシアが再び出現し人間動物をカトリック信仰へ導くのだろうか?

司馬遷「史記」から考察する

歴史信仰の「白ミサ」とは司馬遷「史記」により形成されたと思えます。
暴君(サタン)の記述は司馬遷「史記」にその記載がありました。
国家の歴史信仰を否定する暴君(サタン)から幾人もの歴史家がその身を犠牲にして歴史信仰を守り抜こうとした記載です。
そういう意味で「中国の歴史」とはただ長いだけではなく確かな歴史信仰を持った文化となり得ている。
中国文化とは歴史信仰から国家信仰を形成した一個のオリジナル(作家性)と言えるのです。
オリジナル(作家性)とはカトリック信仰からロゴスを受肉することです。
歴史(ロゴス)を改竄する暴君(サタン)は絶対知を主張します。
絶対知で歴史を改竄するのです。
それがデマゴーグ(詐欺師)の出現です。

司馬遷
史記 斉太公世家(第二)

斉の史官が書いた。
「崔杼、荘公を弑す」
崔杼は、これを殺した。その弟がまた書いた。崔杼はまた殺した。その末弟が、また書いた。崔杼は、ついにこれをそのままにした。

平凡社「史記」

「国家の体」を失えば国家が滅ぶ

しかし暴君(サタン)の改竄から「歴史」を守護する歴史信仰は「国家の体」と言えます。
だから「国家の体」を失えば国家は滅ぶだろう。
まともな歴史信仰がない国家は「国家の体」をなしていないと見做され滅ぶことになるからです。
そして「国家の体」とは国家信仰でありその信仰者を国民と言う。
カトリック信仰が滅べば信仰者(国民)も滅ぶことになります。

自虐史観という屁理屈は「ヲタ芸」による文化破壊だった

歴史信仰を歴史観と言い直す傾向が近年顕著でありました。
例えば「自虐史観」という歴史観です。
しかしどのような歴史的事実であっても歴史信仰に於いて真実であればそれを「歴史」として記載することが国家信仰の責任であるのです。
このように「自虐史観」とは歴史信仰へ一々敵対した「黒ミサ」でしかなかった。
国家信仰へ一々敵対する「黒ミサ」は堕天使ルシフェル召喚(絶対知)となる。
そのような国家信仰への敵対行為は「ヲタ芸」というサブカルチャー(絶対知)となり文化破壊となりました。
そういった国民国家の危機において救民救国のメシアが待望されます。
要は「歴史信仰と国家信仰」はカトリックロゴス感覚の受肉としてあり「歴史観と国家観」は絶対知としてある。
しかし絶対知とはカトリックロゴス感覚へ一々敵対して形成されたデマゴーグ(詐欺師)でしかなかった。
暴君とはデマゴーグ(詐欺師)だった。

国家信仰が歴史信仰を完全に放棄してしまったらどうなるのだろうか?

「国家の体」は失われ国家信仰は瓦解する。
そうなったら国民国家は窮地に陥るのです。
何故ならばその時に「歴史信仰と国家信仰」が滅ぶからです。
カトリック信仰が失われれば信仰者(国民)は滅んでいき国民国家の根拠(ロゴス)が完全に喪失します。

「白ミサ」のメシアと「黒ミサ」の暴君(サタン)

当然の如く歴史信仰とはカトリック信仰によっている。
だから国家信仰を滅ぼすことはカトリック信仰へ一々敵対する「黒ミサ」によっている。
そしてそのような「黒ミサ」は歴史信仰へ一々敵対する暴君(サタン)となって出現する。

