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テクノロジーの最終目標とは…可制御と役立ち論
テクノロジーの最終目標
ここで言う、テクノロジー(技術)とは、主に工学のことを指しています。
私は、テクノロジーの最終目標はモノ(物体・物質・エネルギー)の可制御だと考えています。 これに対して、作った(プログラム等も含め) モノの役立ち論を展開する人がいますが、そのテクノロジーが役に立つかどうかはかなり主観的です。 つまり、役に立つかどうかは、利用側の事情・利用者の能力や主観によって変わってくるものです。 例えば、山奥にコンセントが必要な電気製品を持っていって、役に立たないから電気製品の技術を否定することに似ています。
役に立つかどうかは使う側の問題(主観的な問題)
つまり、どんなに優れたテクノロジーであっても、利用者の能力が無かったりなども含めて、利用する環境が整っていなければ役に立たないのです。 俗に言う猫に小判の状態です。・・・これがとても多い。 優秀な部下をうまく使えないどこかの上司とよく似ていますね。 それを、役に立たないからといって、そのテクノロジー自体を否定するのは筋違いと言えるでしょう。 そのとき役に立たないと思っていたことが後で、とんでもなく役に立つことがあります。
未来のこと、あるいは、見えている範囲外を100%予測することは不可能ですから、それが役に立つかどうか、 当事者だけで考えてモノを開発するのは、物事の一面しか見ていない偏った見方と言え、後に大きな禍や利益を損なうことになり得ます。 そのとき役に立たなくても、可制御であれば、後に誰かがそれを利用しようと思ったとき役に立つことができるからです。
しかし、そのことは誰も予測不可能な場合が多いのです。 つまり、役立ち論は「結果論で主観的なものである」ということを肝に銘じておいた方がよさそうです。 ですから、可制御までがテクノロジーの最終目標とした方が、より普遍的な見方といえます。
モノ作りの目標と混同しないこと
ここで、私の主張を誤解してもらっては困るのですが・・・、上記はテクノロジーの最終目標であって、実際のモノ作りの目標ではありません。 モノ利用する側から見た作る目的(役立たせるかどうかは別)を曖昧にしていいと言っているのではありません。 作る動機はまさに、その主観・役立ちから発せられるものです。 ソフトウェアに限ったことではないのですが、設計段階では「要求定義」をできるだけ具体的にはっきり決めておねばなりません。
要求定義は非常に重要
「要求定義」は非常に大事です。 これを決めておかなかったり、決めていても利用者と制作者でコンセンサスがとれていなかったりすると必ず大きなトラブルに発展します。 「要求定義」は後に変更されることが、まま、あります。 ですから、尚更、はっきり決めておく必要があります。 なぜなら、どこが変更されたのか、比較しないと正確に分からないからです。 一から作り直すにしても、過去の問題点が曖昧なままだと、経験が活かされず、最悪、同じ轍を再び踏む可能性だってあります。
この世では、開発したモノが利用されなければ広まらないことも事実ですから、本来の目的とする機能は満たされることはもちろんのこと、人間工学的に使いやすい、便利なものを作るべきであるのはいうまでもありません。
「要求定義」や「設計」の変更は、その制作過程で、その「利便性」に問題が生じたとき行われることが多いのです。(目的とする機能まで変えるのは変更ではありません・・・作り直しです。) 特にソフトウェアは「人間工学的に使いやすい」ということが重要ですね。 今のGUIやウィンドウシステムもそれが目的で巨費を投じて作られてきましたから・・・
設計上の欠陥は避けたいがオーバースペックはほどほどに
「要求定義」を満たせば、役立つはずです。 作ったのに役に立たないのは、要求定義を満たしていないのか、要求定義が曖昧とかで欠陥があったからです。 言い換えれば、前者は、製造過程での欠陥で、後者は、要求定義自体の精度が品質に影響した設計段階での欠陥ということです。 勢い「可制御」である範囲を拡げれば(オーバースペックなど)要求を満たしやすいのですが、これも、本末転倒で、要求定義の作り直しから始めないと泥沼にはまります。
福沢諭吉の言う実学とは
一般的に学問的研究の目的を言う場合、前者のテクノロジーの最終目的を指すことが多いようです。 それに対して、一般社会の技術利用の目的は後者の モノ作りの目標になっていると思います。 私は工学部出身ですが、 工学部は理学部と違い役に立つものを研究しなければならない・・・とよく言われました。 福沢諭吉さんが言う実学のことを指しているのだと思いますが、しかし、どこかで、 引っかかるものを感じていました。 諭吉さんの時代は富国強兵策でしたので その背景が色濃かっただと思います。
3つの目標の違いを常に認識すること
私が持った違和感、それは、
(1)学問的研究(=真理の探究)
(2)技術の目標(=可制御)
(3)モノ作りの目標(=要求定義を満たすこと)
が混じっていたからでしょう。 これらの境界を明確にして研究・開発している人は少なく、特に大学の工学部は(2)と(3)がごちゃごちゃになっているように思います。 企業の研究・開発はほとんどの場合、明確な要求定義を持っており、ほぼ(3)ですね。 産学連携のとき、このあたりが明確でないと(少なくとも当事者の立場が明確でないと)トラブルの元になります。
ただ、(1)、(2)の目的の研究のために役に立つという要求定義があるため、余計に話がややこしくなり、今、何のためにこの研究をし、技術を磨き、機器の製造に注力しているのか、常に認識していないと、研究のフェーズが変わったときに、目的を見失ったり、本末転倒のことをしてしまったりするので注意が必要です。
余談:SFの永遠のテーマ
ここからは、話が少しズレますが…
これらのジレンマは、SF映画などにも良く根底のテーマとしてもよく使われていると思います。 時代にそぐわない優れたテクノロジーが 研究者の思いもつかぬものに利用(悪用)されて、悲劇を招くという筋書きです。
前者を科学(理論・研究)と後者を技術(利用・応用)という構図で考えてみましたが、あまりにも身近な言葉なので、 その意味は余計にわからなくなります。 両者は、対立するものでもなくむしろ親和性が高いもので、互いに助け合って進歩してきたものですから、普段は混同しても差し支えないのですが、ここぞと言うときには 違いをはっきり区別しておくべきでしょう。 特に、今流行の役立ち論は「結果論で主観的なものである」ということを・・・くれぐれもご都合主義に流されないよう注意いたしましょう。
希に、誰もが役立たないと思ってしたモノに、優れた利用方法を見つける賢人がいますが、このような人は特別で、私を含めた凡人はコツコツと目の前の身近な目標に向かって進むしかないです。