つまりもう自由でしかないわけですよね。
「音を視る、時を聴く[哲学講義]/大森荘蔵+坂本龍一」を読んだ。
あると思う。
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芸術作品でも、言葉でも、相手の意図した通りに受け取るということはできない。
意図した通りに受け取れると思うこと自体が、傲慢なのかもしれない。
相手から発せられたものをどう受け取るか。
そこには、自分の「主観」がある。
共感やエンパシーということを思い浮かべる。
今年のテーマにもしている「アナーキック・エンパシー」にも繋がってくる。
共感とは、「相手のことを相手の視点から考えよう、感じようとすること」だと思っていた。
でも、それは「しようとすることはできたとしても、そうはできないこと」だ。
主観を手放すことはできないし、手放す必要もない。
そう考えていくと、「アナーキック・エンパシー」とは、「主観を持ったままエンパシーを発揮すること」とも言えるかもしれない。
相手から発せられたものを相手の意図通りには受け取れない。
自分が発したものも自分の意図通りに相手に伝わることはない。
ネガティブに聞こえるかもしれないが、それは「自由でしかないこと」とも言える。
キャッチボールができない自由の中、どうやって他者と生きていくのか。
本の中の言葉にヒントがあった。
自由でしかない中で「ある整合性」を探していく。
そのプロセスこそが「他者と生きること」なのだと思う。
とても面白い本だった。
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