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東京23区に73か所!すべての富士塚をめぐる挑戦 [3] 駒込富士(駒込富士神社)①

この富士塚の連載にともない、興味深いコメント等をいただき、いつも嬉しく読ませていただいております!ありがとうございます!


今回は、artoday-chiakiさんと若葉さんが「行ったことがあります!」と教えてくださった、駒込富士神社に行ってまいりましたー!
artoday-chiakiさんhttps://note.com/artoday

若葉さんhttps://note.com/miyakonomi

コメントありがとうございます!



ここは山開きのお祭りもなかなか盛大なようで
前から気になっておりました!

そして今回とても興味深かったことは、若葉さんも書いてくださっていた、富士塚の移転のことでした。

富士塚の移転自体は全国的によくあることだったようですが、移転前の場所の地名に富士の文字があり、その地名が富士塚とのつながりに関係しているのか知りたいなあ!と思いました。

現在の駒込富士は、駒込駅にほど近い場所にあり、もともとあったといわれている東京大学敷地からは、同じ文京区ではありますが少し離れています。

その東京大学の敷地内でも「現在の本富士警察署のあたりにあったみたいですね」との情報を若葉さんからいただき、おお!地名に富士が入っている!富士塚がもともとあったからなんだろうか!と考えたら面白いなあ!調べてみたいなあ!と思うようになりました。

家でその話をしますと、
夫が「駒込駅近くにも、上富士っていう交差点があるよね」と言い、ああそういえば!とこれまたびっくり!またまた富士だー!

というわけで、今回はその辺りのことも併せて何か面白いことがわかったらいいなあと思い、出発!

まずは東京大学周辺や敷地内をめぐります。


以前この辺りのことを書かせていただいておりまして、

生まれ育った地ではありましたが、歴史的なことはまるで知らず、ただ母が昭和一桁生まれな人なので、この辺りの地名が昔は〇〇って言ったのよ、みたいな話はよく聞いており、近所の真砂小学校や弓町本郷幼稚園などに昔の町名が含まれていることなどは知っていました。

なので、今回の本富士警察署の本富士というのも、きっと昔の町名にちがいない!しかも富士塚があったかもしれないなら、なにか関係があるのではないかと思いながら現地にむかいます。

本富士警察署

本富士警察署のすぐ裏手には東京大学の龍岡門という門があります。

龍岡門
東大病院側の入口です
この辺りが龍岡町だったということは
こんな看板が出ていました。
でも本富士のことは何にも書いてないなあ。

この案内板にもある無縁坂はここからすぐにあり、せっかくなので寄ってみました。
森鴎外の小説「雁」にもでてくる場所で、さだまさしさんの歌でも有名です。

少し余談ですが
森鴎外は今年が亡くなってから100年の年とのことで、文京区では記念事業がいろいろ催されているようです。

無縁坂

この坂をまっすぐ下ると目の前に上野の不忍池があります。


東大にはたくさんの門があります。
一番有名なのは赤門ですが、その他にも正門、西片門、農学部正門、弥生門、池之端門、鉄門、龍岡門、春日門、懐徳門、学士会分館前門、等があります。龍岡門は病院に入るタクシーなども通るため、隣の鉄門からはいってみました。

東大広いですねえ
鉄門

すると、しばらく歩いたところに立派な建物があるのを発見!いやえああー!みたいな叫び声が聞こえ、そっとのぞいてみました。どうやら剣道の試合をしているようでした。こんなところに武道館があったんだなあ!

うっそうとしげる緑に包まれ、しばし森林浴。

右に武道館があり、左にはサッカー
などができるコートがありました



東大の敷地は、以前から建築も自然もすてきだなあー!と思っていましたが、今日はまた新しい場所を発見して嬉しくなりました。
また、改めてその広さにも驚きました。


三四郎池(本名:育徳園心字池)に行く階段がいくつもあり、
昔のままのステキな姿にしばし見入りました。
夏目漱石も森鴎外もこの石段を踏んだのかしらー

下に下がっていく石段です。
下には三四郎池が。

私の大好きなnoteの方、階段が好きさんを思い出しました。
階段が好きさんの階段のお写真は本当にいつもどれも素敵です!



もとの富士塚があった場所等が特定できるような碑があったりしないかなあと東大敷地内にお邪魔しましたが、
特にそういったものは見つけられませんでした。

こういうこと調べるのにはやはり図書館だろうか。

あ!あそこはどうだろう?とふと思い出した
文京区ふるさと歴史館。

子どもの頃、私が住んでいた辺りにこの建物が出来た時、行ってみようとは一度も思わなかったのに(すみません)こんな時こそ調べるのにもってこいなんじゃないか?とココを思い出しました。

文京区本郷4-9-29
最寄り駅は丸ノ内線、大江戸線の本郷三丁目駅
または都営三田線、大江戸線の春日駅
はじめてお邪魔します!
入場料は100円でした


これがすごいお宝発見となったのです!

館内はそんなに広くなくて「コロナ対策のため30分程度でのご滞在でお願いします」と言われても、まあまわれるかも、という規模でした。
撮影は許可証を書くことで、一部をのぞいて認められるとのことでしたので、申し込みました。

1階、2階と順番に見て行きながら、なかなかに興味深い展示が多く、あれ?30分でまわりきるのはきついかもと思い始めながらじっくり読んでいると…



あ?富士、神社?え?
わああっ!なんとなんと!

