【缶と男】
私は東京の幼稚園に入っておりました。
父の仕事の都合でよく転勤していたものですから、「故郷」と言えるものはなく、なんとなく同級生には「東京育ちかな」と少し自慢げに言っていた時分もあったものです。
東京で暮らす前は神奈川県におりましたが、そこでの思い出は近所の友人と遊んでいた記憶しかございません。
覚えていることといえば、私が泥だらけで遊んでいると母が「あらあら」と言いながら楽しそうに笑っていることでした。
女の子だからスカートを履かないといけない、女の子らしくおままごとをしないといけない、といったことはありませんでした。
しかし、私が目立つということで話の話題が私に移り、母が注目されることにはなんとなく気がついておりました。
なんて可愛くない子でしょうか。
その時から、母には笑っていて欲しかったのでしょう。
東京ではどんなアパートに住んでいて、そのアパートで何をしたかも鮮明に覚えております。不思議なことにアパート名も覚えているのです。
楽しかった思い出といえば、姉と自転車に乗る練習をしたことですね。私は上達が早く、すぐに両手を離してはピエロのようにペダルを漕いでおりました。
姉とは不思議な関係です。
「好きか」と問われますとはっきりと嫌いです。同じクラスで出会っているとしたら、私は必ず避けるような人物です。しかし、姉にはなんでも話していいような存在だと勝手に考えております。
東京に住んでいた時の、私にとっての母の印象は「かわいそうな人」でした。
眠りにつけないある夜に、リビングの光に誘われ、その扉をそっと開けますとそこには母と父がおりました。
父の顔は覚えておりません。狐のような顔をしていた気はしますが、そのシーンの父の顔は全くと言っていいほどに真っ黒でした。
母の表情の方が、私にとって衝撃的だったからでしょうか。
母は泣きながら「お願いやめて、ごめんなさい」と泣きながら何度も謝っておりました。
父はそんな母になんの同情もせず、何か多分とても人が聞いたら傷つくような暴言を吐きながら母をアルコールの入った缶で殴りつけていました。
翌朝の記憶も、その時その瞬間に自分が何を思ったのかも覚えておりません。
今言えることは、そんなことが繰り返されている日常で、朝には「おはよう」、夜には「おやすみ」といたって平凡に過ごしている人間というものが気持ち悪く思えるという事だけです。
私は人よりも自我が強く、本当に嫌なものはなんだかんだ断ってきた人生でした。
それは幼少期にはすでに完成されていたようで、その時は「なぜ母は嫌がっているのに逃げないのだろう」と不思議に思っていたこともあります。
お金、子供、祖父母、世間体。
結局のところ「共依存」それが母から逃げる手段を奪っていたのです。