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そんなところをみていたんだ。「新しい分かり方」 佐藤雅彦著

朝テレビをつけたら高速道路情報がながれて夫と私は、しばし見入った。

画面背後には道路の絵があり、男性が左側に立ち「高速道路情報をお伝えします」と言う。そしてすぐに道路だけの画面に切り替わり、男性は事故の場所や渋滞情報を声だけで伝え始めた。

私は「この人は今テレビに映っていないから何か資料を読み上げてもいいんだよね。よかったね」などと言った。
夫は「まあこの人は出てこなくてもいいくらいだけどね(笑)最初道路の前に立ってて道路半分見えなかったから道路情報なのに道路が隠れちゃっててどうするのかなって心配になっちゃったよ。」なんて笑う。

え?と思ってしまった。
そんなことまるで思わなかったけど?
見てるところが違う!

私はよくニュースなどをみていても「この人全部暗記しているのかなあ。すごいなあ」とか考えていることが多い。
だからこの高速道路情報は暗記しなくてもいいからよかったなあと思ったのだ。
しかし夫は
高速道路情報なんだから高速道路の今の状態を知るために情報を得ようをしていた訳だ。

そんなことは考えてみればあたりまえなのだが、
私はたいそう驚き、
「そうか、高速道路の図なんてみていなかったよ」と言って笑われた。

私は車を運転しないからということもある。
だけど、考えてみると私って奴は
いつもそういうことだったかもしれない。
どうやら夫といつもみているところが違い、
私の「あたりまえ」が夫の「あたりまえ」とずっとズレていたように思う。

そして、
「わかる」ってなんだろうと思ってしまった。

というのも、私は「わからない」と思うことがいままでも本当に多かったし、
今もとても多いのだ。
たんに頭が悪いとか能力不足だと思ってきたが、
もしかしたらそれだけではないのかもしれないと思えてきた。

それはこんな本の出会いもあり、
考えるようになった。

この本は「ピタゴラスイッチ」や「考えるカラス」などの番組をてがけている佐藤雅彦氏の書籍である。
私はこの人の考え方がとても好きで番組も書籍もどれも気になり見入ってしまうのだが、この本に出合った時「ああそうかこの人はまさに「わかる」ことの手法が独特なのかもしれない。そしてこの手法が私は好きなのだ」と感じた。

それはけして奇をてらったという意味ではなく、
ピタゴラ装置などでもそうだが、
「あ、そういうわかり方知ってる!」と気づかせてくれるというか、
「そういうわかり方がしたかった!」と思わせてくれるというか、
うーん、つまりは、
専門知識がなくても人間の本質としてもっているものとか、だれもが経験するようなことから理解できる方法を導いてくれるのですごく納得する感覚が得られる気がするのだ。

でもこの本の中では
その「わかる」をもっと深堀りして
「これはたしかにわかる。でもどうやってわかっているのか」ということを追求しているような内容で、興味深い。

P.136 眼鏡
「こんなにはっきり見えているのは、自分が眼鏡をかけたからに違いない。そういうふうに、自分の出来事として解釈してしまうのが一番しっくりくる。」


P.2 塩とたまご 
「左右2枚の写真の差分をとることで、塩の量の減少が読み取れ、たまごが浮いた理由がわかってしまう。さらに鑑賞を進めると、ビーカーの透明な水についても、その組成が違うことが感じられたりする。差分を取ることは、人間にとって、かなり有効な情報処理である。」


P.24 鉛筆整列 
「自宅のリビングのような現実世界に、テレビや本というメディアがある時、メディアの中の出来事と現実の出来事は別だということは難なく分かる。しかし、一旦、あるメディアの中にメディアが含まれると、それらの中の事象は区別が難しくなる。この作品では、写真というメディアの中に鑑というメディアが含まれているが、そうすると写真に写っている鉛筆と鏡に映っている虚構の鉛筆が一瞬区別がつきにくくなる。」


P.74 セルフ散髪
「この青年がやっていることがよくわかる。それをわからせているのは、表現の中にある、モニターやカメラといったメディアの存在である。カメラが狙っている方向から、彼がモニターの中に見ているのは、彼自身の後頭部だということがわかる。表現の中にメディアが存在すると、その表現の中に特殊な構造が生まれる。そして、それを読み解くことで意味がわかってくる。」

まずは絵や写真だけをみて、自分はこれが「わかる」だろうかと試してみる。上記の例はすべてわかった。説明を読んで、より理解した。


しかし、下図は見た時ちょっと考えた。
よく考えなければわからなかった。

P.168 影が規定する
「実は、空中に浮いている2つの小さな〇は、階段状の白い平面に対して、左右の絵ともまったく同じ位置に置かれている。しかし、立体空間として、左右の2つの〇の位置が異なって感じるのは、それらの下に落ちる影の位置が異なるからである。影は〇の垂直方向なら、どこにでも書けるので、〇の位置を規定するのは影ということになる。」

そしてしばらく考えてすごくなるほど!と思った。
説明を読んで自分の考えが言語化されていることを確認し、改めてこの図をおもしろい!と思った。
とても佐藤雅彦さんらしい考え方の図だと思った。




