シュバイツァー博士を知っていますか
私がいる街(今は、少し日本にいるけど)の出身者アルベール シュバイツアー博士は、1952年にノーベル平和賞を取った。それは日本とは関係のないアフリカでの医療活動に対してだけど、1957年に入ると、日本の被爆者と一緒に核廃絶運動を開始し、キューバ危機の1962年には、核廃絶を訴える手紙をアメリカ大統領ケネディに書いた。
被爆者とも交流が深く、日本のお土産を喜んだ。風月堂のゴーフルが好きだった。母は、自分のおじさんのように、シュバイツァー博士の話をした。長崎市内爆心から6キロのところにお家があったため、母の身内は、お骨もない人がほとんど。ちーおじさんは、趣味の乗馬でお山に入って、落馬して死んだの。だからね、お骨がどこにあるかわからないの。とか、「お父さんも死んじゃった。お母さんも死んじゃった」を一日中つぶやいてた。どこまでが現実で、どこからが夢うつつかわからなかった。だけど、母はシュバイツァー博士をいつも誇らしげに語ってた。実際、シュバイツァー博士は、ケネディ大統領に、被爆した子供達のことを考えてくれ、被曝は何代も遺伝するんだと書いた。原爆が落ちた時、母は数え9歳。同僚のO君(「私がおばさんになったら、おじさんはいなくなった」参照)のおばあさんは、数え16、女学校の校舎内で被爆したという。おばあさんと喧嘩すると、おじいさんは、おばあさんが被爆したことを罵ったという。悲しかったとO君は憤った。母も自分の家を長崎だとはいわず、隣り街の諫早と、他の人には言った。
フランスで親友Jと戦争や原子爆弾の話しをよくした。今年の5月8日のフランスの終戦記念日は嬉しそうにスズランをくれた。だけど、悲しくって泣いてしまった。もし、日本がドイツと同様に、5月8日に降参したら、沖縄戦も広島の原爆も長崎の原爆もなかったんだよと言って泣いた。なんで、降伏しなかったの? と、Jは聞いた。
私は、私が子供の時は、政府は国民のこと考えてなかったから、終戦のタイミング逃したと思っていたけど、大人になって思ったのは、政府は、戦争の終わらせ方を知らなかったんだと思うと言った。気の毒そうに、Jは私を見た。そして、続けて、いずれにせよ、広島の原爆投下でほぼ壊滅した日本に、二発目の原爆投下は違法だと言った。だけど、一つ目の原爆も違法と思っている私は少し寂しかった。
今年の八月九日の原爆記念日は例年と違った。長崎市長が、イスラエルのガザ侵攻に対する反対運動で、騒乱が起きる心配があるので、イスラエルを慰霊祭に招待しなかったから。イスラエルをロシアと同じ扱いにしたと米国と英国は怒った。他のヨーロッパ諸国やEUも追随し、英米と同様、慰霊祭に参加しなかった。この長崎市長の決定には賛否両論あると思う。うちの子どもに、聞いてみた。
「お母さんはね、誰を招待するかは長崎市長が決めることだから、市長の決定を支持するけど、ふーちゃんはどう思う?」って。うちの子も、私と同じ意見だった。そんな時、ドイツは、フランスやアメリカと別の決断をし、献花に来てくれるというニュースを見た。嬉しくって泣いた。
9月2日にフランスに戻ると、すぐに、Jにこのことを話した。Jの夫はドイツ人で、Jのフランスドイツミックスの子供もドイツの学校に通っている。Jも喜んでくれた。
帰国前に、Jの家に招待された時(「鯨、食べていませんから」参照)、私が、ユルゲンに、ドイツとドイツ人にお礼が言いたいのって八月九日、長崎の被爆者に献花してくれてありがとうとフランス語で言った。フランス語があまりわからないユルゲンは、目をパチクリした。エステルは長崎の慰霊祭の件を知ってて事細かに話した。Jが、ドイツの勇気を讃えた。だって、イスラエルのことに関してはドイツは非難されること必至なのに、被爆者のために来てくれた。Jの娘がニュースを見つけだして、ドイツ語で読み上げた。幸せだった。
今日の、平和賞のニュースでまた泣いた。