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マチネの終わりに

『日蝕』で、芥川賞を受賞した平野啓一郎さんは、私が卒業した学校の先輩だった。
といっても、平野さんと学内ですれ違うこと等は決してあり得なかったことだし、その頃の私の学校生活が現在の私に何か影響があったか考えてみても大きな事件もなく、進路とか将来について思い悩むことも全くなかった、そんな過去のことだ。

私がその頃、興味を持っていたことのひとつは、アインシュタインの相対性理論だった。その理論を理解できるような年ごろでも頭脳でもなかったが、特にとりつかれたのが、光の速度を追い越せば、不老不死で人生を過ごせるということだった。
冷静にこれを現在いま考えてみると、そんな子どもが不老不死で、光速を超える乗り物にのり続けて何が楽しいのだろうと思ってしまう。

その少女は、高校で物理の世界を知るや、時間等の肉眼で見ることができないものを追うことが苦手なことに気付き、水という見える流体を扱う技術やになることになるのだが、見える見えないに関係なく、物の動きを読むことは果てしなく難しい。
ましてや、人の心となると、それはもっと複雑だ。

話は変わるが、アインシュタインに続き、宇宙や時間の証明に挑んでいた物理学者のひとりといえば、スティーヴン・ホーキングだ。

ホーキングは、タイムマシンを作ることは、理論上不可能としている。
それは、現在起きていることは、過去に起きたことを原因とする結果の集大成である『因果律』によるものとし、それが崩れた場合、宇宙が破綻することになるからだという。
ただ、ホーキングは、時間を逆行する素粒子の存在も示唆している。それは、『逆因果』といって、ある結果はその原因よりも前に起こることがあるという。

あくまでも分かりやすい言葉に置き換えてみた私の考えであるが、おそらく『因果律』は運命の証明で、自身の手で変えることができるものだと思う。一方『逆因果』は、宿命に近いもので、自身の手では全くどうしよもない事柄ではないかと思う。

その『因果律』と『逆因果』を文学という手段を使って表現することに挑んでいると感じたのが、平野啓一郎さんの『マチネの終わりに』という小説だ。

実は、これが初めて読む平野さんの本になる。
なぜ学生の頃に読まなかったのかは分からないが、若くして天才である平野さんと平凡な私との差を見ることになるのを恐れたのではないかと思う。

本書は、四十代という『人生の暗い森』を前に出会った天才クラシックギタリスト蒔野と、国際ジャーナリスト洋子の、宿命のような出会いと愛、そして恋の行方を描いたものだ。
恋愛小説というよりも、人々の思惑、複雑化している社会システムと情勢、戦争、家族、病、死に翻弄されながらも、生まれ持った宿命を受け入れ過去を変えつつ、未来へといかに歩を進めるかということがテーマとなっている。

そして、その元となっているのが、蒔野の言葉だ。

人は変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で感じやすいものじゃないですか?

平野啓一郎『マチネの終わりに』

人は、悩み、過ちを犯しつつ、経験し、自分自身にとって何が正しいのか、幸せとはどういうことかを取捨選択し、成長してゆく。
それは、天からの才能を与えてもらっている者も例外でなく、感性をさらに磨き続けて成長してゆく。

どうしても分かりあえることのない人、罪の意識に苛まれ人生の脇役に徹して贖罪に生きる人、才能がないことに苦しむ人、本書では様々な人が登場する。しかし、自身の現在の生活の中に違和感やおかしさ、偽りのものを感じ取ってしまったとき、それを無視し続けて生きてゆけるほど人は強くない。
だから現在にいながら過去を変えにゆき、その結果、未来を変えてゆくのだろう。

すれ違って、二度と交わることはないほど駒を進めてしまった蒔野と洋子の人生は、『いつかまた、それぞれの人生がここから十分に遠ざかった頃に、心静かに再会する時まで束の間の関係の休止』期間を終え、また出会う。

他者を慮りつつ、自身が自分の人生の主役であることを忘れずに、いつ果てるとも知らない人生を謳歌すること、本書はそれを教えてくれたように思う。

(完)


本記事は、以下の本の感想文です。

その他の参考文献は、以下のとおりです。


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