東京23区に73ヶ所!すべての富士塚をめぐる挑戦 [1] 十条富士(十条富士神社)
富士山に最初に登ったのは誰だったのだろう。
そんな考えがふっとうかんだのが最初でした。
富士塚という存在じたいをただ面白いと思い興味を持ち始めた私でしたが、富士山に対する思いが現代とは違っていたであろう当時の人々の考えを想像してみたら、まずはそこがあっての富士塚と気づき、根本から紐解いていきたいとワクワクしてきたのです。
今でこそ5合目にある登山口から4つのルートが整備され、多くの方が毎年頂上を目指す富士山。
しかし昔も昔、あの美しさと壮大さに魅せられて、道も何もない富士山に挑まれた人が絶対にいたであろうことを考えたら、また、噴火を繰り返す脅威的な山であったことも思うと、当時の人の勇気にただひたすら感服してしまいます。
しかし、まさか最初に登った人が誰かだなんてそんなことわかるはずがないとも思い、半ばあきらめておりましたが、(財)日本常民文化研究所というところから発行された「冨士講と富士塚」という書物にそのことが載っていて、思わず目をみはりました。
一説にはこの末代上人は肉身仏(ミイラ)となって村山に霊をとどめ「大棟梁権現」とよばれたとの記述もあり、興味深く思われました。
(ちなみに村山とは平安時代から修験者たちによって使われていた最古の富士登山道の村山古道のことをいいます。明治39年に衰退したのですが、2004年にふたたび復活しています。)
その後、末代上人よりもっと以前の、飛鳥時代から奈良時代にかけて実在したという人物で役小角(役行者)の話も知ることとなり、おそらく文献として残された情報としてはこの役行者が一番最初に富士山に登り、山を開いたとされるのではないかと思われます。
古代から自然神として崇められてきた富士山は、この役行者(えんのぎょうしゃ)から末代上人(まつだいじょうにん)までの時代、主に修行の場としての存在であり、
多くの行者が、富士山に入ることによって体得したとされる霊力なるものを謳い文句に、人里にて祈祷をほどこしたり呪術を駆使したりしていたとか。
怪しい世界もかなりあったのではないかと思えてきますが、不思議な話や迷信をも信じ、藁をもすがる思いで救いを懇願するのはいつの世も同じ。あの見るからに神々しい美しさの富士山がその対象となるのは当然かもしれません。
一方、富士山は何度も噴火する山として脅威の対象でもあったため、その畏れから富士山の鎮火を願って浅間大神と木花咲耶姫を祀った「浅間神社」ができました。
富士山の頂上の峰を8枚の花弁を持つ蓮の花にたとえて、その上に大日如来を真ん中にした9体の仏さまがいると考える密教の「八葉九尊」信仰がおこります。
そして、浅間大神という神の世界と山岳仏教がまじりあい、「遥拝」の対象だった富士山が「登拝」の対象へと変わっていきました。
「長谷川角行」は室町時代にいた行者の一人で、のちの富士講の教典の元を作ったとされています。
富士の人穴に住み修行を続け、12年後にはじめて富士登山をしたとされています。
独特の修行を重ね霊力を授かったとされ、その護符を配り教えを説いていったのだとか。
伊藤伊兵衛という人物が角行の教えを受け継いだ行者と出会い、感銘を受けた伊藤は彼の弟子となり修行を重ねます。「食行」という行名を師から与えられ「身禄」は自分から名乗り、伊藤は「食行身禄」という行名になりなお富士山にのめり込み修行を続けました。
彼は富士山7合目5勺の烏帽子岩で31日間の断食をして死んだとされ、その様子は「三十一日之御伝」という書物で残されているとのこと。その烏帽子岩は今も富士山8合めにある山小屋の隣にあり、烏帽子岩霊場として烏帽子岩神社も祀られているようです。
富士塚の話は、
いよいよこのあたりから登場してきます。
身禄の弟子の一人である高田藤四郎という人物が、身禄の没後46年目の安永8年(1779年)に「高田富士」という富士塚を造りました。
それまでも細々と受け継がれてきた富士信仰は、「講」と呼ばれる庶民の集団に支えられ、その教えのもとに本当の富士山の登拝を目指しましたが、それが容易にはかなわないという現実もあるなかで富士塚というものをおもいついたのですね。
富士塚の存在は、最初は富士講の意図とはちがっていたかもしれませんが「富士塚に登ると富士山に登ることと同じご利益がある」と人気が高まり「富士講」とともに「富士塚」が江戸後期にいきなり大流行しだしました。
葛飾北斎の「冨嶽三十六景」は実際には46図あり、通称「裏富士」と呼ばれている10図の中に、冨士山頂でお鉢廻りをする冨士講の人々の、
興味深い様子が描かれているものがあります。
