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【第3回:狩野永徳】おしえてトーハク松嶋さん!

おしえて北斎!-THE ANIMATION-」は、絵師になることを夢見るダメダメ女子高生の前に、歴史上のスーパー絵師たちが次々と登場し、絵が巧くなるコツと夢を叶えるためのヒントを伝授していく、“日本美術”と“人生哲学”をゆるく楽しく学べるショートアニメーションです。

監督は、原作の著者にして生粋の日本美術マニアでもある”いわきりなおと”。そして、本作の日本美術監修をされたのが、東京国立博物館(トーハク)研究員の”松嶋雅人”さん。このお二人が、本作に登場するスーパー絵師たちについて語るロングインタビューを8回に分けてお届けします。

第3回目は、第3話に登場するスター絵師”狩野永徳”(1543年~1590年)。幕府お抱え絵師集団・狩野派の絵師の一人であり、日本美術史上、最重要絵師。

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【狩野永徳ここがすごい!】
監督:第3話は「描きたいと思う気持ち それがあるだけで才能の塊なんだ!」がテーマです。
狩野永徳は天才絵師と言われていますが、このテーマに狩野永徳を選んだのには理由があります。一般的に、絵を描くには生まれ持った特別な能力が必要であると思われがちですが、狩野派は世襲制で、狩野家に長男として生まれたならば、絵師になることは絶対でした。中には、絵が下手な人もいるはずなのに、皆、絵師になっています。つまりは、絵師になるための方法があるということ。それは何か?やはり学びと努力なんですね。第一話の尾形光琳と重複しますが、天才と言われている人は、間違いなく子供の頃から努力しています。そこが第三話に永徳を選んだ理由です。狩野家は、特別なDNA を持った家系ではなく、実は、絵師になるためのノウハウを持ち、それを脈々と受け継いでいった家系だったんです。

松嶋さん:狩野家は原則、総領(嫡男)が家業を継いでいく長子相続で、例えるならば、秘伝のタレを代々受け継ぐ老舗の料理屋と同じで、絵を描くノウハウを秘伝にして継承していったんですね。狩野派は、元々は水墨画といったモノクロームの専門絵師集団で、色絵の世界とは異なる分野に属していました。水墨画は、鎌倉時代の途中より禅とともに中国から入ってきた描き方です。当時、禅宗寺院では水墨画が使われていて、狩野派がそこに取り入ったんです。さらに、その禅宗寺院と武家が蜜月だったこともあり、狩野派は、大きな力を得るようになりました。室町時代、永徳の祖父である狩野元信の時代では、色絵の大きな流派・土佐派が、朝廷や歴史ある寺院と仕事をしていました。そこで、元信は土佐派の娘と結婚して、土佐派の流儀を手中にしてしまうんです。そのかいあってか、水墨画と色絵の技法を両方持つことができて、ノウハウが蓄積され、後進に伝えていくことができるようになります。それが後に「粉本」と呼ばれる“型”が書かれているお手本書です。例えば、念仏を唱えている様子を描くのであれば、拝んでいる様子を描写しないとならない、と“型”が決まっています。言い換えれば、“型”=「記号」を知っているか否かで、注文を受けられるかどうかが決まるんです。仏画や仏像もそうですが、不動明王や観音菩薩も、姿形や装飾品や、印相が決まっています。それが違うと「阿修羅を作りました」と言っても、誰もそれが阿修羅だとは分からないんです。その“型”を恐らく弟子たちは月謝制のような形でこっそり教えてもらっていたんですね。今のお茶や花の世界と同じです。内弟子・外弟子というのもありますけど、外弟子であれば月謝を払わなければならなかったと思います。

檜図屏風

長い歴史と確かなノウハウを持つ狩野派は、今でいう「ゼネコン」に例えると分かり易いかもしれません。絵も政治政策の一環という位置づけで、イメージ戦略的な意味合いが強くありました。都市計画上「公共事業」として受注し、室内装飾を請け負ったのが狩野派で、家を作るのは別の専門集団がいました。城郭や寺院の建築は個別に注文されるのですが、そのバックには将軍や武士がいます。豊臣秀吉の時代はそれが大規模で、京都には、今残っている本願寺ぐらいの規模のお寺が沢山ありました。つまり、狩野永徳は芸術家というよりも、巨大事業のトップなわけです。絵が下手でも、統率するためにはある程度絵を描けないといけないし、マネジメントもしないといけない、プロデューサーもしないといけない、つまり大変なんです。過労気味だったと思います。

唐獅子図屏風

【狩野永徳・裏話】
<Q.長谷川等伯とはライバル関係だった?>
監督:狩野派が永徳の時代に変わろうとしている時に、ライバル絵師の長谷川等伯が出てきました。狩野派は政治力もあるので、裏で長谷川等伯を潰すような動きをしていたんですよね。

松嶋さん:狩野派は室町時代から続く老舗です。対して長谷川等伯は途中から出てきた一介の地方絵師。なぜ、そのような人が狩野派に匹敵するぐらいの力を持てたのかという所に意味があります。桃山時代、信長や秀吉の求めに応じて、巨大建築に合わせてサイズの大きな絵を描き始めたのが狩野永徳です。永徳は、室町時代からの狩野派の伝統を引き継いで描いていました。一方で、等伯は地方の絵師ということもあり、京都の価値観に染まっていなかったので、これまでとは異なるテイストを提示することができた。永徳は伝統を、対して、等伯は新しい時代を象徴していているようにみえたんですね。政治家が新しい時代を作ることを表明するために、「新しい表現」を使うことは常套手段。秀吉が政権を握った後に選んだのが、長谷川等伯でした。等伯を選ぶことで、「私が新しい文化を作っている」と示すことができる。狩野派では「古い伝統を引き継いでいる」という風にみられてしまいます。芸術は、利権を持つ人たちが、新しい時代を世の中に示すための政治手段でもありました。

また、どうやって等伯がそこまでのし上がれたのかという疑問ですが、仏教が絡んできます。等伯は日蓮宗の信者。活躍している京都の商人の多くが日蓮宗徒でした。だからこそ等伯は、経済的なバックアップを受けることができたんです。その人脈をフルに使って武家ともつながり、仕事を回してもらっていた。それは戦略的にやっていたと思いますね。晩年、息子を連れて江戸へやってきます。長谷川派の資料には徳川家康に会ったという記録があるんですが、江戸幕府の公式史書「徳川実紀」には記載されていない。恐らく、狩野派が手をまわして、実際は会えなかったんだと思います。なぜなら、将軍にお目見えすること自体が、家来として認められるということなんです。会えないまま、72歳で亡くなった…。等伯の晩年はちょっと暗い話になっちゃうんです。

★第1回:尾形光琳はこちらから
★第2回:高橋由一はこちらから

※次回、第4回は3月26日(金)更新予定です。

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