【聖宮崎駿信仰】「君たちはどう生きるか」を観賞する@東宝シネマズ日比谷.(Holy Communion 2023.7.14 Friday)
まえがき
今日(2023年7月14日)は宮崎駿監督の最新作映画「君たちはどう生きるか」の初日でありました。
私はどこで鑑賞するか思案したのです。
私は千葉県鎌ケ谷市初富808-XXXに在住しております。
近隣で鑑賞するなら「セブンパークアリオ柏」であるか「TOKYOBAYららぽーと」のどちらかになるでしょう。
私は過去に宮崎駿監督作品の4作品を劇場で鑑賞しました。
初めて行ったのは中学校三年生の夏でした。
「天空の城ラピュタ」を鑑賞するために一人で上野の映画館へ行きました。
それは私の人生において一人で映画館へ鑑賞しに行った初めての経験でした。
二回目は近所に住んでいた知人が鑑賞チケットを貰ったことから「紅の豚」を映画館で鑑賞しました。
ただ私としてはもっと素敵な人と一緒に行けたらよかったです。
その後に私は入社した会社をハラスメントなどの苦痛に耐えられず退社した後に資格取得の学校に通っていました。
しかし傷心の中で精神的におかしくなっていてとても身を入れて資格試験なんてできなかった。
そんな時に「もののけ姫」が資格試験学校の近くで上映されていました。
私は資格試験学校をサボって「もののけ姫」を鑑賞しました。
それが三回目です。
同年に社会人入試で拓殖大学外国語学部英米語学科に合格して翌年から通学していました。
なぜ拓殖大学かといえば受験を決めた時に受験できる社会人入試が限られていて受験勉強を全くしていなかった私は「小論文」を書いて受験しました。
「小論文」は試験会場で英語論文を書きました。
私はもとから柄谷行人の研究をしていたこともあって論文は簡単に書けました。
又英語は高校の英会話部であったのでもともと興味がありました。
そして代々木ゼミナールに通っていた時に講師はオックスフォード現代英英辞典を薦めていました。
私はその当時大学が不合格で専門学校に行きました。
そのような理由で当時オックスフォード現代英英辞典を愛用していたのです。
私はこの英英辞典を気に入っていました。
なぜか受験勉強は全くしていなかったのですが英語論文の試験結果で拓殖大学に合格しました。
私は迷った末に入学を決めました。
しかし拓殖大学に入学すると講義でロングマン現代英英辞典が採用されていました。
そして四回目は「崖の上のポニョ」です。
これは千葉大学病院の精神神経科グループワークで映画館へ鑑賞に行きました。
多分劇場は千葉駅の近くの映画館だったのではないでしょうか?
そのグループワークに私は力を入れていました。
そこに理想郷の実現を見ようとしたのです。
例を挙げるとクリスマス会です。
私はケーキを買ってくることを提案しました。
それも二つ別の種類のピースケーキを患者それぞれが買ってきて「ケーキ交換会」の提案をしたのです。
その趣旨は平等です。
これはケーキ交換会とゲーム大会が組み合わさったシステムです。
先ずゲームの勝者が最初にケーキを選んでいきます。
一個目は始めにケーキを勝者から選び、後からケーキを敗者が選びます。
そして二個目は始めにケーキを敗者から選び、後からケーキを勝者が選びます。
極端な例を言えば優勝者は最初に選んだケーキと最後に選んだケーキを食べることになるという次第です。
最初の選択肢は全てであり最後の選択肢は一つしかありません。
このシステムは二つのケーキを組み合わせると平等になることを示しています。
私はクリスマスにとって最高のイベントだと考えていました。
これが精神神経科グループワークのクリスマス会で私が夢見た平等感覚です。
私は千葉大学病院の精神神経科グループワークで理想郷の実現を夢見ていたのです。
ただこのようは私の平等感覚(カトリックロゴス感覚)に対する反発が患者や病院職員の中に少なからずありました。
