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ソシュールについて

「構造主義」の起源として語られるのが、スイスの言語学者フェルナンデス・ド・ソシュール(1857―1913)です。ジュネーブ大学での彼の講義をもとに、学生たちが作成したノートを編集した『一般言語学講義』(1916年)がソシュールの死後に出版されたことによって、世界中に知られるようになった。というのは、20世紀の言語学は、すべてソシュールから出発したと言っていいほどに斬新な視覚を、この書物はそなえていたからでした。

船木亨氏は、ソシュールについて、次の説明しています。

ソシュール以前の19世紀の言語学は、歴史的研究(すなわち、言語のあれこれの特徴が、どういう順序で変化してきたか、という研究)に熱心でした。

しかし、ソシュールの関心は、諸国語(ラング)の歴史ではなく、言語一般(ランガージュ)の 本質でした。各国語は語られるかぎりで存在し、たえず変遷していきます。その歴史としての「通時態」に対し、その現在の断面である「共時態」としての国語をしか、言語学者は対象にできません。

かれは、共時態としての国語が、言語としていかにして成りたつかを考えました。通常、言語 は、「音声」と「意味」との対応と考えられ、その結びつきが、神や古代において理由あってなさ れた必然的なものか、たまたま結びついただけの恣意的なものかというように問題にされます。

し かし、アウグスティヌスが述べたように、「指さして名づけて記憶する」とか、聖書におけるアダ ムのように「事物に名前を与える」とか、ソクラテスのように「名前を通じて理解する」とか、 そ のほか言語を説明するこうしたことすべては、すでに言語があるから可能なのであって、言語に よって言語の成りたちを説明しても仕方ないのです。

辞書とても、ことばによって語られるものです。一体どのようにして、「言語によって言語について語ることができる」、そのようなものとして言語が成立しているのでしょうか。真の問題は、「言語に意味があるとはどういうことか」なのです。

船木亨著『現代哲学への挑戦』P164~P165

言語の機能を知るには、その歴史は関係ないので、無視して、真の問題は、「言語に意味があるとはどういうことか」なのか、というわけです。

言語が物質世界と接点をもつのは、①言語が指し示す対象が、物質的な局面と、②言語が、物理的な音声によって成立している、という二つの局面がありえます。

ところが、①の場合、指し示す対象が、各国の言語によって異なっているので、世界の区切り方が違ってくるといえる。例えば、虹は、日本では7色というのが、常識なっているが、国によっては、3色という具合に各国でばらばらだったりしています。このような特徴をソシュールは、言語の「恣意性」と呼んでいる。

そして②の場合、言語が物理音から成立しているのは、当然のように思えるが、そう単純なことではない。日本語では、日本人が発音の苦手な、rとlの区別は問題にならないが、英語でこれをしなかったら別の意味になってしまいます。つまり、音そのものではなくて音のなかにある区別がなければ、言語は成立しないということになります。

この区別の仕方も言語によって違うので、恣意的である。このように言語には、区別しかないので、「言語は差異のシステムである」や「言語は対立のシステム」であると表現する。

音声の最小単位としての「音韻」は物理的音響ではなく逆に、語の意味が分かるかぎりにおいてしか捉えられない。各音韻は、他の音韻とどう違うかを知っていなければ聞き取れないのです。

音韻のセットとしての語も、相互の対立として、ちょうど音韻を区別できるように、語相互が 区別できる、語相互にそうした対立があるから「意味」がある、とソシュールは考えました。

かれ は、音声(聴覚映像)とそれに対する意味(概念)という区別を捨て、(語もそのひとつであるよう な) 記号 (シーニュ)は、「シニフィアン(意味するもの)」と「シニフィエ(意味されるもの)」の、 一枚の紙の裏表のような切り離せない関係であって、他の諸記号の総体との、対立しあう関係によっ て規定されていると考えました。メルロ=ポンティは、このことを「煉瓦で造られたドームのよ う 語が相互に支えあっている」といううまい比喩で説明しました。

同上P165

歴史言語学の恣意性を批判して、言語の本質としての差異をふまえ、その通時態の、言語に内在的な変遷の法則性を見いだすべきだというのが、科学としての言語学めざしたソシュールの思想だ、と船木氏は述べる。



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