しかし彼ら暴君(サタン)はカトリック信仰の「白ミサ」の方を暴君(サタン)として非難する。
何故ならば彼ら暴君(サタン)は彼らの安全地帯(神の門)を形成する屁理屈で自らの権利を強硬に主張しているからです。
簡単に言ってカトリック信仰へ一々敵対することで形成した「バベルの塔」だったのです。
その暴君(サタン)らが安全地帯(神の門)を形成する屁理屈をカトリック信仰により公に暴露することは黙示録(revelation)と言われます。
しかしそういった聖戦は暴君(サタン)を祀る「ヲタ芸」から逆賊として攻撃される。
当然のようにヤンキー(地域的エリート感覚)の容認が暴君(サタン)を祀る「ヲタ芸」によって広く宣伝され容認されていく。
そのような安全地帯(神の門)は「黒ミサ」を執り行う暴君(サタン)を「スター」の如く祀る「ヲタ芸」の「天国」となっている。
ヤンキー(地域的エリート感覚)の容認は「ヲタ芸」によってなされる。
このような「ヲタ芸」の「天国」は堕天使ルシフェル召喚(絶対知)と言われます。
実際は「ヲタ芸」の「天国」は「ヲタ芸」による「地獄」と言えます。
そのような「ヲタ芸」による「地獄」は「黒ミサ」の暴君(サタン)を堕天使ルシフェル(絶対知)として召喚する。
デマゴーグ(詐欺師)が暴君(サタン)として君臨する地獄なのです。
そういったあり方は「最悪の災が世に起こる凶兆」と言われます。

「ヲタ芸」による「地獄」の「大変な才能」とは堕天使ルシフェル召喚(絶対知)を示しそれは「黒ミサ」による「古典的詐欺」だった。
それは典型的な犯罪となっています。
このような「大変な才能」は「ヲタ芸」による「黒ミサ」が形成した「古典的詐欺」による印象操作だったのです。

彼らは「スター」になっています。
しかし彼らはにによる「地獄」の「スター」なのです。
「ヲタ芸」の「大変な才能」とはそれ自体が堕天使(絶対知)を「スター」の如く祀っている「黒ミサ」でしかない。
デマゴーグ(詐欺師)が暴君として君臨する地獄なのです。
それは「劣等な才能」を「スター」の如く祀るネオ・ナチズム(クール・ジャパン)だったのです。

ここでカトリックロゴス感覚の「白ミサ」を執り行えばそういったカトリック信仰の「白ミサ」とは最悪の暴君(サタン)ではなく最高のメシアであることは確かとされます。

最高のメシアは「神の王国の到来」という「天国」へ「白ミサ」により人を導く。
その「白ミサ」とは黙示録(revelation)なのです。

けいじ【啓示】
revelatio; revelation
神あるいは超越的存在が,一般的意味において人間自身の力では認識できない秘密,特に神が人間の理解をこえて実在する本質が,いわば逆説的な緊張関係においてあらわにされることをいう。人はこの啓示によって神との交わりに入ることを許される。啓示は人間の予測をこえてただ神の側から一方的に訪れるものであるから,キリスト教では,救いを目的とした神の恩寵としての奇跡的行為とみなされる。また神と交わるということは人が神と同化するというのではなくて,むしろ逆説的にみずからの罪と卑小さを悟り真に神を信じ,神を恐れ,救いを待つという意味での人間的関係を神と結ぶことを意味する。キリスト教における啓示は一度限りの決定的な出来事,すなわち神の言葉の受肉としてイエス・キリストにおいて現れたとされるが,このキリストにおける特殊啓示だけを排他的に主張する立場(K.バルト),神の被造物における一般啓示をも認める立場(自然神学)などがある。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

rev・e・la・tion /rɛvəléIʃ(ə)n/
―n
1 明らかにすること,暴露,摘発,すっぱ抜き;発覚〈of〉;明らかにされた事物,意外な新事実,思いがけないこと.
2 〖神学〗 啓示,天啓,黙示;啓示[黙示]されたこと,お告げ;聖書;[the R― or (the) R―s,〈sg〉] 〖聖〗 ヨハネの黙示録 (=the Apocalypse) 《新約聖書の The R~ of St. John the Divine;略 Rev.;cf. JOHN》.
~・al a 啓示[天啓]の.
[OF or L;⇒REVEAL¹]

『リーダーズ英和辞典(第3版)』 研究社

「聖・織田信長はメシア」であり「ヲタ芸人・北野武(ビートたけし)は暴君(サタン)」だった!

