通販番組みたいな社会
正月の中途半端な時間帯、朝10時半
テレビをつけると、どの局もこぞって通販番組をしていた。
久々に見た。
笑っちゃうぐらいつまらない。
つまらなすぎて面白いあの現象。
気づけば引いて観察していて、
ぼくたちの社会でもこんな感じのことばかりだよな
としみじみと類比していた。
愉快な司会者が沢山回してうなずいて、
陽気な感じのおばちゃんが場を賑やかして、
物知りそうな若者が鋭そうな質問をして、
司会者横の女性が丁寧に説明補足して、
辛口そうなおっちゃんがベタ褒めして、、、
みんながみんな、
声も顔も自然体を装ったオーバーなリアクションで分かりやすく話が進む。
騙されませんよ!的なスタンスは最終的にはコロっと一変して、一同納得、これはいい!とハッピーに締めくくられる。これがお決まりのシナリオ。
通販番組はみんなで「もてはやす」ものだからまあそんなものだろう。世間公認の「サクラ」とか「ステマ」みたいな周知の形だろう。でもいつまでその形を続けていくんだろう。デジタルネイティブや情報にまみれた社会で生きた人達が高齢者になっていくこの先、それは通用するんだろうか。
もてはやされた環境(社会)は、割とどこでもある。
例えば住宅関連。ぼくは建築家なので、建築やデザインのことについてはそれなりの知識や美学はある。毎度毎度ポストに入れられる分譲マンションや新築一戸建てのチラシ。もてはやすためのありふれた形容詞や修飾語で広告されている。別にすごくないものをすごいように説明したり(相対的・比較的にすごくはない)、別にオシャレじゃないものをオシャレと呼んだり(オシャレってなんだ?)、うなずけないことばかりが並んでいる。宣伝だからマーケティングだからと当たり前のようにもてはやしている内に、それに詳しくない人は「そうなんだ」ともてはやしている構造に気づかずに鵜呑みにしてしまっているように思う。
家族や友人、知人がそういうものを見て「すごいねー」、「オシャレだねー」という時、反応に困る。きっとラフで軽い褒め言葉なのは分かっている。わざわざ「すごくない」「オシャレじゃない」「もっとこういうものがある」と張り合うものじゃない。でも同意はできない。「そうじゃないんだ」と言いたい。いや言いたいんじゃなくて知ってほしい。別に自分の感性が絶対だとか、正解が1つだとは全く思っていない。
でも、感性の問題だから、あなたはあなた私は私だから、価値観の押し付けになってしまうから、、、仕方ない。多様性の時代に乱用されるこれらの言葉は思考や話を遮断する便利な道具になっている気がする。
自分が良いと思わない物事を、
周りが良いと言っていたら息苦しい。
もちろん通販番組で否定的なコメントを残すのはNGもしくはKYだ。それくらい分かる。そして通販番組みたいな社会においても同じ空気が流れている。そんな空気が至るところにある。個人の意思と集団の意思は異なる、だから、集団化そして組織化すればするほどそんな酸素の薄い空気になりやすい。
幸い、このご時世では山のようにチャンネル(社会)はあるし、簡単にアクセスできるし、選び放題だ。それでもいいのがなかったのなら自分が動けばいい。この息苦しい通販番組を変えるには、自分がディレクターなりスポンサーなり集団の意思決定を司るポジションへ行く、あるいは抗議・教育・布教の活動などで人を変える、あるいは自分でゼロから作り上げる、などが考えられる。
ただ、そこから待ち受ける試練は
自分が良いと思う物事を、
周りが良いと思わない場合にどうするか。
周りの言うことを聞いて変えるか、
自分の思うことを信じてそのまま進むか。
実際は二者択一ではなくて百者択一、あるいはどの程度のバランスで意見をブレンドするかだけど、正解は現在の自分には分からない。はっきり分かるのは自分の感情や正義とか美学ぐらいだ。
あ、あけましておめでとうございます。
2024年はもっと投稿がんばります。
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