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奇妙にも本質主義者になっている

こんばんは。
「ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと」を読み終えました。

今や私は、自分が奇妙にも本質主義者になっているのに気づく。これが私の真のありようなのかと、またしても思い悩み、気分を害し、そして、気分を害するほど愚かであってはならないからといってまた気分を害するのだ。

ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと/アンジェラ・チェン 羽生有希 訳

「奇妙にも本質主義者になっている」。
面白い表現だなと思って、タイトルにしてみました。

ある事柄や実践が、変更不可能な性質を有しているとする立場を本質主義、社会的に作られたものであり、その性質は変更可能だとみなす立場を構築主義と呼ぶ。たとえば「人種」が生物学的に決定されているとする立場は本質主義、社会的または文化的に構築されたものだとする立場は構築主義にあたり、両者は対立関係にある。

imidasより

皆さんは、本質主義者でしょうか。
それとも、構築主義者でしょうか。
imidasの説明では、「両者は対立関係にある」とありますが、僕はこれらが「二項対立を成して、決して交わらないもの」だとは思いません。

「本質的であることは良いこと」というイメージが湧く方も多いのではないでしょうか。
良い悪いをジャッジするのは個人ですが、「本質は、ただの本質」なのではないかと僕は思います。

事柄や実践には、「本質」があるのだとしたら。
その性質について探し続ければ、「本質」にたどり着くことができるかもしれません。
たどり着いたとして、そこにあるのは「ただの本質」でしかないのです。
否定的に言いたいわけではなく、本質を知っただけは何もならず「その本質をどう生かすか」という視点がなければ何も始まらないのではないでしょうか。

これは、構築主義にも言えることです。
事柄や実践は、「社会的に作られたもの」で移り変わるのだとしたら。
「どうせ変わってしまう」と全てを見過ごすような態度は、あまりに無責任です。
無力感を抱くこともあるかもしれませんが、「どう移り変わりたいのか」という意志を持つこともできるはずです。

本質主義と構築主義。
どんな立場にいるのだとしても、そこから「どう生きたいのか」
そんな視点が大事なのではないでしょうか。


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