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天敵彼女 (89)

 長い一日がやっと終わった。

 奏のいない学校は、俺にとって空っぽだった。

 まだ、転校してきて一か月も経っていないのに、自分でも信じられない。 そもそも、俺がこの高校に通い始めて、ほとんどの期間奏はいなかった。

 むしろ、奏がいない方が当たり前のはずなのに、隣の席が空席になっている事に、俺は心底打ちのめされていた。

 多分、俺の周囲にはずっと暗いもやのようなものが漂っていたのだろう。あの佐伯ですら俺に声をかけようとはしなかった。

 それでも、休憩時間に早坂が何度か話しかけてくれたが、俺は上の空で生返事を返すのがやっとだった。

 自分でも情けないと思うが、俺にはまだこの喪失感を乗り越える事は出来なさそうだった。

 とにかく、気分が塞ぎ、何かをする気分じゃなかった。いつもよりゆっくり時間が流れ、俺は叫び出したい衝動に襲われていた。

 もうこんな所にいたくないと何度思った事だろう。それでも物事にはいつか終わりが来る。

 さっきようやく最後の授業も終わった。俺は、一人家路を急いだ。

 周囲で何か言っている気はしたが、俺は返事をしなかった。

 そうこうする内に、俺は校舎を出た。

 まだ周囲は騒がしかったが、俺はとにかく一人になりたかった。何もかも面倒になり始めていた俺は、急に走り出した。

 丁度そんなタイミングだった。ポケットでスマホが震えた。

(実が来てる。警察呼んだから、帰って来ないで!)

 奏からメールが届いた時、俺は校門付近にいた。

 朝から全く授業に身が入らなかった俺だが、奏からのメールを開いた瞬間、自分でも驚く程思考が目まぐるしく回転しているのが分かった。

 それは、以前俺と奏の間で、話し合って決めた符牒のようなものだ。元実習生とどこかで鉢合わせしてしまった際、なるべく短い言葉で異常事態を伝える為、元実習生の事を実(みのる)と呼ぶ事にしたのだ。

