#6 「なぜ?」と「なに?」は、どう違う?
〈全文公開中〉
「なぜ?」はモノやコトへ。
「何?」は人へ。
箸とレンゲを使って、ラーメンを食べる。
スプーンを使って、カレーを食べる。
フォークを使って、パスタを食べる。
食事で適切な道具を選択するように問いを扱えたら、日常の見え方が変わるかもしれない。
それは自分の人生を生きることにつながり、自身に軽やかさを生み、困難があってもしっかり歩んでいけるようになる。
この仮説をもとに、問いについて探究を重ねています。
今回は、そのなかでも「なぜ?」と「何?」の違いについて書いていきます。
━━━━━━━━━━━
自分と向き合う、
自分を知ろうとする、
自分を見つめようとする誰かに問うとき、
相手の前進を引き出そうとするとき、
「なぜ?」で深堀りしていく。
大人の研修や高大生の学びの場で、「なぜ?」を繰り返し問うていく光景をよく見た。これを素晴らしい手法だと嬉々として語る人へ違和感があった。
後輩や若者に対して、自分の内側にある気持ちを見たり、やりたいことについてもっと深く考えてほしかったり、能動的なアクションを引き出したいとき、上長や大人が「なぜ?」を繰り返すケースを見てきたが、ほとんど機能していなかった。
「なぜ?」を繰り返して、「これだ!」という核心めいたものが見つかったように思えても、その後、壁に当たったときにその先に進めないことがよく起こっていた。
「なぜ?」は、人には機能しないのではないか。
そう感じていた。
━━━━━━━━━━━
「なぜ」は、原因を追究したり、検証したりすることに役立つ。
トヨタ生産方式の「なぜを5回繰り返す」は、人ではなくシステムに問題はないかを分析する。
「なぜ」は、モノやコトの問題解決に使うのが適しているのだ。
仕組みには効果がある「なぜ」を人に使うとき、何が起こるのか?
━━━━━━━━━━━
自分(または他者)の思考、感情、行動の原因を検証するときに「なぜ」と問うと、一番簡単で「もっともらしい」答えを探してしまう。
ここから先は 【insight(インサイト)――いまの自分を正しく知り、仕事と人生を劇的に変える自己認識の力|ターシャ・ユーリック|英治出版】を参考に書き進めていく。
人(自分や他者)にwhyで問うと、以下につながると指摘されている。
どうやら「なぜ」は、表層的なところで思考を停止させ、決断に混乱を生み、問題にこだわって自分を責めてしまうことにつながりやすいようだ。
人に「なぜ」を多用すると、誰かや何か、そして自分を責める方向にハンドルを切る。
私が子どもの頃は、叱責の場面で「なんで〇〇したの?」を使われることが多かった。
たしかに、背景や理由を聞かれているというより、責められている印象の方が強かった。
━━━━━━━━━━━
Whyは混乱を生み、Whatは自分をクリアにする。
ピンチのとき、調子が悪いとき、
「なぜこうなったんだろう?」と問うと
自分を責めたり、誰かを責めたり、何か(世の中など)のせいにする考えにとらわれやすくなる。
そんなときも「何」を軸においた方がいい。
「なぜ」との違いを感じられるだろうか?
「何」を聞かれた体験が少ない人の方が多いので、戸惑うかもしれないが、濃度を変えていくことで生まれる違いに驚くはずだ。それは数日後かもしれないし、数ヶ月、年単位の変化かもしれないが、地道に続けることが本当に望む結果に近づく最短ルートである。
人に使う場合のそれぞれの特徴を「インサイト」より抽出するとこうなる。
━━━━━━━━━━━
とっさに出る問いから、保育者としてのあり方をを観る。
「なんで?」の問いかけが多いか、
「何があったの?」「どうしたの?」が一言目に出てくるか。
二項対立ではなく、濃度の濃さを観察する。
相手と自分の間に「なぜ?」が濃くなると、自分の内側の小さな声、ほんとうの気持ちに矢印が向かなくなる。それは「それっぽい答え」や「相手が納得する答え」に注意が向くだからだ。
「なんで?」の問いかけが多くなっている場合には、自身の背景を確認する必要がある。
これらをただなくそうとしたり押さえ込んだりしようとすると、より強力に表出する可能性がある。できることとと言えば、気づく頻度を多くすること。気づいて、そんな背景があることを認めるだけでも濃度が薄くなることがある。
不完全さを受け入れて、葛藤を歓迎して、しっかり向き合う。
手軽な快適さはないけど、軽やかさにはつながるはず。
━━━━━━━━━━━
自分が使う「問い」を見つめ直すことの意義とは?
内側の気持ちに目を向ける問い。
それを相手にも自分にも投げかけることは、思いやりでもあると思う。
「なぜ?」は余白を生まない。「何?/どんな?」は、ひと息つく間が生まれやすい。
これを覚えておきたい。
相手に
「もっとこうしてほしい」
「もっと意見を出してほしい」
「もっと考えてほしい」
そう思ったときには、自分が使っている「問い」を見つめ直すところから始めた方がいいのかもしれない。
ここから先は
保育は人生そのものだ!
私にとっての「保育」という存在にも向き合っていきたい。子どもにとっての「保育」も、保護者や社会にとっての「保育」も考えていきたい。その営み…
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?