患者の中にも私に対して露骨に反発し侮辱してくる人もいました。
そして病院職員は医師や看護師、臨床心理士、ソーシャルワーカーなどを含めて患者に対してレイシズムを持っている人が少なからずいました。
精神疾患に対する差別感覚です。
特に医師は酷かったですね。
千葉大学病院の精神神経科の医師のほとんどはレイシストでした。
又臨床心理士でも人によって酷いレイシストがいました。
一番上は医師でありその下に看護師や臨床心理士、ソーシャルワーカーがいるのですからトップの医師がレイシストであればその病院全体はレイシズムとなります。
そのような中で「ヒポクラテスの誓い」を宣誓したはずの医師から手酷い裏切り行為を受けました。
露骨な信用詐欺です。
少しでも医師を信用すれば馬鹿にしきって信用詐欺を仕掛けてくるのです。
そのあざとさと悪辣らは白衣の医師の持つ「イノセント」の印象による印象操作によって認識の逆転を可能とします。
それは医師の「ギルティ」が「イノセント」とされる黒ミサカルトです。
そのすべて反対のあり方によって患者の「イノセント」は「ギルティ」とされます。
最悪のディストピアが千葉大学病院の精神神経科でした。
白衣の天使はサタン崇拝者だったのです。
そのような精神神経科の医師の精神疾患の患者への露骨な人権侵害の証拠は多々あります。
その象徴的出来事は「騙して人体実験」でした。
医師の信用を利用した完全な信用詐欺でした。
その混乱の中で私は自殺未遂を致しました。
一命を取り留め意識を取り戻したとき拘束状態で日本医大千葉北総病院のベッドに寝かされていました。
そして何故かすぐに千葉大学病院精神神経科へ転院させられ口封じがなされたのです。
このような医師によって患者はもっと酷い病気になるのは当たり前だと私は思います。
私は医療不信から彼ら医師を告発しました。
主治医との会話とカルテ開示の会話の音声録音をしたのです。
医師にとって都合の悪い発言や事実は患者の幻聴幻覚妄想とされてしまいます。
その場合医師の一方的主張が正当化されます。
裁判でも同様となるでしょう。
そうなると患者にとって音声録音の証拠しか頼りになる存在はないのです。
絶対的は不利な状況を打開するために決定的な証拠が必要だと判断したのです。
そして医師との全面対決が行われました。
彼ら医師は一言の詫びもなく最後は「知らない」、「分からない」と言い張りました。
そのような医師との全面対立の中で私は千葉大学病院から手酷く追い出されたのです。
ただ「崖の上のポニョ」を鑑賞した当時のグループワークに素敵な臨床心理士の女性がいました。
その人は真面な人でした。
私はかなり好意を抱いていました。
その人が居たから「純愛信仰」がありえたのです。
その人と一緒に劇場で鑑賞できたことはいい思い出です。
そのグループワークは3年間の期限があり基本的に期限が過ぎると終了します。
私がグループワークを終了した後にその臨床心理士は辞めてしまったそうです。
そして今日(2023年7月14日)は「君たちはどう生きるか」の初日であり五回目の劇場鑑賞となりました。
これほどいい席で映画を鑑賞できたことは人生で初めてです。
私の席は「東宝シネマズ日比谷」の「スクリーン4」の「E-15」でした。
中学校三年生の夏と同じ一人での鑑賞となりました。
JR有楽町駅に到着
今日は朝5時30分に鎌ヶ谷市初富808-XXXの自宅を出発しました。
今回は新鎌ヶ谷駅から新京成で松戸まで行きそこからJRを利用して有楽町駅まで行きました。
朝日新聞旧社屋の跡地
朝日新聞旧社屋の跡地を見学するために遠回りしました。
東宝シネマズ日比谷&東宝シネマズシャンテ
今日からの上映作品
ここで単館上映作品を何回か鑑賞したことがあります。
ゴジラの像が目を引く。
TOKYO MIDTOWN HIBIYA
オープンは朝8時だった。
