漁船より。
(先日の雷鑑賞会での気づき)
私は大きな音が非常に苦手…。
だけど、雷は大好きなので嵐が来ると部屋のカーテンを全部開けて、部屋の中央に椅子を置き、稲光を眺めて楽しむ。
だって、綺麗じゃない。
(夜なら尚良い)
ゴロゴロと空が鳴り、灰色の雲がこっちへやって来る。
いそいそと私はカーテンを開け、鑑賞会の準備を始める。
(私の住まいは海のそばだ)
あっという間に対岸の建物は霧で見えなくなった。
空と海の境目がなくなった。
どこまでも灰色だった。
数十分ほどで嵐は去った。
対岸の建物は輪郭を取り戻し、
雲の合間から青い空が見え始めた。
3艘の漁船が港へ帰ってきた。
嵐が去るのを沖で待っていたのだ。
さらに1艘、さらに1艘…
続々と帰ってくる。
嵐が来る前に帰ってくる船を2艘見たが、多くは沖に残っていたのだ。
より多くお魚を捕れるように。
そして、嵐をやり過ごし安全に帰れるように。
自分に利益のあることをするのに、未だに私は抵抗を感じてしまう。
自分が無理をしてでも場の雰囲気を和ませたり、自分にとって苦手なことでも肩代わりしようとしてしまう。
心のどこかで、自分を責めている。
『お前、自分だけ逃げんのか』
『お前はいいよな、逃げられるんだから』
だけど、いまの漁船たちを見て
『わあ、ずるい!
自分が巻き添え食わないようにタイミング見計らってたんだな!!』
『2艘は先に帰ってきたんだよ?
自分ばっかりお魚とって!』
とは思わない。
もしかしたら、私は楽をすることに『罪悪感を持ち過ぎ』かもしれない。
『お前ばかり良いおもいをしている!』と私を責め立てていた家族の顔や、『俺は楽をしたいんだよ!』と私にヒモろうとしてくる元カレの顔は、もう海に沈めて良いのだろうな。
彼らの指す楽は『ゆくゆくはダメになる楽』だ(そもそも良いおもいなんかしてないぞ)。
私が今ここで指している楽は『無駄に危険にさらされないこと』を指した楽なのだ。
自然相手の漁船。
ブォーッ…と低い唸り声を立てながら港に出入りしている。
時間も結構バラバラ。
危険のあることを無理にやらなくたっていいんだよね。
楽でいていいんだよね。
もし、私が貧乏くじを引かないように立ち回れるようになったとして、それを『ズルいぞ』と言ってくる奴がいたら…そいつが間違っとる。
※※※※※
最近、小学生時代に当たり前のように同級生から❝いいように利用されていた❞ことを思い出し、今更ながら腹を立てている。
まるで、『お前には何にも与えないけど、お前は私らに与えろよ?当たり前だろ?』とでも言うように、文房具から靴下からトイレットペーパーまで取り上げられていたことに❝ようやく腹が立った❞のだ。
家庭でも学校でもむしられるだけむしられていたんだな。
大人になっても、自分が楽でいることに抵抗があるのは『むしられ慣れていたから』。
『むしられ慣れすぎていたから』。
もう、むしられなくていい。
むしられそうなところにはわざわざ出向かなくていい。
嵐が去るまで沖にいたっていいのだ。