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クラシック音楽の二刀流  パーヴォ・ヤルヴィのハイドンとR・シュトラウスを聴く

 昨今、『二刀流』といえば、メジャーリーグで投打に大活躍している大谷翔平選手を指して使われる言葉であり、ピッチャーまたはバッターとしての一流のプレイヤーという従来の枠組みを超えた、いわば投打両方の技量を極め進化し続ける異次元の才能の活躍に世界中が熱狂しています。
 クラシック音楽界においても伝統的なモダンオーケストラによる演奏とピリオドアプローチによる演奏の両方で優れた演奏をする指揮者が出てきており、パーヴォ・ヤルヴィもその1人だと思います。昨年暮れから今年にかけてパーヴォの対照的な両方のアプローチによる演奏会を聴く機会があったので感想や気づいたことを書いてみたいと思います。
 
 1つは、昨年12月8日、東京オペラシティーでの手兵ドイツ・カンマーフィルとのハイドンの交響曲でピリオドアプローチによるものであり、もう一つは、今年4月15日、NHKホールでの名誉監督となったN響とのR・シュトラウスのアルプス交響曲で、こちらはハイドンとは対照的に、モダンオーケストラによる大編成の伝統的な演奏スタイルのものでした。パーヴォは作曲家によってアプローチを使い分けることにより、作曲された時代の演奏を再現しようとしていると思われます。
 古典派のハイドンでは、モダンオーケストラでは作曲当時より編成が大きすぎるので、弦楽器を中心にオーケストラをスケールダウンし、古楽器を使用し、ノンヴィブラートによるシャープで透明感のある響きとリズミカルで軽快な機動力のある、スタイリッシュな演奏にすることにより作曲当時の機智とユーモアに富んだ音楽を再現しており、一方、オーケストラ芸術の1つの到達点ともいえるR・シュトラウスでは、大編成のモダンオーケストラによるいわばフルスペックの編成で演奏することにより、その絢爛豪華で壮大な音楽を、耽美的なヴィブラートを散りばめ、華やかで抒情的な弦楽群、木管群と豪壮、剛毅な金管楽群、打楽器群により管弦楽の技巧の限りを尽くして雄大なアルプス交響曲を再現していたと思います。
 
 カラヤンやバーンスタイン、クライバーといった巨匠たちがモダンオーケストラによる演奏で、オーケストラ芸術の1つの頂点を極め、アーノンクール、ブリュッヘン、ノリントンといったピリオドアプローチの旗手たちがピリオド奏法による新しい演奏の扉を開きましたが、パーヴォはその両方のアプローチを作曲家により、より適したアプローチを採用することによりオーケストラ芸術をより進化させていると思います。このようなアプローチをした最初の指揮者はニコラス=アーノンクールであり、晩年は手兵ウィーン=コンツエントスムジクスによるピリオドアプローチによる演奏とウィーンフィル、ベルリンフィルによるモダンオーケストラの演奏と使い分けていました。その演奏スタイルは独創的で革新的なものでしたが、ノンヴィブラート主体で透明感がありながらも、リズムが強調され、金管群がバランスを割った強奏するなど、ともすると厳しくエキセントリックだと感じさせる側面があったと思います。それに対し、パーヴォの演奏は、同じピリオドアプローチによる奏法でも、よりバランスがとれた流線型のスタイリッシュで現代人の感性によりマッチした演奏になっていると感じました。 

  ハイドンの交響曲第104番『ロンドン』は交響曲の父といわれたハイドンの最後の交響曲であり、古典派のソナタ形式による交響曲の1つの完成形とみることができます。昭和平成のクラシック音楽評論の第一人者である吉田秀和は、以下のように述べています。

 『彼の作品をみてゆくと、ここではじめて、単なる効果のための手段や見せかけの情緒の深刻さや、にせものの優雅と、本当に独創的で、しかも音楽的な創造というものとの違いを、区別することを学ぶことができるのではないかという気がしてくる。』