安政年代?江戸時代!
江戸の元号 左から右に時代が流れています

寛永の初め、後に東大の敷地になる土地が加賀前田家の拝領によって下屋敷(のちに上屋敷)となったため浅間様を駒込に移したそうであります。

そしてこの図は安政年代とかいてあります。
ということは?もう移した後の図という事になるのですね。
この図は二枚の絵が上下に展開されていたのですが、その位置からあわせてみると・・・


ここは吉祥寺だと思われます。
現在本駒込にあります
町の絵がずうっと横に続いていきます
あの木がうっそうとしげっているのが
駒込富士の場所かなあ。
ずっとずっと続きます
ずっとずうっと


長い絵巻のようなものがケースにおさめられていました。当時の景色のようです。
絵のタッチもステキです!ワクワクしました。

違うタイプの絵巻が二段になって展示されていました

先程お見せしたのは、上の段の絵。
下の段の絵は、絵の中にたくさん説明がかきこまれていて、面白くて、もうずうっと読んでいたいくらいでした

富士塚のことがギッシリ書いてあります。

この地図をみてさんぽ絵ずしさんが書かれていた絵地図というものを思いました。
絵地図の世界、私ははじめて知りました!
すごい、魅力的です!


東大からずっと駒込の方へ歩いていくと
上富士という街が!
現代の地図通りになってる!

わああ、私の知りたかったことだー。
いや、それ以上だと感動しました。
当時の様子が写真のようにわかります。
絵も本当にステキだし、うちに飾りたいー!

あ、でも本富士について調べたいことを思い出し、他の展示もみてみなくては!と我にかえります。

すると…

え?え?えー!

興奮して写したせい?最後きれてるし!涙

富士講のコーナーがあったんです!
もう感激!すごいすごいすごい!
面白い展示がいろいろ並んでいました。

当時のものがずらりと!
こちらはマネキといい、講旗のことです。
これは布製ですが、紙製もあるとか
わあー!行衣(ぎょうい)というものだそうです
本格的です!

富士講の講員たちが富士参詣や山開きなどの行事の際に着用。
この行衣の背の部分に大きく刷られた図像には三猿(見ざる言わざる聞かざる)を含む38頭の猿と、富士山頂に来迎する阿弥陀三尊の御影(みえ)が描かれている。
このことから、庚申の年にあたる大正9年、38度目の富士山御縁年(ごえんねん)につくられたと考えられる。
富士山を信仰するものにとって、富士山が一夜にして出現したとされる庚申の年は特別な年であった。

現地の展示の説明から

富士山が一夜にして出現?
これもですね、伝説があるのだそうです。
富士山は考安天皇92年の6月、雲霧の間から忽然と出現したといわれ、それが庚申の年であるため、猿が神使となったとか。
そして庚申の年は60年に一回めぐってくるのだそうですが、面白いのは猿の数で、御縁年がめぐるたびに1匹ずつ猿が増えていきます。
猿1匹が60年だから、例えばこの上の行衣にいるのは38匹なので1800(36度目の御縁年が1800年で、この年から富士講信徒たちに配った木版画の絵札の頒布が始まりました。)と60+60を計算して1920年となり、大正9年に発行されたいうわけなんです。こうやってお札を配ることで富士信仰をひろめていったのですね。

富士山北口の登山口(ここは馬返しという地点になるそうです)にも猿の像があるそうです。


かっこいい講紋!(講印)

「護」は護国寺の護なんだあ!
わあ、いろいろあるんですね。
これはもうりっぱなグラフィックデザインです!
これを笠につけたり旗につけたりして
名刺がわりになったそうです
そういえば、石にもついていたかも!
当時のお写真
これは音羽富士塚の写真なんですね!


マネキの説明がこちらにはいっていてすみません。
当時のお写真
刷ってある図案も立派でほれぼれします
拝み箪笥
こちらは祭壇として飾ってありますが普段は収納箱として活用


わあー!嬉しい!すごいー!

来てよかったあと思いました。
まさかまさかこんなに揃った資料が見れるなんて思いもよらず!


一階にある小さな売店で、「ぶんきょうの町名由来」と「ぶんきょうの坂道」という冊子を発見!見本をパラパラとみて、面白そう!早速購入いたしました!あと「文京の切絵図」という、江戸を地域ごとに分割して収録した地図も買いました。


「ぶんきょうの町名由来」だなんて、これこそ本富士の地名の事がでてきそう!と、すぐに目次で調べます。ありました、本富士町!

徳川家康江戸入りの後、この地を藤堂高虎に賜い、後の元和2,3年(1616~17)の頃、前田利常に賜った。初め前田家の下屋敷であったが後に上屋敷(本邸)となった。天和年間(1681~84)その東部を富山、大聖寺の両前田家(加賀藩の支藩)の屋敷とした。明治4年(1871)三邸とも官収されて文部省用地となった。同5年(1872)初めて町名を定め、駒込富士浅間神社が元ここにあったので本富士とした。

「ぶんきょうの地名の由来」より

おおおおー!
書いてありました!まさに駒込富士が元あった場所だから本富士!
やはりそういう関係があったのですねー!

そして、この本に入っていた新旧町名の地図をみて、またびっくりしました。

本富士町広いー!

現在の東京大学の敷地の大部分を本富士町と言ったんだなあとわかります。大きな町だったんですね。

このあたりを切絵図でもみてみます。

加賀宰相殿とかかれたところが本富士町あたり

大名屋敷やお寺が多かったことがわかります。
江戸の町がこんなふうにわかるのは面白いなあ!


ここまでも大変ながくなってしまい、読んでいただいた皆様、本当にありがとうございました。
しかしまだ一番主役の駒込富士にはたどり着けず、
このあとまた②へと続きます。

駒込富士にいってみましたら、その日は思いがけない日で、貴重な体験ができました。
②もどうぞご期待ください!













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