note_自分を変えた言葉

先生とは何ぞやを考えるようになったきっかけ。

「子どもたちは満足していただろうか?私は満足していなかったと思う。」

十数年前、初夏のできごと。
4週間の幼稚園教育実習も残すところわずか。
研究保育の反省会で園長先生から頂いた言葉です。

当時の私は、担当の先生に憧れていました。
4歳児のクラス。
穏やかで優しく、静かな声で話しても子どもたちは先生の言葉に聞き入る。こんな安心の空間を創れる人になりたいと思いました。

「ただ接しようとするのではなく、子どもの気持ちを尊重して距離感を大切にしているのが伝わってくるよ。」と、こちらの背景にも思いをめぐらせ指導してくれたことに感激したことを覚えています。(他の実習では観察や距離感を大切にしようとしても「もっと‟積極的”に子どもと関わって!」と言われることが多かったのです。当時は、その先生の言う ‟積極的” の意味が分からなかったんですが、見えやすい** ‟頑張りのようなもの” **を安易に求められていたことに気付いたのは数年後でした。)

そんな恵まれた環境の元、挑戦を温かく見守ってくれる4週間を過ごす中で、良いところも悪いところもフェアに見て助言をしてくれる先生の在り方は今の私にも大きく影響していると思います。

片付けの見通しが甘い計画なのはきっと分かっていただろうにロケーション優先で屋外で絵具活動をすることを許可していただいたり(部屋から遠い場所を選び、片付けの際に子どもを待たせてしまい、やってしまったことに気付く…)、子どもと一緒に盛り上がりすぎたり…的確な指導の一方で、それも良いところだと認めてもらえたことも大きかったです。(絵の具はカラッとよく晴れた日の木陰でとっても気持ちよかったんです。その後、子どもの表現活動が豊かになったという話を聞かせてもらったり、1年経っても子どもたちがその活動を覚えてくれていたことは本当に嬉しかった!)

日誌や指導案の量、続く失敗…心が折れそうなことは沢山ありましたが、豊かな時間でした。研究保育に向けても教材研究に余念はなかったです。

その研究保育で何をしたかは、ちょっと恥ずかしくて詳細はこの場では控えますが…「風船を使った表現遊び」をしました。

子どもたちと過ごす残り少ない時間、担当の先生への恩返し…いろんな想いが重なり、「充実した時間にしたい!」と、それはそれは意気込んでおりました。

迎えた研究保育の当日。

園長先生や主任の先生に見守られ、めっっちゃくちゃ緊張しながらも、子どもたちにとっても、自分としても楽しさを味わう良い時間が過ごせたんではないかと思っていました。

もちろん甘い部分は多く、覚悟を決めて反省会に臨んだのですが、この一言は予想だにしませんでした。

「子どもたちは満足していただろうか?私は満足していなかったと思う。」

一瞬その言葉を受け取れませんでした。

その後、あの場面はもっとこうしたら…こういうアプローチの方がよかったんじゃないか…頂いた言葉の数々から、幼児教育に携わる1人として、もっと深い次元の保育ができた可能性に気付いて、子どもたちに申し訳ない気持ちと悔しさが込み上げてきました。

その日は「本当に満足していなかったんだろうか?」とぐるぐる反芻しながらとぼとぼ歩いて帰りました。

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ということが十数年前にあったんですが、あの頃は「もっとできたんじゃないか」と満足を量でとらえていました。

でも、園長先生が言いたかったことはそこに留まっておらず、
「どこで満足するかはその子によって違う。一人ひとりに寄り添った進め方があったのではないか。」
ということを言いたかったのだと思います。

その気付きは、就職後に「クラスという集団を担当すると同時に1人ひとりと向き合うにはどうする?」という探究につながっていきました。

1人ひとりの存在がとことん大切にされることで、集団が「機能するチーム」のようになっていく。

‟先生”という職業はついつい小手先で集団をコントロールすることを覚えて、そこに自分の成長を感じることがありますが、それは全く本質的でなく、むしろ危うい。

そうなっていることに気付いて
「じゃあどうする?」と問いを立て
実践してみる。

そんな在り方の背景には、「あの日の園長先生の言葉もあるのかもなー」と、地下鉄に揺られながら思った今朝でした。

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