北野武監督はヤンキー集団を「クール」として「スター」の如く祀る作品を制作し高評価されています。
北野武本人が多くの自作品でヤンキー(地域的エリート感覚)を「クール」とし建立することで自らその主役を演じ宣伝してきたのです。

しかしそのような演技は演技ではなく「ヲタ芸」による印象操作でした。

そのようなヤンキー(地域的エリート感覚)を「クール」とする面子(絶対知)とする建立は古から「バベルの塔(神の門)」の建造と言われています。
それはカトリック信仰のペルソナ(ロゴス)へ一々敵対するだけが存在理由なのです。

バベルの塔
全地が一つの言語、同じ言葉であった時のこと、彼らは東から移動して、シンアルの地に平地を見つけ、そこに住み着いた。
彼らは互いに言った、「さあ、われらは煉瓦を作り、焼き上げよう」。彼らは石に代わり煉瓦を、漆喰に代わりアスファルトを得た。また言った、「さあ、全地の面に散ることがないように、われら自ら都市と頂きが天に届く塔とを建て、われら自ら名を為そう」。
ヤハウェは降りて行き、人の子らが建てた都市を見た。ヤハウェは言った、「みよ、彼らは皆一つの民、一つの言語である。そして、彼らのなし始めたことがこれなのだ。いまや、彼らがなそうと企てることで彼らに及ばないことは何もないであろう。さあ、我らは降りて行き、そこで、彼らの言葉を混乱させてしまおう。そうすれば、彼らはお互いの言葉が聞き取れなくなるだろう」。
こうして、ヤハウェは彼らをそこから全地の面に散らした。彼らはその都市を建てることを止めた。それゆえ、その名をバベルと呼ぶ。ヤハウェがそこで全地の言葉を混乱させたからである。
ヤハウェは、そこから彼らを全地の面に散らした。

岩波書店「旧約聖書 創世記」

一 バベルはバビロン、エレクはシュメル以来の都市ウルク。アッカドはメソポタミア最初のセム系王国の首都アガデ。カルネは北シリアのクラナ(読み替えれば「それらすべて」)。

岩波書店「旧約聖書 創世記」

一 バビロンのこと。前六世紀のバビロ二ア捕囚期、この都市には九〇メートルにも達する高塔が聳えていた。
ニ バベルを動詞「混乱させる」(バラル)から説明。

岩波書店「旧約聖書 創世記」

又、カトリック信仰(ロゴス)に対して傲慢にも一個の世界観(絶対知)を主張する行為であった。
この様な世界観(絶対知)は「村上ワールド」にも言えます。
そして「北野ブルー」にも同様に言えるのです。
「北野ブルー」は一個の世界観(絶対知)を「クール」として建立した「バベルの塔(神の門)」であったのです。
しかし絶対知はデマゴーグ(詐欺師)でしかありません。
彼らの作品は虚偽なのです。
何の価値もありません。
特に北野武監督作品『首』は露骨なデマでありそして阿呆の絶対知です。
そういったあり方が「doxa」なのです。

カトリック信仰に対して一個の世界観(絶対知)を建立することは「方舟(聖櫃)」へ一々敵対する「人工の第2の方舟」の建造と言えます。
それこそ「バベルの塔(神の門)」なのです。

しかしヤンキー(地域的エリート感覚)とはカトリック信仰へ一々敵対することでしか存在し得ない。
それは影のように付き纏う「黒ミサ」なのです。

それは「歴史(ロゴス)」を改竄する暴君(サタン)を意味します。
ヤンキー(地域的エリート感覚)は「歴史信仰と国家信仰」へ敵対する「黒ミサ」を司っている。
それは北野武監督作品が全てデマゴーグであることを如実に示しています。
北野武監督作品は「政治的宣伝作品」であり「自己宣伝作品」でしかないのです。

