
今年の出逢いと、地球の裏側。
今年の出逢い。。
noteというものに出逢いました。
言葉は交わさずとも「毒親育ち」で繋がった『私が心のなかで勝手に仲間扱い』しているひとたちの存在を知りました。
存在を知ることそのものが、出逢いだと思った。
あまり詳しく書くと身バレ(?)するのかな?
オブラートに包みながら、私の身に起こったミラクルを書きますね。
※この記事はめちゃくちゃ長いですから、お時間があるときにお願いいたします!
実家から離れたい。その一心で仕事を探すも、コロナ禍であることや私が障害をもっていることなどあり、就活は難航しました。以前の仕事は手の手術をきっかけに辞めていました。リハビリも必要でしたし、重量物を扱う仕事には戻れないと思っていました。
正社員の仕事がないなら、パートでも十分じゃないか。自分が食っていければそれでいいさ。
書類選考すら通らないので書類選考の無い企業の面接を受け、即採用でした。
仕事は必要。だって無職じゃ賃貸住宅貸してもらえないんだもの。
親から逃げたいけど、遠くへ行こうとすると書類選考が通らない。
障害者雇用はそもそも不健康な者を雇う制度なので、具合が悪くなった時に家族に助けてもらえない障害者を雇うのは企業側にとって非常にリスキーなのだ!急に出社しなくなったり、辞めてしまったりと色々と面倒なことになるからだ…はっきり言って私は戦い辛かった。もちろん、障害の度合いや種類など違いがあるのだから「実家から遠い人だから」「家族の援助がない障害者だから」で済まされてはたまったものではない。
実家から離れた就業場所に応募してもやはり通らなかったし、そもそも『通らないよ』と就労移行支援施設でピシャリと言われてしまっていた。
かといって書類選考が通るまでの時間を実家で暮らすのは自殺行為だった。
背は腹に変えられぬ。
就労移行支援施設をほぼ無視し、地元で就職し、私はとにかく実家だけは出た。
私は内定書を振り回して賃貸契約の審査を受け、かなり無理を言ってかなり早く部屋に入れてもらった。不動産屋さんには感謝しかない。
部屋に入れそうな日と父が出勤の日を無理やり被せてもらい、私は小さな小さな軽自動車に荷物を乗せて走り出した。
ひとりで一日で運びこむには荷物が多すぎる。私の腰にはコルセットがついている。さあ、どーする?
よし、とりあえずどこか中継地点に荷物を置こう。
お手頃価格の宿泊施設に電話を掛ける。
『女性はお断りしています』2軒断られた。土木作業員のお兄さんたちが泊まるところは安いけれども女人禁制で、掛け合っても無理だった。
3軒目に掛けたのが、いわゆる『民泊』で「引っ越しをするので荷物を持っています。泊めてもらえませんか?」と素直に掛け合いました。あっさりOKしてもらえてすごくホッとしたのを覚えている。
民泊のご夫婦は荷物を置くスペースを作って待っていてくれた。
ん、まぁ、すっごい量の荷物だったからビックリしてたんだけどね!軽自動車とは言え、5往復分もフツー持ち込まないだろ!と自分でも思う。
問題は、このときまだマンションの鍵を私がもらっていなかったことと、すぐ冷蔵庫が来るように手配しちゃったことと、同じ日にガスを通すためにガス屋さんが来ることと、冷凍食品を持ってきてしまったことだった。
私の脱出計画は穴だらけだった。
民泊に死ぬほど荷物を持ち込んだ夜、民泊の奥さん(本人は奥さんって言われ方が慣れないらしいけど。私もいまは奥さんとは呼ばない)に事情を話した(計画が穴だらけだと気付いたので)。すると、旦那さん(本人は旦那さんって言われ方が慣れないらしいけど。私もいまは旦那さんとは呼ばない)が「荷物を運ぶよ」と言ってくれたのだ。
正直、初めて会う人にお引越しを手伝ってもらっていいものかすごく悩んだ。
しかも旦那さんは瞳の青いひとで、どう見ても外国のひとなのだ。
頼っちゃっていいのかな?いや、旦那さんが日本人でも私は「迷惑じゃない?」って訊いちゃうぞ…
「ありがとうございます。引っ越し一緒に運んでください」自分でそう言ったのに、民泊のベッドでずっと悩んでいた。「よかったのかなぁ…甘えちゃって」
でも、ここで助けてもらっていなかったら、今の私はないのだ。
実はこの民泊さんの場所がいまの我が家のご町内なのだ。偶然だった。
このご夫婦のお嬢さんと私が同い年だったり、流木が好きだったり、LINEが嫌いだったり、海が好きだったり、筋トレ好きだったり、絵心があるひとだったり、ロックなもん好きだったり、色々な共通点があった。
その中でも重なってしまった点は、非情な家庭環境だった。
地球の裏側で瞳の青い彼も、親に苦しんだ。
暴力的な親と、精神疾患のもう片方の親。
罵倒や暴力。
………彼は許そうと頑張った時期もあったけど、諦めたんだと話してくれた。
「だよね…。許すものでもないよね」共感しかなかった。
いまではすっかり仲良くなって、パーティーをしたりお茶を飲んだりしている。
仲のいい家族ってこんな感じなのかな…?
