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こうすれば【不登校】を減らせるのではないか?
「不登校」解消に向けた実践を問いただそうとする動きは、教育の社会学だけではなく、さまざまな教育科学において幅広く見られます。
具体的には、それは「臨床」というキーワードで語られるようになり、90年代後半から多くの大学に「臨床教育学」や「教育臨床学」といった名前の科目やポストが設置されてきました。
教育社会学の領域でも「教育臨床の社会学」という名称がつくられ、さまざまな教育文献で編集されたり、
教育臨床社会学や学校臨床社会学などの科目が設置されてきました。
このような動きの背景には、教員養成のあり方はもっと実践的で、教育現場の問題に対応したものでなくてはならないという社会からの要請があります。
教職課程のカリキュラムは、この社会的要請受けて、90年代後半以降たびたび改編されてきました。
1998年の教員免許法の改正による介護体験の必修化、中学校の教育実習の期間延長、さらに2010年度から開設された「教職実践演習」科目などは、みなそうした流れに沿った改編です。
同様のねらいから2007年度から教職大学院も開設されました。
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臨床という言葉の意味のひとつは、文字どおり「病床に臨む」ことです。教育の場面において問題を抱えている人々(子ども、若者、教師など)の傍らにあり、その苦悩を感受しつつ、さらになんらかの状況の打開を模索するという姿勢を表すために臨床という言葉が使われるようになったのです。
教育臨床の社会学は、問題を抱えている人々に寄り添い、状況の打開を模索することを実践的な目指しつつも、単にその問題をそのまま引き受け対処法を考えるのではなく、まずはその問題をめぐるさまざまな思い込みや常識を相対化し、その問題が語られる際の筋立てをずらしていこうとします。
教育臨床の社会学は、「不登校」や「学校に行かないこと」について、どのようにアプローチできるのでしょうか。
教育臨床の社会学がなすべきことは、第1に、検討の対象となっている事象について「なにが問題か」を問い直すことです。
つまり日本では「学校に行かない」という問題のうち、不登校問題だけがクローズアッブされ対策が講じられてきたが、「学校に行かない」という問題全体をとらえていくと、さまざまな人々が学校に行かない状態にあり、教育の機会という基本的問題が軽視されてきていたことに気づかされます。
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いろいろなことを調べていくと、次のような問題があることに気づきます。
たとえば、長期欠席のうち、病気で長期間休んでいる子どもにも十分な教育の機会が保障されているのでしょうか?
就学を猶予されたり免除されたりしている子どもにも可能な限り十分な支援ができているのでしょうか?
また、外国人の子どもに対する教育問題は、法律上の問題がからんでいることがわかります。
たとえば、多くのブラジル人学校などは自治体の認可が得られず、公的助成を受けられずにいます。
親からの授業料だけに頼るため、不況になると通学する子どもが減り、学校経営が苦しくなってきます。
認可の基準を緩和し、積極的に援助を図ることや公立学校への外国人受け入れを奨励することなど、制度面での対応がカギとなります。
教育臨床社会学の対象を不登校にしぼって考えても、それをどうとらえるのかについて問い直すことができます。
たとえば、わたしたちは多くの場合、不登校といえば神経症的なタイプを思い描きます。
神経症的な不登校とは、朝になると頭痛や腹痛がして登校できなくなる、学校に行かなくてはならないと思っているが行くことができずにいっそう不安にかられるなどの症状がともなうものです。
しかし、統計を詳しく見ていくと不登校の背景や不登校が継続する理由はさまざまなことがわかります。
文科省は、毎年「児童生徒の問題行動など生徒指導上の諸問題に関する調査」を実施していますが、
この調査ではいじめや校内暴力の問題などとともに不登校についても詳しく扱っています。
最近のの調査結果によれば、不登校状態が継続している理由にはさまざまな項目が挙げられているようです。
神経症的不登校に相当すると考えられるのは、
「不安など情緒的混乱」であり、それが理由に挙げられているケースが最も多いのです。
しかし、中学生では全体の3割強を占めるに過ぎず、「無気力」や「いじめを除く他の児童生徒との関係」、「あそび・非行」などの理由も高い割合を占めています。
