奇妙にも本質主義者になっている
こんばんは。
「ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと」を読み終えました。
「奇妙にも本質主義者になっている」。
面白い表現だなと思って、タイトルにしてみました。
皆さんは、本質主義者でしょうか。
それとも、構築主義者でしょうか。
imidasの説明では、「両者は対立関係にある」とありますが、僕はこれらが「二項対立を成して、決して交わらないもの」だとは思いません。
「本質的であることは良いこと」というイメージが湧く方も多いのではないでしょうか。
良い悪いをジャッジするのは個人ですが、「本質は、ただの本質」なのではないかと僕は思います。
事柄や実践には、「本質」があるのだとしたら。
その性質について探し続ければ、「本質」にたどり着くことができるかもしれません。
たどり着いたとして、そこにあるのは「ただの本質」でしかないのです。
否定的に言いたいわけではなく、本質を知っただけは何もならず「その本質をどう生かすか」という視点がなければ何も始まらないのではないでしょうか。
これは、構築主義にも言えることです。
事柄や実践は、「社会的に作られたもの」で移り変わるのだとしたら。
「どうせ変わってしまう」と全てを見過ごすような態度は、あまりに無責任です。
無力感を抱くこともあるかもしれませんが、「どう移り変わりたいのか」という意志を持つこともできるはずです。
本質主義と構築主義。
どんな立場にいるのだとしても、そこから「どう生きたいのか」。
そんな視点が大事なのではないでしょうか。