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「人間として大切な感覚」子どもに伝えたい、たったひとつのこと

「神様もまったく信じてないんだけど、じゃあお地蔵さんを蹴れるかって言ったら、蹴れませんし。もっと漠然としたことで言えば、例えば賞味期限切れのおにぎりでも、米踏めるかっていうと踏めないんだよね。人として。それはなんか緩やかに信仰はあるんだなっていう。」

出展:伊集院光とらじおと

これは、2016年に伊集院光さんが「伊集院光とらじおと」というラジオで発した言葉です。

当時、Twitter(X)で話題になっていたこの言葉を、今日久しぶりにXのタイムラインで目にしました。

「何年も経ってるけど、子どもたちに教えたいのは、やっぱりこういう人間として大切な感覚だな」と再確認した私。


わが家の子どもたちは、お寺が母体になっているこども園に通っています。
年に数回、仏教の教えを子どもでもわかるように、住職である園長先生がわかりやすく「おはなし」してくれる機会があるようです。

保護者に対しても、仏教関連の行事がある際に教えていただく機会があります。

わかりやすく噛み砕かれた仏さまの教えに「なるほど」と頷くことはたくさんあります。

子どもたちによく先生がおはなししてくださる教えは「進んで良いことをすること、
生き物を大切にすること」だと子どもに聞きました。
もちろん、どちらも大切なことです。

しかし、子どもたちにとって「生きる」うえで本当に大切な教えは、冒頭にあるような「人間としての感覚」ではないでしょうか。

仏教徒ではなくても「お地蔵さんを蹴ってはいけない」し、キリスト教徒ではなくても「結婚式ではアーメンと祈り、讃美歌を歌う」日本人。

そう。たとえ賞味期限が切れたおにぎりであっても、踏み潰すようなことはしてはいけないのです。


今日、こんなことがありました。

朝ごはんの時間、食卓に並んだご飯と納豆。
それを見て「パンがよかった」とひっくり返る2歳の長女が、ご飯茶碗を床に叩きつけてしまいました。

「食べ物を床に投げてはいけない」と長女を叱る私。

そのとき、朝ごはんを食べ終えた次男が立ち上がった際にご飯を踏んだのでしょう。
「うわ、ゴミ踏んだ」と言ったのです。

床に落ちたご飯を食べろとは言いませんが、食べられないものをゴミと言う感覚に違和感を覚えた私。

長女はまだ2歳なので、ある程度は仕方がないとは思いますが、次男はもう6歳です。

「確かにもう食べられないからゴミになってしまうけど、床に落ちたご飯をゴミって呼ぶのはママちょっと嫌だな」と次男に伝えると、あまりピンときていない様子。

もう6歳、いや、まだ6歳。
この感覚を、どうやって伝えたらいいのだろう。
事実だけ拾ってしまえば確かにゴミではあるので、間違ってはいません。

もしかして私がとても細かいことを気にしているだけではないのか?

そんなモヤモヤとした朝をやり過ごした今日、タイムラインで冒頭の言葉を目にしました。

「あぁ、やっぱり私が教えたいのはこういうことだ。次男が帰って来たらしっかり話そう」

ふんわりとした言葉にしかできない歯痒さを感じながら、それでもこのまま見逃してはいけない感覚であるという確信を持ってお迎えに行きました。


帰宅した次男とおやつを食べながら「朝のことだけど……」と話を切り出しました。

「いくら食べられなくなってしまったとしても、食べ物をゴミって呼ぶのはやっぱりママ嫌だなって思う。いま食べてるものはゴミじゃないでしょ?」

うんうん、と頷く次男。
そこで、小学生の長男が帰宅したので、ことの経緯を話しました。

すると、長男はニヤニヤしながら

「食べられない食べ物をゴミって呼ぶなら、食べられる食べ物はウンコじゃん」

と言いました(お食事のお供に読んでくださっている方がいたらすみません)。

あまりにも的確な指摘に、私も次男も「それだ」と唸る長男の極論。

事実だけ拾ってしまえば、確かにそのとおり。
「そう考えたら、落ちただけでゴミって呼ぶのは良くないね」と納得したようでした。


長年、飲食店で料理をしていた私の父。
手首を痛めて包丁が握れなくなってしまった際に「結局俺は利き手をダメにしてまで、何年も人様のウンコを作っていた」と心を病んでいたのを思い出しました。

手首の手術を終えて厨房に戻りましたが「毎日山盛りに出る残飯をゴミ袋に詰め込んでいると、俺の仕事はゴミとウンコにしかならないと思ってしまう」と、現在は全く別の仕事をしています。

「おいしい」と食べてもらうこと
「おうちでは食べられない、特別な食事」を楽しんでもらうこと

料理人として働くうえで、そんなやり甲斐を感じていた父にとって、残飯の山をゴミ袋に詰める仕事はとても苦痛だったようです。


あくまでも食べ物は食べ物であって、
それを何ヶ月もかけて育ててきた方々、
販売するために関わるたくさんの方々、
料理してくれる方々(これは私の場合ほとんど自分だけれど)がいるおかげで、
私たちは食卓を囲むことができます。

食べられなくなってしまったとしても、それはあくまでも「食べられなくなってしまった食べ物」であることを理解した次男。

わが家には畑があるため、虫食いがひどいものや間引いた際にあまりにも小さい野菜はコンポストに入れることが多々あります。
そのためか、次男の中で「食べ物の感覚」が少し歪んでしまったのかもしれません。

「今度からはちゃんと『食べてあげられなくて、ごめんなさい』してからコンポストに入れようか」と子どもたちと約束しました。


さて、2歳の長女にはどうやって伝えたらいいだろう。

「人間として大切な感覚」には、正解も不正解もありません。
親子でよく話し合い「わが家の大切な教え」として、子どもたちが大人になっても心に残る教えに育てていきたいと思う、深夜のひとりごとでした。




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