このうち「無気力」や「あそび・非行」を理由として不登校が継続している子どもの中には、アメリカやイギリスで想定されている怠学の子どもに近いケースも多いと思われます。
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文科省は、「不登校」は学校だけでの対応の困難さを指摘しました。
そして、対策の1つとして、「必要な学校への支援体制や関係機関との連携協力などのネットワークによる支援、家庭の協力を得るための方策などについて検討」することを提案しました。
文科省はこの方針に基づいて、スクーリング・サポート・ネットワーク整備事業を開始しました。
この事業は、不登校児童生徒へのより一層きめ細かな支援を行うために、学校・家庭・関係機関が連携した効果的なネットワークの構築や、
ひきこもりがたな不登校児童生徒やその保護者に対応するための訪問指導員制度の導入を図り、地域ぐるみのサポートシステムの整備を目指すものです。
また、多くの国では、学校に通わず家庭で教育を受けることを認めるホームスクーリングという制度が導入されています。
そして、外国人学校を正規の学校として認可している国もあります。
こうした事例に学ぶことでわかるのは、「教育を受ける」ことをめぐってさまざまな論点があり、わたしたちが採りうるいくつかの選択肢があることです。
ホームスクーリングの実践は、教育を受けるためには、「学校に通う」ことを前提にしなければならないのかという問題を提起させます。
また、外国人学校の問題は、正規の学校教育として認められるための基準はなにかという問題を提起します。
学校とは、学習指導要領に完全に準拠していなければならないのか、
設置基準をすべて満たしていなければならないのかという問題を提起しているのです。
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これらを踏まえて近年では、学校外の教育施設での学修を就学義務の履行とみなすことができる仕組みなどについて文科省で検討されています。
その際に配布された資料の中には、各国におけるフリースクールやホームスクールと義務教育との関係や外国人学校の法的地位についてかなり詳細な分析がなされています。
これによると、アメリカではホームスクーリングはすべての州で就学義務の免除として認められています。
また、イギリスでも義務教育を家庭で行うことも認められています。
日本では義務教育を学校以外で行うことは認められていません。正規の学校に籍をおきつつ、フリースクールにおいて相談・指導を受けた日数を指導要録上、出席扱いとすることができるだけです。
また、日本では外国人学校卒業者は、高校入学のためには「中学校卒業程度認定試験」に合格する必要があります。
これに対して、アメリカでは評価団体の認定を受けている学校の卒業者は上級学校に進学できます。
またイギリスでは私立学校として登録されている外国人学校は、正規の学校として扱われます。
このように比較の視点を持つことで、わたしたちは自分たちが受けている教育のあり方を相対化するとともに、それ以外の可能性について具体的に考えることができるようになります。
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ここで考えてきたことは、さまざまな教育問題は社会的に構築されており、それを相対化した上で、なにが本当に問題にすべき問題かを考え抜くことの大切さです。
また、問題を読み解こうとすると、わたしたちはその問題をどのような観点からとらえるかという、より根本的な問題に向かい合うことになります。
実践的に考えようとすれば、どのような具体的状況の中で問題が起きて、現状の中でどのような支援が可能かといった、現場の実態についても理解を深める必要が出てきます。
制度や法令も刻々と変化しており、その中で問題への具体的な対応を考えていくことも必要となります。
さらに、わたしたちは遠い将来を見通して、次代を担う人々をどのようなシステムの中で、どのような教育理念のもとに育てていくのかという問題についても考えていかなければいけません。
こうしたさまざまな観点で、教育のあり方や子どもの生活状況と社会との関連を考えようとするのが教育の社会学です。
わたしたちは、問題が複雑な背景のもとに生じていることを丁寧に把握する必要があります。
それと同時に、
その問題の議論の構図を再吟味し、今、最も必要な問いを立て、それについて分析し、対応策を練る必要があります。
この一連の営みの中で、教育の社会学はさまざまなレベルで学校現場や教育関係者に還元されるだけの十分な学問的価値のあるものとなりうるのです。