白の行衣に編み笠と杖を持ったスタイルや石室に大勢の信者がひしめき合った姿が描かれ、信仰を目的とし、山の世界を浄土と考え、死に装束で登拝したのだという、まさにこれこそ当時の富士講の人々の様子をみせてくれています。
石室にぎゅうぎゅう詰めに入って休憩する信者たちの表情は疲れ切った様子にも安息の様子にも受け止められ、ここまで登ってきた大変さをねぎらいたくなるような気持ちになるのでした。
北斎はこのシリーズを70代で発表しました。
これを企画し出版したのは東京都中央区日本橋馬喰町に版元の店をもっていた西村屋与八という人物。
このシリーズは大変な費用がかかったかと思われますが、当時富士講というこの山岳信仰が庶民の間でとても盛んであったため、北斎人気にもあやかりながら思い切って刊行に踏み切ったようです。
また、18世紀にベルリンで開発されたベロリン藍が日本にも輸入されるようになり、浮世絵にも取り入れられましたが、北斎がこの藍を「冨嶽三十六景」にも使ったことが大成功の理由のひとつではないかといわれています。
さて前置きが長くなってしまいました。
今回のテーマの富士塚ですが、
結婚して子供が生まれ、
たまたま東京都北区という地に転居してきましたが、
子どもが幼稚園に入った時
「今日お富士さんいかない?」
とママ友達に誘われたことが
富士塚との最初の出会いでした。
「お富士さんってなに?」
毎年富士山の山開きが7月1日だということも
わたしはその時初めて知りました。
そして、その前の日の6月30日と7月1日に「お富士さん」というお祭りがあること、それが十条駅に近いところでやっていて、そのすぐそばにある神社には富士塚というものがあるのだということを教えてもらいました。
毎年日にちが決まっていて、曜日は様々になり、
平日の事も多いのですが、
昼間も夜もそれはもうものすごい人手なのです。
、
お祭りは屋台がずらりと並び、その一番はじに十条富士神社はあります。
暗くてうっそうとしたすこし怖いような雰囲気。
大きめの石碑がいくつもたち、文字がきざまれていますがどれもきっと何かを意味しているのでしょう。
一直線に伸びる階段をのぼりきるとお参りする場所があり、縁起物が売られていました。
これはなんだろう?
なんのためのもの?
「実際の富士山には登れないから地元に作った富士塚に登って、富士山の神様に会うみたいなものだったみたいだよ。昔から富士山は人気があったんだねえ」
富士塚はここだけでなく各地にあり、しかも江戸時代に作られたものも多いと聞いて、改めて興味津々でみてみましたら
おもしろーい!!✨✨✨✨
この岩山が富士山ってことなのかあ!
早速登ります。
うわあ!私こういうの好きかも!
富士山に登りたかった当時の人が、
行けないなら地元に作っておまいりしよう!と、築山をこんなふうに信仰の場とするなんて!
登らずともご利益がもらえる!というちゃっかりなふうにも感じられるちゃめっけ!
反面、様々なアイテムを盛り込み真面目な信仰心も漂うちょっとした小宇宙な感じがとても興味深いのです。
絵的にもワクワクする富士塚。
これはもう私にとって立派なアートです!
東京にある他の場所もみてみたいなあ!と
ワクワクしてきました。
東京23区には73ヶ所も現存しているようだということを知り、びっくりしました。今のようにSNSもない時代にどうしてこんなに広まったのか。
その人気ぶりに尋常ではないものを感じてしまいます。
今まで行きたい行きたいと思いながら
なかなか実現されず、あれから随分年月が経ってしまったのですが
今度こそ!
73ヶ所お参りしたい!
まずはいまご紹介しました十条富士へ!
しかし
なんと…
ええええ!
がーん!
びっくりしました!まさかまさかの改築工事!
壊しちゃったんだあ!
あの不気味な雰囲気が厳かな感じでよかったのに…!
しばしボーゼン。
本当にショックでした。
でも
調べてみましたら、十条富士は築造年は文化11年(1814)ですが、2007年に修復工事が入っているらしいことがわかりました。
富士塚は、こんなふうに何度も壊され造り直されたものも多いようです。
なくなっちゃう訳ではないのだ。
よかった。
今度はどんなふうになるんだろう…
以前のものと同じく、いっきに登れる階段が真ん中にあります。
来年のお富士さんは新しい富士塚なんだなあ。
また登りにこよう!
楽しみです!
そしてこれから富士塚巡りをして、また皆さんにもご紹介したいと思います。
皆さんのお住まいの地域にもあるかもしれません。もしご興味がらありましたら是非お出かけになられて体験していただき、この楽しさを分かち合えたら嬉しいです!
歴史と美術的感覚と哲学と。
いろんな視野からの面白さと興味深さがある富士塚。
是非また読んでいただけたら嬉しいです!