 『ハイドンは、即興と情熱の一時的な戯れを拒否し、すべてが着実で、論理的に一貫し、作品の統一と安定、表現の純粋と真実が達成されている。しかも、すばらしいことには、それが、みせかけの悲愴や厳粛やをともなわず、むしろ明るくて活発な機智とユーモアとを失わない、本当の思索となっていることである。』

 『ハイドンの晩年の本当の成熟した作品では、主題は、ますます単純になり、素朴で、しかもいいようもなく豊かな歌がおりこまれ、展開部ではおどろくほどの一貫性と多彩さが無類の統一をうみだしている。また多楽章の交響曲や四重奏の一つ一つの楽章が、単純でいながらほかのどの楽章ともちがっているのに、曲全体としての性格の統一は、実に見事に保たれていて、この点では、モーツアルトもおよばない。というのは、ハイドンでは、特に短いリズミックな動機から出発する無窮動的な発展形をとることが多い終楽章が、機嫌の良さといったものを越えて、シラーのいう永遠の遊戯としての芸術の域まで高まっているからで、この点、どちらかというと第1楽章に比べて終楽章が劣ることのあるモーツアルトと鋭い対照をなす。』

 『交響曲第104番二長調ロンドン』は、そのなかでも、また傑出した作品だと思う。これは、モーツアルトの死を悼んでかいたという伝説もあるが、二短調の5度の動機にはじまる導入部から、短調中間部をもつ第二楽章と、ほとんどスケルツオになってしまっているメヌエットをへて、ニ十小節以上にわたるDの持続音をもつ終楽章にいたるまで、ハイドンの卓越した手腕と、造形の緻密と明確、表現の透明な真実さ、まさに彼一代の傑作といってよかろう』

『名曲三00選 吉田秀和 ちくま文庫2009年』

   パーヴォの演奏はまさにこのことを実感できる演奏になっていたと思います。特に印象に残ったのが、ソナタ形式による様式美、造形美と転調の妙です。
   第1楽章はアダージョニ短調4分の4拍子の深刻な序奏からはじまりますが、提示部の第1主題にはいると一転、二長調に転調しアレグロ2分の2拍子の快活な音楽に転換しソナタ形式により対照的な2つの主題が見事に展開、再現されています。第2楽章はト長調の寛いだ主題で始まりますが、中間部に入ると交響曲第94番『驚愕』の第二楽章を想起させるようなトゥッテイの大胆で絶妙なト短調への転調は曲全体を通じて感じられる快活さとユーモアに陰影を与えながら変奏曲風の万華鏡のような多彩な表現となっており、再現部の陽気でユーモアのある可憐な主題の再現と相まって音楽を豊かで充実した美しいものにしていると思いました。第3楽章のメヌエットは宮廷音楽のような優雅で流麗な音楽となっており、第4楽章フィナーレ スピリトーソは吉田が言うところの『ハイドンの短いリズミックな動機から出発する無窮動な発展形をとる、上機嫌の良さといったものを越えてシラーのいう永遠の遊戯としての芸術の域まで高まっており』、パーヴォの指揮の一気呵成に畳みかけ駆け抜けて行く爽快感に溢れた音楽に魅了されました。

   アルプス交響曲はクラシック音楽館でも放送されたので視聴したのですが、冒頭のインタビューでパーヴォはこの曲に対する独自の解釈を述べており興味深く、コンサートで感動した理由も腑に落ちたので、少し長くなりますが、引用します。

    アルプス交響曲は交響曲というよりも交響詩です。この楽曲はいろいろな視点でとらえることができます。最も簡単で単純なのは山を登ったり下りたりハイキングの描写として捉えることです。途中で見たこと起きたことを描写しているそういう解釈もありだと思います。
    私はアルプス交響曲をもう少し広い意味に捉えています。R・シュトラウスが書いた標題をそのまま文字通りに捉えていません。それよりもライフサイクル、人生を描いているような気がします。冒頭と終わりは全く同じ音楽です。無垢の状態で生まれ死ぬときは無垢の状態に回帰する。短い人生の中でさまざまな困難や苦労もあれば楽しい幸せな時間もある。私はそういった解釈の方が理にかなっていると思います。単なるハイキングの描写として捉えてしまうとこの楽曲の魅力が半減してしまいます。でもいろいろな解釈があってもいいと思います。
    R・シュトラウス全般に言えることですが最も魅力的で感動的なのがゆっくりした音楽。特に最後は年老いたR・シュトラウスが人生を振り返り、それまでの浮き沈みを思い出そうとしているような印象があります。
    R・シュトラウスの音楽はドイツのオーケストラのために書かれています。ドイツ音楽の伝統がすべて譜面に表れています。そのすべてを使いどうすれば豊かに描けるかを知っています。その豊かな響きに多くの人が夢中になるのも当然です。この種の音楽はN響の得意とするもの。オケのパワーそして技術力の高さに毎回興奮し驚かされています。今夜はこれまで経験した中でも最高の演奏だと自信を持って言えます。