また、こんな記事を読んだ。
9月30日に行われた永瀬拓矢九段と藤井聡太王座の72期将棋王座戦について永瀬九段が語る内容である。
私には将棋の深い知識が無いのでところどころわからない言葉がでてきたものの、将棋は以前からとても好きなゲームの一つなので藤井王座の「勝ち」や「強さ」についての見解はとても興味深く読んだ。

対局を振り返る文章の中で永瀬九段がうまくいった時はその手が効果的だと「わかっていた」と書かれていたが不安がだんだん焦りになりストレート負けしたという。

私は以前もいろいろなところで書いているのだが、将棋をやっていると
普段と違うところの脳の経路を使っているような気がしてならない。
そしてそれはすごいことではないかと思っている。
是非幼稚園生くらいの年齢の子どもたちにこの遊びを通してこの感覚を体験して欲しいと強く思っている。将棋を国の教育の一つとしてとりいれてもいいのではないだろうかとも思うくらいだ。


記事の中で、永瀬9段は今後の目標としてこんなことを語られていた。
「いま言語化に振った能力を将棋に戻している。日常生活に支障をきたしているが、自分はメモリーの容量が多い人間ではない。中途半端になってしまう。あと、人間のいらない感情を捨てる。藤井さんに勝つという目標を掲げる以上は能力の無駄振りは避けるべき。そこを倒さないと、タイトルはとれないわけですからね」

以前に将棋専門誌のインタビューにて、ご自身が自閉症スペクトラム障害であることを明かされていて、そのことで人間関係の構築が難しく、苦手とされている感情表現において努力をされてきたようだ。上記はそういった経緯を踏まえての言葉である。

AI将棋能力を高めるためには、将棋のパターンを数限りなく学習させていくことにあると聞いたことがある。それを人間にもあてはめていけばやはり同じく能力を高められるのだろうが、このゲームは、あわせて「人間を読む」ことが必要なのではないかと思う。

永瀬氏は「いらない感情をすてる」と言っている。
いらない感情とはなんだろう。
とにかく「完璧な人間」を意識していらっしゃるように思える。
そしてそれはもう将棋のデータの話ではないのだ。
「人間」の話になっている。

永瀬氏の考える「わかる」は、
自分の能力をむき出しにするべく、無駄をそぎ落とすことで
たどりつくと考えられていると思われる。
その方法は私にはわからないし永瀬氏も模索中なのかもしれないがご自身の「人間」に向き合うべく発言を興味深く思った。




ある日私は辻井伸行さんのピアノ演奏を動画でみた。
その感動や不思議さなどを夫と話し合ってみたいと思った。
しかし話してみても夫はまるで興味がなさそうで、私はなんだかとても満足できなかった。
どうしてこうなるのだろうと考えた。

私は辻井さんの弾くラフマニノフに涙した。
ピアノに対する愛とか思い入れとか
目のハンデを克服するかのように目以外でのコミュニケーションを高め、奇跡のような演奏を魅せてくれる。
そういう「どうしてそんなことが可能なんだろう」というような感動を話したかった。

つまりは、私が話したかったことは「わからない」ことだったのだ。

感性とか心の中にある個人的な思いが能力につながることの不思議さとかおもしろさを私は以前からずっと思うところがあり、
そういうことが書かれている本なども読むことが好きだったのだが
一番自分に関係の近い夫と
それを共有したいと何度も試みながら
よく拒絶感を味わってきた。
やっぱり今回もそういう気持ちになり
失望感や苛立ちを感じてしまったのだが
その後新聞をみながら
私がわからない株式のことだとか
ビジネスのことを質問したら
とてもわかりやすく説明してくれて、
ああなるほどと腑に落ちた。

わたしたちは違う種類の「わかる」を持っていて、
わたしたちは違う種類の「わかる」を追っているのだ。

そんなところをみていたんだ。

そういう目線で相手をみると
夫という人間が
けして私が苛立つような理解不能な人というわけではないのだということがわかってくる。

自分の得意とする分野があるように
お互い、
なんでもわかる必要はないし
わかるはずがないのだ。

でもそれはけして悲観するところではなく、
そこに諦めてはいけない。

「わかりかた」の方法を自分の好きな形に変えてみたら、わからなかったこともわかるようになるかもしれず、そのわかることの喜びを感じることで、他者への理解も深まるのではないだろうか。

それこそ自分と同じような考え方をする人間ばかりがいるなんて世界はおかしいし気味が悪い。
理解できず感情がゆらぎ、理解できない人物がいて当然だ、いやむしろそれでこそおもしろいものがうまれる!と考えられるようになれば、ずっと生きやすくなるだろう。

誰もが平均を保つべくどんな教科もまんべんなく強いられてきた学校教育を含むこれからのすべての教育面においても
それはもっと考えられてもいいのではないかと思えてくる。


わかる人がすごいのでもなく、えらいのでもなく、
だれもがわかるわかりかたを教えてくれる人が求められるのではないか。


この本には何種類の「わかる」があるのだろうか。
「わかりかた」は、この本で紹介されている以上に
きっともっとあるにちがいない。

わかることは
おもしろくて嬉しいことなのだ!
そして

「わかりかた」を追求することは
それが人間関係における問題でなくても、
他者を理解するという点についても
きっとたくさん貢献してくれることになるにちがいない。




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