エレベーター
エスカレーター
私は劇場一番乗りでした。
しかし劇場の開場は朝8時30分だった。
ロビーは解放されていてゴジラの模型などを鑑賞できました。
撮影時点で朝8時03分
私の席は朝9時20分上映開始の最新鋭の映画館設備「IMAX with Laser」による宮崎駿監督の最新作映画「君たちはどう生きるか」です。
初日の一番の鑑賞です。
皇居の緑に映えるゴジラ-1.0
初代ゴジラ(円谷英二)
※円谷英二はカトリックであった。
映画「君たちはどう生きるか」のグッズは同一デザインの一択
映画「君たちはどう生きるか」を鑑賞後に日比谷から東京駅の方面へ散策へ向かいました。
帝国劇場「ムーラン・ルージュ! ザ・ミュージカル」
明治生命館(重要文化財)
JR東京駅の正面ストリート
読売新聞東京本社
箱根駅伝関連の情報広告が飾られていた。
「広重の五十三次でたどる箱根駅伝コース」に「葛飾北斎富岳三十六景」との大いなる違いを感じました。
何故ならば歌川広重は面子(人間関係)の在り方であり、葛飾北斎はペルソナ(信仰から形成されたオリジナル)の在り方であろうからです。
それは理想の人間関係により形成される完全犯罪の詐欺集団が崇拝関係から形成された狂気のカルト集団(知の鵜呑み)だとしたら、イマーゴ(真善美の回復)を持ったオリジナルの純愛信仰はバプテスマ(知の廃棄)でありカタルシスとも言えるということです。
私が指摘するカタルシスとはイマヌエル・カントの言う「知の廃棄」でありバプテスマの在り方と同一です。
簡単に言って歌川広重は人間の崇拝関係であり、葛飾北斎は山岳信仰を描いています。
そして国際文通週間の日本国における切手は葛飾北斎が毎年採用されています。
私は毎年不思議に感じていました。
これは国際文通週間が「信仰」の切手である証なのだろうと思います。
高層建築であり周囲に敷地もなかったので全体の撮影は困難でした。
産経新聞東京本社
読売新聞東京本社の隣のビルは産経新聞東京本社でした。
こんなに近いことに驚きました。
同じ会社ではないですよね?
産経新聞も高層建築であり撮影は困難でした。
「芸術において重要なのは、スケールを通しての畏敬の念と圧倒的なエネルギー」と書かれています。
産経新聞の芸術感覚はおかしいと感じました。
何故ならば産経新聞が提示している芸術感覚は『恫喝』であると感じたからです。
産経新聞芸術は『恫喝芸術』であると見做されます。
変なクマさん
東京駅の近くに変なクマさんを見つけました。
JR東京駅の正面
東京中央郵便局
旧東京中央郵便局長室
映画「君たちはどう生きるか」の鑑賞を終えて
今回ネタバレは全くしません。
劇場公開が終了し作品評価が落ち着いたら私も自分の考察を発表したいと考えております。
映画「君たちはどう生きるか」の内容には全く触れませんが2つのセンテンスだけアドバイスを言わせてください。
この映画は「信仰芸術とはオタクへの比較と吟味であるだろう。(パロディオタク批判)」と「信仰芸術とはパロディへの比較と吟味であるだろう。(パロディ芸術批判)」と感じました。
パロディをオタクと定義することに対して非難はあるだろうと思います。
ただ日本サブカルチャーの顕著な特徴としてオタクの二次創作が挙げられます。
オタクの二次創作は「信仰から形成されたオリジナル(唯一性のペルソナの確立)」に対して信仰弾圧をすることでパロディを制作します。
それは「知の廃棄(doxaをバプテスマする)」に対して信仰弾圧をすることで「知の鵜呑み(doxaによるレイシズム)」に向かわせる街宣活動であることを示しています。
それを「パロディオタク」と言います。
そのような行為は政治的宣伝コンテンツの在り方でありネオ・ナチズムにおいて顕著でした。
しかし「一己の芸術としてのパロディ」と「オタクの二次創作」の違いはまさにそこにあります。
