還る場所
木皿泉さんの「さざなみのよる」という本を読んだ。
ナスミという人の生きざまと死を巡る、ナスミという河川に合流したことのある人々の話であった。
実際に、この小説のように人は出会っては、通り過ぎてゆくだけの存在だ。合流しては、分流し、また合流し、分流し…を繰り返すこともあるが、いずれ合流はしなくなる。それはただ縁遠くなることもあれば、死別もある。たとえ一緒に過ごしていたとしても、見たり感じたりすることは、別の世界であり、それぞれのフィルターをとおして物事を計る。
ナスミと関わりを持った人々のうち、ある人は生前のナスミとの間に起きたことを思い出し、ある人は生前にした約束を死後に果たしたりする。ナスミの死後も、それぞれの人生は淡々と続いていく。そうすると、人間関係のことは思い出として時折思い出したりするだけでよく、悪いことについては経験として同じ過ちを繰り返さないようにするだけで良いのだと思える。例えば、他人にされた仕打ちに囚われていては自分自身の人生が停止するだけで、何の得にもならないのだとナスミの人生が教えてくれる。ナスミのように自分自身にウソをつかずに正直に祈るように込めて生きることは、他者への祈りになり伝播するのだ、と感じた。とすると、負のものも伝播する。そしたら、自分も相手も幸せになるような生き方、理想論であっても、それを祈ってナスミのように生きることがやはり素晴らしいと感じた。
この本の終盤近くで、光というナスミの夫との再婚相手の間の子どもが自分の誕生の秘密に気付き、生と死について悩む。その結果彼女が出した結論は、「ただやってきて、去ってゆく。ナスミちゃんがこの家から去って、自分がやってきたように。誰かが決めたわけではなく、図書館の本を借りて返すようなそんな感じなんじゃないだろうか。本は誰のものでもないはずなのに、読むと、その人だけのものになってしまう。いのちがやどる、とはそんな感じなのかなぁ」だった。たましいのことや、人の生死に限らず人生全てひっくるめて、そんな感じだと私は思う。
本書を読みながら思い出したのは、祖父の死であった。祖父は寝たきりで、自宅で祖母が介護していたが、ある日、訪問医が心臓の異常に気付き、救急病院に搬送された。一命はとりとめたが、余命が幾ばくもないのは明らかであった。
救急病院で手術をし、入院して間もなく、主治医に呼ばれた。祖母と母と私で、主治医の話を聞いた。主治医は頭を丸め、まるで修行僧のようであった。後頭部から首筋にかけて大きな傷痕があり、恐らくこの医師は幼い頃に病気か何かで手術をし、医師を志したのだろうと思った。
その医師が口にしたことは私たちに、延命治療の選択をすることであった。救急病院で入院を続けるためには、胃ろうをしてもらわなければ入院させることはできず、胃ろうをしないのであれば、病院から出てもらうとのことだった。胃ろうとは、口から食べ物を入れずに、胃に直接栄養を流し込む延命治療の一種である。
もうそれほどご飯が要らない祖父である。胃ろうを選択すれば、口から飲むことも食べることもできなくなる。それは、祖父にとって無理矢理生かされるという残酷な選択になる可能性もある。私は、その日初めて、口からご飯を食べるのが当たり前でないことを知った。私は、喉がからからに渇いて水が飲みたくなったら、死んでも良いから、口から流しこんで潤したい。それが、どれだけ幸せなことだろうか。
母は主治医に、先生ご自身のことだったらどうされますか?と、尋ねた。そうしたら主治医は、私は胃ろうは選択しません、と即答した。それならば答えは明らかであった。しかし、正式な回答は、その場ではせずに持ち帰った。
私は祖父が自分で答えを出すだろうと思っていたが、案の定、数日後に危篤になった。慌てて病院に駆けつけた私たちはあまりにも元気な祖父の姿を見て、気が抜けてがく然としてしまった。
私の姿を見つけるなり祖父は、飛行機をここに呼んでくれ、一緒に沖縄に行くぞ、としきりに言った。ここは病院だから、おじいちゃんが元気になったら呼んであげるからね、と言っても聞かない。私と沖縄に行ったことが晩年の祖父にとって最高に鮮明な記憶なんだと感じると、何だか嬉しいのと悲しいのが混じった複雑な気持ちになった。
祖父は、80歳過ぎても大手の建設会社に勤務し、多くの人から信頼を得ていて、頭脳明晰だった。ところが、不倫はするは、やることなすことが時に派手で破天荒であった。そのためか、5人の孫のうち、誰も祖父と2人で旅行に行ったことはなく、生涯で私だけであった。私は内心イヤだったけれども、行って自分のためにも本当に良かった、と思った。
そうこうしていたら、危篤であったはずの祖父は天井を見つめ、恍惚とした表情を浮かべ、みんなが幸せになるといいのになぁ、と言った。そんなことを思う祖父ではなかったが、人は自分の死が目前に迫って来ると、良いことも悪いこともひっくるめて全て受け入れて、まるごと全部幸せだと感じられるようになるのかもしれない。
本書で、晩年のナスミが千手観音の真言(おんばざらだるまきりくそわか)を唱えなと言っていたように。この真言の意味は、生きとし生けるものが幸せでありますように、という意味だという。死を意識し出すと人は建前でなく、本心から優しくなれるのであろう。
それから、祖父は胃ろう手術に持つ身体ではないと判断され、救急病院を出て介護施設に移った後すぐに、そっと息を引き取った。
祖父という流れの中に、どっと流れ込み祖父の人生に彩りを添えた私。私という流れの中に祖父は最初からいて、良いことも悪いことも色んな彩りを添えてくれて、そのうちそっと離れていった祖父。
ナスミが言った言葉が響く。
私がもどれる場所でありたいの。誰かが私にもどりたいって思ってくれるような、そんな人になりたいの。
多分、それは生きてる間のナスミではなく、この世からいなくなったナスミが行った場所と同じところにもどりたい、って思えるような世界にナスミ自身がなりたいということではないだろうか。
たった一度だけ、祖父が亡くなってから私は祖父に夢で出会った。何を話したか全く覚えておらず、言葉では上手く表現できないが、こんなに温かな気持ちになったことが今だかってないくらい温かく、こんなに幸せな気持ちになったことが今だかってないくらい幸せな、本当に満たされた気持ちで私は目覚めた。とても、夢とは思えないくらい鮮明で、もう少しあの場所にいたかったと心から思った。
生を全うした人々が還る場所、本書で光のいう、図書館とは、この上なく温かく、この上なく幸せな、もどりたくなる場所なのかも知れない。
そして、この温かな気持ちを思い出させてくれた「さざなみのよる」は、これからも私の人生の一筋の光となってゆく手を照らし続けてくれるであろう。