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天敵彼女 (91)
部屋で一人になってから、俺は考えた。
このまま流されるまま、奏と本当に付き合った後の話だ。
多分、最初はうまくいくと思う。俺は、それなりの幸せも感じるだろう。
今更、隠しても仕方がないので、この際はっきり言うが、俺だって奏の事は好きだ。
そもそも、俺がどんなにぶっ壊れていたとしても、好きでもない相手の為に、命は懸けない。
元実習生を道連れにしてでも、奏を守りたいと思ったのは、それだけ奏が好きだからだ。
そんな俺の事を奏も好きでいてくれて、この先ずっと一緒にいられるのだとしたら、嬉しくない訳がない。
多分、しばらくの間俺は最高の気分になるだろう。
でも、問題はそれからだ。人生は長い。いつ何が起こるか分からない。それに、人は変わっていく生き物だ。
今は、奏が俺の事を好きでも、それがいつまで続くのか分からない。
十年後の自分がどんな人間になっているか分からない俺にとって、十年後の奏の姿を想像する事はもっと難しい。
それは、奏にとっても同じだろう。
お互いに先が見えないまま取り交わした約束に、俺はそれ程の意味を見出すことが出来ない。
むしろ、いつ相手が裏切らないとも限らないと疑ってしまう。そんな自分が嫌いだし、何よりも許せないが、自分ではどうする事も出来ない。
いつだって、人生は理解不能な程複雑だ。
まともに考えようとすれば、すぐさま人の頭はパンクする。そうならない為に、人は物事を単純化する。
その結果、切り捨てられるものの中に、大切なものが含まれていない保証などどこにもない。
日々の生活に追われ、失う恐怖に取りつかれた俺は、いつか大切なものまで切り捨ててしまうかもしれない。
そんな俺を奏は許してくれるだろうか?
奏にとって男が侵略者であるように、俺にとって女は天敵だ。
そんな俺達が、大きな壁を乗り越えて、付き合い始めたとしても、いつかボロが出て終わりを迎えるだけなのかもしれない。
男女の関係は愛情がなければ空虚でしかないが、一度愛情が冷めれば酷く凄惨なものになる。
それは、どんなに幸せな生活を送っていても、突然やってくる。
初めは、ちょっとした変化かもしれないが、気が付けば取り返しのつかない溝になっている。
例えばこうだ。
最近、奏が何となく素っ気ない。
スマホを片時も手放さなくなった。
俺には、冷たい態度なのに、スマホを触っている時だけ妙に嬉しそうだ。
気が付けば、風呂やトイレにまでスマホを持ち込むようになった。しかも、よく誰かと電話をしている。
もうどれくらいの間、笑った顔を見ていないだろう? 電話中のような楽し気な声で、俺に話しかけてくれる事もない。
家事もすっかり手抜きになり、お互いの温もりを感じる事もなくなった。
最早、一緒にいる意味が何一つ見いだせない。
生活は、すれ違い、訳もなく遅く帰ってくるようになった。
そうこうする内に、見た事もない派手な下着が増え、謎の外泊が頻発する。
それは、毒母がうちを出て行く前に起こった一連の出来事に、ネットで拾ってきた浮気の兆候を加え、再構成したものだ。
俺は、奏を好きになればなる程、二人の関係がうまくいけばいく程、失う恐怖に囚われ、自分を見失っていくだろう。
俺の中に、毒母のトラウマがある限り、最愛の女性の存在は、全てを失うリスクそのものだ。
俺は、奏の中にかけがえのないものと、とてつもなく残酷なものを見出し、苦しみ続けるだろう。
もしかしたら、俺の元を去っていく時、奏は俺にとって最大の天敵となるのかもしれない。
その恐怖の前では、折角の幸せも、楽しい思い出も、全てが色褪せ、何の感動も残さなくなる。
恐らく、俺は奏との時間を楽しめない。それは、俺の人生にかけられた呪いのようなものだ。
本当に馬鹿げた話だと思うが、自分でもどうしようもなくて苦しんでいる。何とかしようともがいてきたが、結局どうにもならなかった。
多分、これには幼少期に刷り込まれた家庭崩壊の生々しい記憶が関係しているのだろう。
俺には、心の奥深くに刻まれた根元的な不安がある。それはまるで、大きな影のように俺の人生を灰色に染めてきた。
だから、今までもこれからも俺には何もない。そんな人生に、奏を付き合わせるのは余りにも無責任だ。
そもそも、人は他人の人生に責任など取れない。一生幸せにすると約束する事は出来ても、失敗に終わった場合の被害を補償する事は難しい。
人は、関係が親密になればなる程、互いに負う責任が重くなればなる程、嘘をつかなければ人間関係を維持できなくなる。
どんなに相手の事を想っていたとしても、男女関係の強烈なリスクを前にした時、確かなものなど何もない事に気付かされる事になる。
俺は、ずっと一人の人生を想定して生きてきた。奏と一緒に歩む人生は完全に想定外だ。
俺なりに人生を単純化しようとしてきた形が崩れ、そこに奏というイレギュラー因子が加わった時、俺はどうやって代わりの単純化を見つければいいのだろう。
このままトラウマを克服しないで奏と付き合った場合、俺の中で何かが暴走を始める予感がする。
その場合、毒母やアノ人物のような歪な単純化が俺に起こらない保証がどこにあるというのか?
奏と付き合う事で、俺は男女でしか解決できない命題Xを知る事になる。
本来、利己的であるはずの生物に、自分の身を危険に晒してまで子孫を残そうとさせる、強烈な何かが俺の中でうごめき始める。
その時、俺は冷静でいられるだろうか?
俺の中にある毒母の血が、奏を傷付けてでも己の欲を満たそうとする方向に、俺を変えてしまう可能性がないと言い切れるだろうか?
俺の自我はそれ程強くはない。いつか俺は、奏を傷付けてしまうかもしれない。
それが今は一番怖い。
俺はどうするべきなのだろうか? どうすれば俺にとっても、奏にとって も、良い選択になるだろうか?
俺は、そんな事を一晩中考えていた。当然、一睡もできなかった。
今日は、俺の食事当番だ。
眠い目をこすって、キッチンに向かうと、何故か父さんがいた。よく考えれば、父さんがキッチンに立っているのを見るのは本当に久しぶりだ。
「おはよう。珍しいね」
そう声をかけると、冷蔵庫を覗いていた父さんが振り返った。
「ああ、おはよう。そこに座っていなさい」
父さんの姿を見て、俺は絶句した。すっかり古びてしまっているが、それは父さんが料理をしていた頃に使っていたエプロンだ。
「大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫だ……そこで見ててくれ」
「何か手伝おうか?」
「いいから、その椅子にでも座ってなさい」
「……分かった」
俺は、キッチンカウンター越しに、中の様子がよく分かるように椅子を置いた。それは、子供の頃よく座っていたものだ。
懐かしくて涙が出そうだった。俺は、すっかり目が覚め、気が付けば父さんの姿を目に焼き付ける事だけを考えていたのだった。