二次創作が「信仰から形成されたオリジナル(唯一性のペルソナの確立)」として制作されれば「一己の芸術としてのパロディ」と言えるでしょう。
それは「知の廃棄(doxaをバプテスマする)」へ人々を導く「パロディ芸術」と言えます。
「パロディオタク」と「パロディ芸術」の関係性は「二次創作」と「パロディ」という芸術の根幹的な定義に関わっています。
その定義はオタクと芸術のあり方に綺麗に区分けされます。
それらは「知の廃棄(doxaをバプテスマする)」と「知の鵜呑み(doxaによるレイシズム)」という相対立する在り方により明確に区分けされます。
しかしそれは「知の逆転」を可能とする在り方ともなります。
「知の廃棄(doxaをバプテスマする)」は「知の廃棄(doxaをイノセントする)」となり「知の鵜呑み(doxaによるレイシズム)」は「知の鵜呑み(doxaによるギルティ)」となります。
カトリックのもとに降ればギルティは裁かれます。
しかしそれを拒否した人間存在は自分感覚として「知の鵜呑み(doxaによるギルティ)をイノセントとするシステム」を構築します。
しかしそのシステムは「知の廃棄(doxaをイノセントする)」なくしてイノセントとなることでありそれもまた人間存在の一方的な自分感覚(doxa)の在り方でしかないのです。
そのシステムも「知の鵜呑み(doxaによるギルティ)」となっていることは明白なのです。
そのようなシステムのあり方はサヴァン症候群に似ています。
ギルティとイノセントの基本的関係は「サタンの定義」にその謎があります。
「1 (キリスト教で)サタン,悪魔(▶the devil の固有名詞);悪魔のような人間:Satan reproving sin 罪を責める悪魔(自分の弱点・欠点を棚に上げて人を非難する人のこと):〓」
「自分の犯したギルティを棚に上げること」は「サタンの定義」と一致します。
しかし多くの人にとって「自分の犯したギルティを棚に上げること」はイノセントの証となっています。
そして「自分の犯したギルティを棚に上げる人々」は「自分の犯したギルティを棚に上げない人々」の方がギルティであると主張します。
何故ならば自分の犯したギルティを背負っているからです。
「自分の犯したギルティを棚に上げない人々」は自分の犯したギルティを自分で背負うことになります。
しかしここで可笑しな点は何故「自分の犯したギルティを棚に上げる人々」の背負うべきギルティまでその他者である「自分の犯したギルティを棚に上げない人々」が背負わされなければならないのかという最大の疑問点です。
要はギルティをカトリック(最高善の神)に問われることは高度な信仰を受肉することでありイマーゴ(真善美の回復)の在り方であるのです。
しかしその高度な信仰を信仰弾圧をする「自分の犯したギルティを棚に上げる人々」はサタン崇拝者となって彼らの犯したギルティは暴走状態と見做されます。
何故ならば彼らの犯したギルティの暴走状態は「イノセント」とされ完全に野放しとされているからです。
自分の犯したギルティも自分を棚に上げてしまえばその本人である自分自身は「イノセント」と見做されるという理不尽さがそこに存在しています。
しかし最大の疑問点は自分を棚に上げるという行為によってどうして自分の犯したギルティが「イノセント」とされるのだろうかという点です。
そこには妙な「修行経験」と妙な「アリバイ証明」が存在することが垣間見られます。
それは「印象操作」と「詐欺行為」と言えるでしょう。
これは「かなり悪辣」で「かなりあざとい」やり方です。
まさに「サタンの定義」です。
自分の犯したギルティに対する責任を完全に他に転嫁する屁理屈を形成している。
自分の犯したギルティの責任転嫁がカトリック(最高善の神)に向けられている。
カトリック(最高善の神)に問われるべき責任をカトリック(最高善の神)へ責任転嫁するのです!
