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「時間の謎」について(3) ポール・リクールの時間論
「時間の謎」について(2)で抜けていたポール・リクールの時間論について追記します。
ポール・リクールは『時間と物語』第四部においてフッサールの現象学の時間論について、下記の通り批評している。
換言 する と、 持続 する 何 かを 得る には、それ自体で構成する流れが必要なのである。そうするためには、流れは自己現出しなければならない。
フッサールは地平線に現われ出るアポリア、すなわち無限後退のアポリアに、はっきり気づいていた。流れの自己現出はそれが現出するための第二の流れを要求するのではないか。
そうではない、と彼は言う。反省はこのような倍加を要求しない。「現象として、〔流れ〕自己構成する」。
この自己構成において、純粋現象学の企ては完結する。フッサールはこの現象学のために、彼の現象学が内的知覚に認める明証と同じ明証を要求する。
内在的内容に明証と同じように疑いの余地のない「持続の明証意識」さえあるから。けれども問題は残る。
持続の明証は、知覚的意識の明証なしでも自足できるのだろうか、という問題である。
フッサールの時間論が遂行しているのは、時間についての形而上学的探求ではないことを、リクールは理解していない、と竹田は厳しい批判をする。
フッサールは、次のように答えている。
フッサール の 答え は 簡明 で あり、 事物 の 存在 確信 が 対象 知覚 経験 におけるノエシス‐ノエマ 構造 として 解明 さ れる よう に、 時間 的 存在 対象 も、 同じ確信 構造 を その 基底 に もつ という こと、 すなわち、 個々 の 時間 契機 は、 流れて ゆく 過去 把持 と 現われ て くる 未来 把持 という ノエシス 的 契機 の 持続 による「 この 今」 という 対象 ノ エマ の 構成 として 把握 できる、 という ことである。
りんご、机、椅子のような事物と同じように、時間も現象学的還元して、内省による本質観取するということになる。
時間とは何かという問いを形而上学的本体論から切り離せないかぎり、フッサールの洞察の意義は理解されえない、と竹田は主張する。
ポール・リクールは、放送大学「現代フランス哲学に学ぶ」という講義で初めて知った。かなり、難解で、ほとんど理解できていなかったが、竹田の説では、リクールがフッサールを理解をしていないとなる。恐れ入りました、としか言いようがない。