ブルーノ・ワルター
帰宅時の車内で、ブルーノ・ワルターが指揮するコロンビア交響楽団のブラームス「交響曲第4番」を聴いていた。その時に、雷に打たれたようにワルターの凄さを理解した。
高校生の頃かな。ワルター/コロンビア響のシューベルト「ザ・グレイト」を、とても期待して買って聴いたのだけど、その魅力を感じ取れなかった。そしてその時の印象からずっと変化していなかった。どこかで誰かに「あれ、面白くないよ」ぐらいのことを言ったかも知れない。
けど、今日聴いたブラームスの凄さに打ちのめされている。どのパートも聴き取れるのは、深く歌い込んでいるからだ。響きの作り方が、とても立体的。旋律であろうとなかろうと、どの楽句にも意思が込められている。どう演奏したいか、という意思が手に取るように分かる。「聴いて!」という主張がどのパートからも聞こえる。楽句を「旋律」と「旋律以外」に分別して響きを整えるような音楽作りとは真逆。それぞれ楽句の横の流れが、そこかしこでガッチリと手を結び合い、離れて、また集まる。オーケストラ内の波のような関わり合いに酔わされるうちに、曲は終盤にさしかかり、更に新鮮な表現を提示してくる。ブラームスの「交響曲第4番」はもともと大好きな曲だけど、まだまだこの曲にこめられた魅力があったのだなあ、と驚いた。
そして帰宅後に、かつては「面白くない」と感じたワルター/コロンビア響の「ザ・グレイト」を久々に聴いている。聴き覚えがあって懐かしい演奏なのに、まさに今、この録音が壮絶な気持ちのこもった演奏であることに気付かされていて、自分の中の何かがボロボロと剥がれ落ちていくような感慨でいっぱいになってしまった。ブラームスで聴いた素晴らしさが、ここにもあって、それは本当に奇跡的な演奏だった。
ワルターが長生きしてくれて良かった。過酷な状況を避けてアメリカへ渡ってくれて良かった。いや、本人にしてみれば、ヨーロッパで切れ目のない演奏活動をしたかっただろうし、もしナチスの迫害がなく、ヨーロッパでの活動が続けられたら、更に途轍もない音楽の力が彼に宿ったかも知れない。それでも、彼がアメリカで残してくれた録音は素晴らしい。彼の人生を思うと、アメリカで活動をせねばならなくなったことは手放しで喜べないことだけど、現代の僕は感謝はできる。
音楽を聴くことは、決して受け身な営みではないな、と思っている。自分の中にある音や、今までに経験した感動の奥行き、そんな色々なものと目の前で演奏されている音楽との重ね合わせを自分で行なっている。それが音楽を聴くことなのだ。何十年も前に亡くなった指揮者に、今、教えられた。