徒然草 伝えるということ
伝えるということは、本当に難しい。
ある人がやってることに対しておかしいと思うことを伝えようと努力しても、全く伝わらないことがある。
伝わらないと、腹立たしくなるが、感情的になってもしょうがないので、どうやったら伝わるか、試行錯誤する。そして、伝え方を工夫する。それでも全く伝わらないことが多々あって、それが会社の場合だと、そのままいくと大事になると気付くので、こそっと先回りして食い止める。要するに伝えることを完全に諦めるのだ。
それが会社の人だったらまだいい。長くて2年くらい辛抱すれば人事異動でおさらばだ。しかし、家族だとそうはいかない。
けれど、会社だって、人事異動でまた伝わらない人が来るので、いたちごっこだ。無限ループのメビウスの輪だ。
きっと一生解決しない問題だと思う。
あまりにも伝わらないと、相手ではなく、こっちがおかしいのかと思ってしまうこともある。
でも、よくよく考えると、考え方の違いって、不思議なことにもう幼児期には現れているのだ。
そうすると、脳の使い方の性質の問題ではないのだろうか。
私が大学にいたときの話だ。
大学4年生になると、卒業論文を書くため、研究室というところに配属される。研究室というのは、色んなテーマを扱うものがある。私は土木の学科だったので、流体という河川の中の水や砂を扱う研究室に所属していた。
私はたまに、担当の教授に呼ばれてお説教されていた。研究室の仲間みんなそうだったので、なんてことはなかったが。
ある日教授に呼ばれて、チッと毒づきながら教授室に向かった。
教授の第一声は、こうだった。
「お前は、すごく頭がいいのか、すごくばかなのか、どっちだ」
助手も同席してて、色々私について説明してたが、私は内心せせら笑っていた。
先生、どうして中間がないんですか、って言いたかったけれど、言うと長くなるので、とりあえず聞いてるふりをしてやり過ごす。
がちがちの理系の脳を持った人には、中間がないことがたまにある。私も少なからず、そうであるが、色々経験しているうちに、ゆるーくなってきた。
大学生だった頃の私は、同級生たちが誰一人解けない問題を難なく解いていたが、不思議なことに、公式に当てはめればすぐ解けるという皆が解けるものを間違えていた。そのため、時にとんちんかんなことを口走ることがあった。
教授は、黒板に書かれた水路を指した。
「お前は、これ、どう解く?」
私は、解き方を説明した。
教授と意見があったのだろう。すぐに解放してもらえた。いや、ひょっとしたらお説教ではなく、意見を闘わせたかったのかも知れない。
今になって思うことは、当然ながら私は賢くないし、多分ばかでもない。脳の使い方の癖だと思う。ある点では賢いし、ある点ではばかかもしれないということだけだ。
私は、図とか、数式とかを見ると、ピピピ、と脳が動くことが分かる。だが、それを口頭や、文章で説明されると全く意味が分からず、そういう種類の問題は私の正当率が著しく低くなった。文章での説明が難しいと図示になる。だから、図示されることによって一般に正当率の低い問題でも私は回答できていた、ということだと今は合点がいく。
あと、私は、漫画がものすごく読みにくい。図を把握する側の脳と、文章を把握する脳を同時に動かすことが苦手というか、そういう性質だからだと思う。
漫画を読むときは、内容ではなく、絵の間違いを探している。
研究室だと、研究仲間と助け合わないと進まない。だから、得意なことを表立って積極的にしてくしかない。すると、誰が何を得意とするか一目瞭然となった。模型を作るのが得意の子、発表が異様に上手い子、瞬発力が異様にある子…。
多分、研究室は自分の足りないものを補い合うところで、別に何か不得意があってもそれでいいんじゃないなと思う。
それは、社会も同じだ。しかし、社会は足の引っ張りあい、嫉妬が先立つ。それが残念だけれど。
そう考えてくと、伝え方って、相手の脳ミソの癖を理解して、伝え方を逐一変えないといけないのか。
という、考えても解決しそうにないことを、大好きなカフェでコーヒーを飲みながらボーッと考えた。
大好きな焼きショコラを食べて、ホクホクしながら。
そして、価値観が合う人と出会えることは、ものすごく奇跡なんだというなんだか、ズレた結論で終了した。