天敵彼女 (83)
夕食後、俺はすぐに自分の部屋に戻った。
ずっと元気がない俺を心配した縁さんが、すぐ休みなさいと言ったからだ。
一応、奏には洗濯物のお礼をしてから、二階に上がったが、最後まで俺は俯いたままだった。
余程、奏が「男物」の下着を広げている様がショックだったのだろう。俺は、奏の顔をまともに見られなくなっていた。
よく考えれば、俺がここまで恥ずかしがる理由はない。どう考えても、些細な事だ。奏が俺の洗濯物を畳んでくれただけだ。
そもそも、奏は俺がなかなか起きてこないから、気を利かせてくれたのだし、父さんが多少弄って来たとしても、適当に受け流せばいいだけだった。
俺は、何一つ恥じる事なく、いつも通り夕食を食べれば良かったのだ。
にもかかわらず、俺は散々キョドって縁さんを心配させ、奏に気まずい思いをさせてしまった。
今日は、一体どうしてしまったのだろう? 自分で自分をコントロール出来なくなっている。
俺は、相変わらず俺を弄り続ける父さんをシカトして、逃げるように自分の部屋に戻った。
今年のゴールデンウィークは飛び石連休だ。明日は、学校に行かなければならない。今の所、何事も起こっていないが、元実習生のストーカー行為が終わったという確証はない。
もしも、何かあった時に対応が遅れるような事があったら……俺は、いつまでも呆けている訳にはいかない。とにかく今はぐっすり眠ろうと思った。
こうして、今日を終わらせる為に動き始めた俺だが、皮肉にもクソ雑魚豆腐メンタルに痛恨の一撃を喰らう羽目になった。
それは、洗濯物をタンスにしまう際の惨劇だった。
俺は、いつもと違う畳み方をしたパンツに気付き、頭を抱えた。
確か、奏が俺の「もの」を畳んでいるのに気付いた時、洗濯物の間に押し込んだはずだが、何故かそれはきれいに畳まれていた。
そう言えば、手ぶらで二階に上がろうとした俺に、洗濯物を手渡してくれたのは奏だった。
俺は、タンスにパンツを押し込むと、激しく動揺している自分に気付いた。
もうここまで来ると自己嫌悪を通り越していた。俺は、心が弱い。恋愛と関わる事で、俺はどこまでもグダグダになってしまうのだ。
最近、奏との距離が急速に縮まっている。このままでは、俺は奏と偽物ではない関係になるかもしれない。
それはそれで、良い事なのかもしれないが、俺の中にどうしても素直に受け入れられない部分がある。
俺は、女を天敵だと思っている。そんな相手と、良好な関係を続けていけるとは思えない。
それは、相手が奏であっても変わらない。むしろ、奏が相手だから俺は無理をして、余計にストレスを溜めてしまうだろう。
俺は、いつまで我慢できるだろうか? いつか限界を迎えた時、俺はどうなってしまうのか? 今のままでは、俺は自分も奏も壊してしまうだろう。
その破壊衝動をどうやって他に向ければいいのだろうか?
俺は、天敵との恋愛を恐れている。それは、違いを生み出すからだ。
人は、何かを得る為には、他者から奪わなければならない。それは、直接的であれ、間接的であれ、避けては通れない。
問題は、誰からどのように奪うかだ。己の欲望を満たすため、奪っていい相手をどうやって決めるかだ。
通常、社会というブラックボックスでは、誰が誰から収奪したのか分かりくくなっている。複雑に利害関係が絡み合い、直接的な影響を与える事が難しいからだ。
成熟した社会では、何かを決める際、まどろっこしい手続きを挟むことが多い。重要な決定に限って、直接的に誰が決めたのか分からないようになっているものだ。
ある決定が、誰かにとって耐え難い不利益になったとしても、誰が決めたのか分からなければ、直接責任を取らせることは出来ない。
そうやって、多くの矛盾を覆い隠しているが、社会はいつだって残酷だ。
どんなに避けようとしたところで、生活の為、己の欲望の為、他人から搾取しなければならない瞬間が訪れる。
そんな時、人は自分の為に損をさせていい相手を決める為に、違いに着目する。
国籍が違うから、思想が違うから、人種が違うから、搾取していいのだと自分を納得させる。
そういう意味で、男と女は様々な違いを生み出す。
性別の違い、価値観の違い、利害の違い。
仮に、それらを乗り越えて家庭を作ったとしても、年代の違う家族が誕生し、大人と子供と老人が社会というフィルターのない状態で対峙する緊張状態が生まれる。
それが家族の最大のリスクだ。直接的に斬り合う事が出来る距離で、様々な違いを内包し続けなければならなくなるのだ。
俺は、ずっと毒母のトラウマから立ち直ろうとしてきた。
もしも、男女関係や家族関係が本来安全なものであれば、こんなに俺は悩み続けなかっただろう。
俺の心には、家族や夫婦がこれ以上ない程酷い形で壊れていく様が刻み付けられている。
それは、断片的だが強烈な記憶だ。
俺には、自分の人生を正確に辿る事は出来ない。記憶の欠損部分が多過ぎて、全てを再現する事が出来ないからだ。
俺の恋愛に対する忌避感は、不当に刷り込まれたものかもしれないが、人 生をやり直すことが出来ない限り消えないものだと思う。
この先、どんなに記憶を上書きしようとしても、原体験へのアクセスが失われている以上、傷は傷として残り、なかった事には出来ない。
それでも、人は生きていけるし、男と女である以上、俺は奏とつながることが出来る。命題Xに訴えかければいいだけだ。
そうすれば、父さんも縁さんも喜んでくれる。奏も望んでいるのだし、本来なら何も迷う必要はないはずだ。
悩む必要はないはずだが、俺はずっと日和り続けている。
俺が奏と付き合えば、トラウマが刺激され、俺は正常なものの見方が出来なくなるかもしれない。
最悪、猜疑心と不安に囚われ、俺は奏を疎み始めるだろう。もし、そんな事になれば、俺も奏も追い詰められ、自分を守る為の収奪を始めるだろう。
その先にあるのは紛れもない地獄だ。俺も奏も互いに大切なものを奪い合い、一生消えない心の傷を負う事になる。
俺と奏は、どこまで言っても男と女だ。互いを理解しているつもりでも、余りに違っている。
違いがある以上、潜在的な搾取要員である事実は変わらない。
俺は、男女が関わり続ける事は危険な賭けだと思う。最終的にどこにも逃げ場のない場所で、直接ライフを削り合うようになるからだ。
俺は、毒母が家族に何をしたのか、忘れる事は出来ない。奏だって、アノ人物の悪行を忘れてはいないだろう。
人は、異性と関わる事で、幸せにも不幸せにもなる。命題Xにけしかけられ、根本的に違う存在と歪につながる事は、本当に恐ろしい事だ。
逃げ場のない場所で、異質な存在と向き合い続ける事で、人は相手を搾取対象と認識し、何をしてもいい相手だと誤解してしまう。
毒母が俺や父さんにした事や、アノ人物が奏や縁さんを裏切ったことが、その危うさを証明している。
だから、俺は男と女は天敵同士なのだと思う。俺は、奏と敵対する未来だけは何としても避けたい。
そんな事を考えてる内に、もう寝なければいけない時間になった。
今日の俺はどうかしている。今考えている事は、冷静になれば支離滅裂なのだろう。
とにかく、明日に備えなければ……俺は、眠れるかどうか分からないが、スマホのアラームをセットし、静かに目を瞑った。
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