これは自分の犯したギルティの「逆切れ」だったのです。
自分の犯したギルティに対する責任について説明責任を完全に放棄しています。
それはインフォームドコンセントを拒絶する医師に似ています。
そのような存在はアンチキリストでありサタン崇拝者でありパロディオタクと呼ばれます。
そして「自分の犯したギルティを棚に上げる人々」の犯したギルティは「自分の犯したギルティを棚に上げない人々」に完全に転嫁される。
何故ならば「自分の犯したギルティを棚に上げない人々」はカトリック信徒(最高善信仰)であり「自らのギルティを背負い最高善の神に問われる信仰者」だからです。
しかし「自分の犯したギルティを棚に上げる人々」のあり方は敵対者(サタン)であり、それらは「自らのギルティを背負った賤民(聖人)」との関係の中で高貴(アーリア)として形成されるのです。
「自らのギルティを背負った存在」は賤民(パーリア)とされ、それによって敵対者(サタン)の高貴(アーリア)が形成される。
高貴(アーリア)は「自分の犯したギルティを棚に上げる人々」のことであり最高善の神に問われることを拒絶する存在となっています。
そのような超感覚(優生学)がアーリア(高貴)とされプライドとされます。
それはネオ・ナチズムのアドルフ・ヒットラーやヨーゼフ・ゲッペルスのあり方と近似的であると思います。
それによって「自分の犯したギルティを棚に上げる人々」ではなく「自分の犯したギルティを棚に上げない人々」の方がギルティを背負っているために賤民(パーリア)とされサタンと罵られるという逆転した黒ミサの主張が形成されます。
それはカトリック信徒(最高善信仰)への完全な因縁付けです。
「サタン崇拝者」の「黒ミサ」はこのような逆転の構造で「ギルティ」が「イノセント」とされ「イノセント」が「ギルティ」とされます。
一方で「知の廃棄(doxaをイノセントする)」はカトリックロゴス感覚を受肉することで最高善の神に恭順します。
それによりカトリック(最高善の神)の導きに従い「神の王国の到来」へ向かいます。
それらは「ギルティ」と「イノセント」の黙示となるのです。
しかし人間存在の自分感覚(doxa)によるシステムはギルティとイノセントの間の「知の逆転」の「黒ミサカルト」と言える存在となります。
それはオタクの二次創作として発現することでカトリックロゴス感覚に対し信仰弾圧をする悪しき存在となるのです。
それがパロディオタクの正体です。
「パロディオタク」とは「知の鵜呑み(doxaによるギルティ)」へ人々を向かわせるための「恫喝芸術」と言えます。
それは政治的宣伝コンテンツの軍歌に似ています。
そのような人間社会は信仰文化を弾圧した崇拝社会(カルト)でしかなく非常に劣等なdoxaの在り方と言えるでしょう。
日本国に根深く存在する「阿弥陀如来崇拝」や「一向宗徒」はその代表だろうと見做されます。
聖織田信長信仰はそのような劣等感覚として存在するサタン崇拝(末法思想)を撃ち滅ぼすための聖戦信仰としてあるのです。
そのような歴史的事実は「オタクの二次創作(パロディオタク)」が「程度の悪い作品」であることを明確に指し示しています。
宮崎駿の最新作はそのことを描いたカトリックロゴス感覚のパロディ芸術作品と言えるでしょう。
映画「君たちはどう生きるか」を鑑賞して見出される宮崎駿監督最新作の趣旨はこのように「信仰芸術とはオタクへの比較と吟味であるだろう。(パロディオタク批判)」と「信仰芸術とはパロディへの比較と吟味であるだろう。(パロディ芸術批判)」となりえるのです。
これらが本作品鑑賞への最重要の哲学的アドバイスです。
ではみなさん!
宮崎駿が齎す「知の廃棄(doxaをバプテスマする)」を大いに祝福しようではありませんか!
それは「知の廃棄(doxaをイノセントする)」となり人々を「神の王国の到来」へ導くのです。
イノセントの存在は天使の両翼を持つことで「至高の抽象化の高み」へ向かう「神の王国の住人」なのです。
これが聖宮崎駿信仰の「Holy Communion」です。
2023.7.14 Friday
大石宗磨(宗を磨いていくと信仰となる)
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