 俺は、スマホをポケットにしまうと、すぐに走り出した。

 後ろで、まだ何か喚いている奴がいる。

 一気に振り切ろうと思ったが、何だか走りにくい。俺は、右肩周辺に違和感を覚え、立ち止まった。

「鞄、持ってて!」

「ちょ、ちょっとどうしたんですか?」

「ごめん、急いでるから」

「叶野さん、こんなの渡されても困りますよ!」

「邪魔なら捨てていいから!」

「そんな滅茶苦茶ですよ! 待って下さいっ! ちょっとぉ!」

 後ろで、早坂が何か言っている気がするが、俺にはもう何も聞こえなかった。

 ここから家までは走れば一分ちょっとだろう。恐らく、奴はまだそこにいる。

 俺は、元実習生の事をよく知らないが、奏達の話を聞く限り、一筋縄ではいかない相手のようだ。

 常に、安全地帯からネチネチと人を追い詰めてくるというか、リスクを負わずに事を進めたがるというか……とにかく、そこはかとなく卑怯者臭がする相手のようだ。

 今も、どうせ捕まった所で、ちょっと反省の態度を見せれば、すぐ出てこれるとタカをくくっているに違いない。

 そんな相手に、これから先もしつこく付け狙われ続ければ、奏は当然疲弊していくだろう。

 そして、いつか緊張の糸が切れ、奏が無防備な姿を晒した瞬間、奴は牙を剥いてくる。

 俺は、奏を守りたい。あの日、暗い部屋から俺を連れ出してくれた奏に幸せな人生を送ってもらいたい。

 奏は俺とは違う。

 元実習生のようなクズと関わらなければ、この先ずっと幸せな人生を過ごしていける。

 俺は、いつまでも奏の隣にはいられない。

 この先、俺の薄暗い部分が、奏の足を引っ張る時が来る。

 そうなる前に、俺は奏の前から消えるつもりだった。

 奏は今、俺とずっと一緒に生きていこうとしてくれている。本当なら、もっと早く言い出すべきだったが、俺は奏の気持ちを無下にする事が出来なかった。

 多分、今が最後のチャンスだ。今なら、奏の為に何かを残して消える事が出来る。

 俺は、最後の角を曲がると、呼吸を整えた。人の家の玄関で、みっともなく喚いているクソ野郎に目のもの見せる為に……。

「おい、人んちの前で何騒いでるんだよ?」

 俺は、初対面のストーカー野郎に声をかけた。

 少し遅れてポケットのスマホが震え始めたが、俺は無視した。

「はぁ? 何言ってんだ? ここが君の家な訳ないだろう?」

 人を小馬鹿にしたようにあざ笑う元実習生。全体的に薄汚れており、髪型も服装もだらしない印象だ。

 この時点で、作戦の第一段階は成功だ。

 元実習生の注意を俺に向けさせる事が出来た。

 次は、元実習生をキレさせることだ。この手の人間は、プライドがやたらと高く、ちょっとしたことで逆上してくれる。

 俺は、目の前の男に最低でも数年は世間から消えてもらうべく、挑発を続けた。

「じゃあお前の家なのか?」

「違う! ここはぁ……」

 俺は、ストーカー野郎の言葉を遮った。

「ここは、俺が彼女と同棲してる家なんだよ! 今すぐ消えろっ! みっともないストーカー野郎が!」

「アアッ?」

 元実習生が、俺に向かって歩き出した。どうせこういうタイプは素手では来ない。間違いなく、何らかの凶器を持っている。

 俺は、その時サルマンさんの言葉を思い出していた。

(忘れるナ、アレがチーターの目だ!)

 あれは、勝つ為に平気でズルをする事で有名な男性会員とスパーリングをした時の事だった。

 案の定、その会員は執拗に急所を狙ってきた。いくらクラヴ・マガが実戦を想定しているとはいっても、相手に怪我をさせていい訳ではない。

 ルール無しだからこそ、安全の為に細心の注意を払わなければならないのだ。

 そんな暗黙のルールを一切無視したせいで、その男性会員は完全にジムで孤立していた。

 さすがに、練習相手にも事欠く事態になり、少しは反省したらしいとの噂もあったが、俺は全く信用していなかった。

 結論から言うと、男性会員がまともだったのは、最初の挨拶の時だけだった。いざスパーリングが始まると、ものの数秒で理性の仮面は崩壊し、後は酷いものだった。

 俺は、防戦一方になり、怪我をしないでスパーリングを終えるだけで精一杯だった。

 スパーリングの後、俺はサルマンさんに抗議した。

 それに対して、サルマンさんは言った。実戦では相手が何をしてくるのか分からない。どんなに実力差があっても、相手のズルを見抜けなければ思わぬ事で足元をすくわれることになる。

