思いやりの生まれるところ
映画「最悪な子どもたち」をみました。
問題だらけの子どもたち
映画をみながら浮かんでいたのは、「思いやりとは」ということです。
汚い言葉を使わないこと。
人を侮辱しないこと。
シンプルなことで思いやりは表せるものかもしれませんが、「そのシンプルさが表層的な繕いと繋がっていないか」と自問します。
汚い言葉で相手を罵りたくなる気持ち。
異質を受け入れられない気持ち。
そういう気持ちをコントロールして繕うこと。
それが「思いやる」ということなのかと考えると、僕は正直わかりません。
映画の中にも「怒りをコントロールして」と大人が言っている場面がありました。
感情をコントロールする、というのが僕はいいことだとも、できることだとも思えなくて、そうして表されたものは相手を傷つけない代わりに自分を殺しているのではないかと思ったりします。
「思いやり」って、人のことを傷つけないためにあるものではなくて、「一緒に生きていくため」にあるのかもしれません。
一緒に生きていくためには人のことを傷つけてはいけないでしょ、ということかもしれませんが、同じように自分のことも殺してはいけないのです。
感情のまま表したものは、自分を守って誰かを傷つけるかもしれない。
感情を無視して繕ったものは、相手を守って自分を殺すかもしれない。
どちらでもなくて、どちらも繋がっていることなのかもしれません。
誰のことも傷つけない方法などないのかもしれないけれど、綺麗なままでいられなくとも模索することを諦めたくないな、と思います。
完璧じゃない大人たち
失ったものを他の何かで埋めようとすること。
それが得意なのは子どもより大人の方ではないでしょうか。
もしくは、大人は失ったものが何であるのかを突き止めようともせず、必死で「何か」を埋めようとしているのかもしれません。
それがどんなものでろうと、「何か」で満たされているというのは安心できる状態でしょう。
「何かを失った状態」でいると不安を感じる。
でも、無理して「何か」で安心できる状況を作り出すこともない気がします。
と書いてみたものの、不安でいるより安心したいものですよね。
「何かを失った状態」というのをそのまま観察できるといいのかもしれないな、と思います。
そこで湧き上がってくるものは、湧き上がってきたものとしてまた感じることができればよくて。
観察を飛ばしてしまうと、それは穴が空いたコップに水を注ぎ続けることになってしまうように思います。
最悪だって、完璧じゃなくたって、きっと思いやりを生んでいける、育んでいける。
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