 

       パーヴォの演奏は、サバリッシュ、スイトナー、ヴァント、シュタイン、ヤノフスキといったドイツ系の指揮者との共演により培われたN響の伝統を受け継ぎながら、現代人の感性にマッチした高音部から低音部までバランスのとれた、ダイナミクスレンジが大きく、透明感があり明晰で洗練された音楽へと進化させていると感じました。また、二刀流ならではの、ノンヴィブラートの透明な音色はアルプスの山々の清涼感、清々しい風景を感じさせ、ヴィブラートによる耽美的な音色は、アルプスに咲く花々の美しさやアルプスの山々の美しさを感じさせ多彩な表現を引き出していると感じました。
       冒頭『日の出』の静かな夜から始まった音楽は、目もくらむような印象的な主題の提示により壮麗なクライマックスを築きその美しさに陶酔させられました。ツアラトストラはかく語りきの冒頭でも同じ手法が用いられており、この冒頭にクライマックスを築くR・シュトラウス独自の手法は、まさに管弦楽の天才であり、音楽で描写できないものはないといったR・シュトラウスの面目躍如であり、冒頭から曲の主題の強烈な印象を残し、曲中において、姿を変えながら再現されていきます。いくつか例示すると『お花畑』では登山者が見たお花畑を幻想的で美しく再現しており、また『頂上にて』では頂上からの雄大な眺めを感動的に再現しており、『日没』では黄昏の敬虔な美しさとして再現しています。『頂上にて』は冒頭の『日の出』と並びこの曲のクライマックスとなっており、バイオリンのトレモロに乗って静寂の中、オーボエの抒情的なソロが頂上のひんやりとした清涼感、爽やかさを感じさせ、耽美的で抒情的な弦、木管と豪壮、剛毅な金管、打楽器群によってまさにアルプスの雄大なクライマックスが築かれました。
       パーヴォはR・シュトラウスで最も魅力的で感動的なのがゆっくりした音楽と述べていますが、『日没』『エピローグ』の黄昏の美しい音楽がそのひとつにあたるでしょう。特にオルガンによる荘厳な音楽が感動的だったのは、パーヴォの解釈が写実音楽としてのハイキングにとどまらず人生をも考えた解釈だったからだと思います。R・シュトラウスが自らを英雄にたとえた『英雄の生涯』の『英雄の引退と完成』や、『ばらの騎士』のフィナーレの三重唱『マリーテレーズ』における若い二人を暖かく見守りながら去っていく元帥夫人の人生の黄昏にも相通じるものがあると思います。
      
   パーヴォのハイドンとR・シュトラウスを聴いてみて、ピリオドアプローチによる演奏と伝統的なモダンオーケストラによる演奏という対照的なアプローチによる演奏をいずれも高水準でやってのける技量と深い音楽解釈は二刀流というにふさわしい素晴らしい才能だと思いました。ただ、異なるアプローチにみえる両方の演奏の根底には、パーヴォの作曲当時の音楽、響きを再現するという一貫した考えがあり、それゆえにパーヴォの演奏は、私たちの作曲家自身が実際に聴いた音楽、響きを聴いてみたいという願望をかなえてくれるものであり、それが多くの聴衆を魅了する理由だと思いました。残念ながらN響の音楽監督は2021年で退任しましたが、これからも名誉指揮者として素晴らしい演奏を聴かせてほしいと思います。
  

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