お腹を抱えてゲラゲラ笑っている自分の姿が窓に映っている。
一緒に美味しいもの食べて、お皿を片付けて、ゲラゲラ笑っている。
すごい出逢いだよな…と、改めて思うんです。
英語も話せる日本人の奥さんと、日本語も話せる外国人の旦那さん。日本語と英語がちょくちょく混ざるから、ふたりともルー大柴みたいに見えてくる。
不思議なことにふたりが英語で話していても何を言っているのかわかるものだから、タイムリーに私は相づちを打っている。日本語で。
私は実家からもっと離れたい。そう思っていました。
いわゆる毒親サバイバーの人たちの話を聴いて「そりゃそうだよね!もっと離れよう!話ししても無駄だもんね!」そう思った。
父に追い回されて、さらなる引っ越しも考えた。会社に転勤も願い出た。
ところが、私が「私、こんなこと困ってきました」、「頑張ってみますが、万一のときはお助けください」と周囲に丁寧に話していくと、配慮してくれたり、手助けしてくれたりしたのです。
もしかしたら私が障害を持っているから、かもしれない。それもちょびっとはある。
世の中も変わりつつあるのかも知れない。
私は新しい仕事をしながら、新しい人間関係を作り、新しい悩みを持ち、新しい生活をしている。ご近所さんを巻き込み、お巡りさんに庇われ、市役所に隠してもらい、福祉関係者に就労状況を報告しながら、お医者さんに助けてもらって、職場で仕事を教えてもらっている。
こんなに大切にされていいのかしらと不安になるくらい、私は大切にされています。
この一年、私の日記には、「〇〇さんが助けてくれたよ、ありがとっ!」「〇〇の職員さんがこんなアドバイスをくれたよ、ありがとっ!」「〇〇で△△を食べたよ、美味しかった!」「〇〇で✕✕を見たよ、綺麗だった!」などなど。たくさんの誰かのおかげが詰まってる。
たぶん私は感受性が強いタイプなので、色々と感動屋さんではある。
あんまり感激すると鼻垂らして泣きます(笑)。
ここまで来たら、親から逃げ切るのとは違う角度で行こうと思っています。
親が来ても、「へー、だから?」でいられる自分になる。
正直なことを言うと、もう私の親たちには味方がいないんです。誰も信じてくれなくなったんです。
私とコンタクトを取ろうとするたび、ありとあらゆる機関がシャッターを降ろしてくる。「ごめんなさぁ〜い、閉店でーっす!」とばかりに。
そんな話を瞳の青い毒親サバイバーとしています。お茶飲みながら(笑)。
なんか、もう毒親が「ネタ」なんですよ。もちろん、暗黙の了解じゃないけど毒親ネタを話したらその5倍はいま夢中になっていることを話します。
なんか、「毒親仲間」だけの関係なんてぜーったいイヤだし。
もう、毒親って地球上どこにでもいるんですよ。
「毒親」っていう種類の生き物なんですよね。ちょっと前にフンコロガシをテレビで見て思ったんです。
「フンコロガシはコガネムシのような形をした、動物の糞を後ろ足で転がす生き物です」
「毒親はやさしい人のような顔をした、抵抗しない子供に残酷なことをする生き物です」
…ぶふっ=3
しっくり来すぎて、自分で笑いましたよ。
フンコロガシに「フンを転がさないでください」は無意味です。同じように毒親に「子供に残酷なことをしないでください」は無意味なんですよ。
もう、生態そのものなんでしょうねアレは。
あれ?コレは誰かに聞いた例えだったかな?
今年一年、私はだいぶ強かになりました。穴だらけの脱出計画でもなんとかなりましたし、いまお気に入りのお部屋で好きなもん食べてnote書けてます。
改造しすぎて飲み屋の看板みたいになってしまった自家用車を元に戻す決心をしつつ、ド派手カーをしばらく眺めてみる。
オブラートに包みながらとか言って、全く包めていませんが、私の身に起きたミラクルでした。
偶然が重なったのか、すべての出来事は偶然のレイヤーなのか。
最近、自分の喋り方もルー大柴になりつつある、2021年の年の瀬でした。
しんどかった毒親生活が、だんだんネタになっていきます。これもnoteの力かもしれませんね。
もちろんライトな話ではありません。かなりヘビーです。
民泊のお二人は言います。「コロナで良かったね〜コロナが流行ってなかったらお客さんがいたから荷物置けなかったよ〜?」だって。
何事もタイミング…かな。
※最後まで読んでくださった方、ありがとっ♡
きっと来年もなんかありますよっ♪
地球の裏側も繋がっています。悲しい気持ち、虚しい気持ち、辛い気持ち、みんな波のようにジワッと伝わります。だけど、いいことも伝わるんです。ジワッと。
今年もありがとう♡