北野武監督作品『首』に暴君(サタン)として描かれた聖・織田信長は歴史信仰に於いてカトリック信仰の「白ミサ」であったと見做すことができます。
実際のところ歴史信仰の感覚(ロゴス)では北野武監督作品『首』の真反対を示している。
聖・織田信長はカトリック信仰の「白ミサ」によって救民救国のメシアとされていたと考えられるのです。

一方で歴史信仰へ一々敵対する「黒ミサ」の暴君(サタン)は堕天使(絶対知)を「スター」の如く祀る「ヲタ芸」により形成される。
このような堕天使(絶対知)こそ暴君(サタン)です。
それはヤンキー(地域的エリート感覚)がカトリック信仰へ一々敵対することでしか存在し得ない「黒ミサ」であり一個のオリジナル(作家性)に対し影のように付き纏う存在であることを示している。

そういう意味で「聖・織田信長はメシア」であり「ヲタ芸人・北野武(ビートたけし)は暴君(サタン)」であったと言えるでしょう。

そして現在北野武監督作品は「世界の北野」と呼ばれ尊敬の対象になっています。

何故カトリック信仰へ一々敵対する一個の世界観(絶対知)がこれ程までに高評価を得て世界的映画賞を受賞できたのでしょうか?

それは映画賞という存在が「方舟(聖櫃)」へ一々敵対する「人工の第2の方舟」でしかなかったからです。
それはカトリック信仰へ一々敵対する一個の世界観(絶対知)を「クール」として建立した「バベルの塔(神の門)」であり人間の大傲慢感覚だったのです。

「聖書」と「神の王国の到来」

「カトリックワールド(聖櫃)」と「一個の世界観(神の門)」の両タロットカードは象徴的に存在している。

そして国民国家とはカトリック信仰の歴史信仰が形成する国家信仰によっている。
その正体は「聖書」の歴史信仰から形成される「神の王国の到来」となっているのです。
それが「天国(ロゴス)」です。

てんごく【天国】
heaven
一般には天上にあるとされる理想的世界をさす宗教的観念。ギリシア語の hē basileia tōn ouranōn(Kingdom of Heaven)の訳語であるが,新約聖書ではこの語は神の国の言い替えであり,両者は同じ意味をもつ。元来神の国はイエスの宣教に出る観念で,メシア待望思想とともにユダヤ教の終末思想の系譜に属し,神の意志と力の支配のもとに義と恵みの満ちる未来の世界をさしていたが,この未来性が審判の観念と結合して個人の生涯に転釈され,正しい生活をおくった信徒の霊が死後永久の祝福を受ける場所をいうようになった。しかしまた必ずしも死後に限らず,神の支配が完全に行われるところとして,人間の心のなかにも天国が存在するとする考え方もある。イエスの宣教した天国,すなわち神の国の福音の解釈については,その実現をすでに現在のうちにあるとするものと,終末的末来にあるとするもの(A.シュバイツァーら)で議論が分れる。天国は paradiseの訳語とされる場合もあるが,これは死者が永遠の幸福を受ける場所であり,同様の観念は古代ギリシア,インド,イスラムなどの多くの宗教圏においてみられ,この場合は普通地獄に対する観念とされている。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

「聖書」の「歴史信仰と国家信仰(ロゴス)」が「国民国家の謎」だったのです。

神の王国の到来
さて、ファリサイ人たちに、いつ神の王国は到来するのかと問われ、彼は彼らに答え、又言った、「神の王国は、観察しうるようなさまで到来することはない。人々が『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』などと言うこともない。なぜならば、見よ、神の王国はあなたたちの〔現実の〕只中にあるのだ」。

神の王国での宴会
そこでは嘆きと歯ぎしりとがあるだろう。アブラハム、イサク、ヤコブそしてすべての預言者たちが神の王国に〔いる〕のに対し、お前たち自身は、外に投げ出されるのをお前たちが見る時は。そして人々が東から、西から、北から、南からやって来て、神の王国で食事の席に着くだろう。
そして、見よ、最初の者になる最後の者たちがいる、そして最後の者になる最初の者たちがいるだろう」。

岩波書店「新約聖書」

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