 その為にも、ズル(チート)を仕掛けてくる人間の特徴を覚えていた方がいい。

 チーターの目を忘れるな、と。

 今、元実習生が俺の方に向かって歩いている。いかにも何も持っていない雰囲気を出しながらも、右手が明らかに挙動不審な動きをしている。

 恐らく、ポケットに隠し持った道具を取り出すタイミングを計っているのだろう。

 こういう場合、持っているのがナイフだけなら楽なものだが、問題は空いている左手の方だ。

 明らかに、喧嘩慣れしていない人間が、確実に攻撃を当てようとする場合、最も効果的なのは相手の視界を奪う事だ。

 俺は、元実習生の右手に注意を奪われているふりをしながら、左手が何をしようとしているのかを横目で追い続けた。

「何かすみませんね。家間違えちゃったみたいで……」

 元実習生が薄笑いを浮かべながら、俺との間合いを詰めた。

 次の瞬間、元実習生が左手をポケットに入れた。

 俺は、後ろに飛びのくと、元実習生の左手を蹴り上げた。少し遅れて、道路を空き缶が転がるような音がした。

「な、何なんだよぉ! お前はあああああっ!」

 逆上する元実習生。右手には既に光るものが握られていた。ポケットに隠れる事を優先したのか、刃渡りは短く、殺傷能力はそれ程高くなさそうだった。

 元実習生は、催涙スプレーのようなもので俺の視界を塞いでから、このナイフでめった刺しにする計画が狂ったせいか、明らかに動揺しているようだった。

 このままでは、逃げられると思った俺は、更に元実習生を挑発する事にした。

「へぇ、それがあんたの切り札ですか? そうやって女を口説くのが一度は教育を志した人間のやり方なんですね?」

「う、うるさいっ! 僕を馬鹿にするなっ!」

「馬鹿に馬鹿と言って何が悪いんだ? どうした? 女しか刺せないのか? この卑怯者がっ!」

「後悔するなよ……こ、殺してやる」

 「殺してやる」頂きました……俺は、とりあえずの目標を達成したせいなのか、何故かホッとしていた。完全に、思考回路が吹っ飛んでいたのだろう。

 元実習生が突進してくる中、俺はどの程度刺されてやるべきかを考えていた。

 しかし、ここで想定外の出来事が起こる。

「峻っ!」

 その声がした瞬間、俺は激しく動揺した。

 さっきまでは、元実習生をハメる事だけを考えていたが、奏の声がした事で状況が一転した。

 俺がやられれば、次は奏に被害が及んでしまう。

 気が付けば、俺は元実習生の腕を掴み、思い切り捻り上げていた。

「ぎゃああっ!」

 元実習生の悲鳴。どうやら勢い余って、腕をあり得ない方向に曲げてしまったらしい。

 俺は、また考えた。

 こうなったら、正当防衛になるか分からないが、元実習生が二度とストーカー行為が出来ないようにするしかない、と。

「ひっ、ひいいいいいっ!」

 元実習生の顔が恐怖に歪んだ。

 俺は、がら空きの急所に向かい、渾身の一撃を喰わらせ……ようとしていたが、何故か腕が伸び切らなかった。

 それでも元実習生は吹っ飛んだが、残念ながら少し浅かったようだ。

「それ以上は駄目だっ!」

 それは、佐伯の声だった。俺を後ろから羽交い絞めにしながら、必死で何か訴えている。

「放せっ! こいつがいたら奏がっ!」

 何とか佐伯の手を振り払い、元実習生に止めを刺そうとした俺の視界を、銀色の何かが横切った。

「うぐっ!」

 次の瞬間、元実習生が鳩尾の辺りを押さえてうずくまった。

「や、やめっ!」

 それからも元実習生の体が何度も折れ曲がり、その度にうめき声が上がった。

 俺は、目の前で繰り広げられている惨劇に言葉を失った。さっきまで俺を必死で押さえようとしていた佐伯もただ茫然と事の成り行きを見守る事しか出来なかった。

「奏ちゃん、警察の人が来たよっ!」

 その声に、我に返った俺は、慌てて奏を止めに行った。

「奏、もういいからっ!」

 俺は、倒れた元実習生の喉元に刺股を喰い込ませ、思い切りグリップを持ち上げている奏に抱きつき、何とか元実習生から引き離した。

 既に、元実習生の顔色は真っ青で、意識朦朧としていた。あと少し、止めるのが遅かったら窒息していたかもしれない。

 結局、警察官が到着したのは、全てが終わった後だった。俺は、元実習生を取り逃がしてしまった事に気付き、愕然とした。

 奏は、刺股を握りしめたまま、俺に怪我はないかと何度も訊ねてきた。

 俺は、そんな奏の姿を見て、心底申し訳ない気持ちになった。

 既に、周囲には見物人が集まり始めていた。俺は、何とか奏を好奇の目から遠ざける為、奏の前に立った。

 それから、簡単な事情聴取の後、元実習生は見るも無残な姿で連行されていった。

 奏は、まだ刺股を握りしめたままだった。

「大丈夫?」

 そう俺が声をかけると、奏が俺の耳元で呟いた。

「ごめん、これ外してくれる? 指動かない……」

 俺は、極度の緊張状態で固まってしまった奏の指を一本一本ゆっくりと開いて行った。ようやく全ての指が外れた時、刺股は力なく道路に転がった。

 その時、初めて刺股が原形をとどめない程ひん曲がっている事に気付いた。俺のせいで、奏に無理をさせてしまった。

 俺は、自分の短絡的な行動を反省した。

 それから、俺達は警察に事情聴取を受けた。徒に元実習生を挑発した俺がきついお叱りを受けたのは言うまでもない。

 結局、全てが終わる頃にはすっかり辺りが暗くなっていた。俺は、佐伯と早坂に巻き込んで済まないと謝罪した。

 佐伯も早坂も気にするなと言ってくれた。二人は、警察から連絡を受け、迎えに来た早坂の親父さんの車で帰って行った。

 それから、父さんと縁さんに事情を説明し、ひとしきり怒られた後、真の恐怖が俺を待っていた。

「峻、ちょっといい?」

 それは、過去最大級の奏さんだった。既に、父さんも縁さんも自分の部屋に帰ってしまっている。

「はい……」

 俺は、縮こまりながらリビングのソファに腰かけた。ふと視線を上げると、奏さんが突き刺すような目で俺を睨んでいた。

 終わった……俺は、覚悟を決め、思わず唾を飲み込んだ。

 それから先の記憶は断片的だ。俺は、奏の詰問に自分が何と答えたのかよく覚えていない。完全にテンパっていたんだろう。

 ただ一つ確かな事があるとすれば、この世には絶対に怒らせてはいけない存在がいるという事だ。

 俺は、奏の言葉に打ちのめされ、心から反省した。

 もう勝手な思い込みで、奏を一人にする事は許されない。

 この日から、俺の自分探しが始まった。

 多分、人生にターニングポイントがあるとすれば、奏さんに怒られ、ひどく泣かれたこの日の事を言うんだと思う。

 本当にごめんなさい。もう二度としません。そう誓った俺は、二度と後戻りの出来ない道を歩き始めたのだった。

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