![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/134826116/rectangle_large_type_2_8542b48ec439ecd9d3e478ff4eea7673.png?width=1200)
「戦争」と「真善美」
プラトンが「真知のイデア」とせずに「善のイデア」とした理由は、竹田青嗣氏によれば次のようになる。
「善のイデア」は、善への集合的(普遍的)な信憑を寓喩し、「真知のイデア」は共同的な「真理への意志」を寓喩する。ここでも、われわれが「善」の理念を守るのは、われわれが「真理」によって台なしにならないためである。
善を皆が追究していけば、暴力行為、つまりその極にある戦争行為に対峙することになるというのである。
戦争が起こりそうな雰囲気となると「真善美」などと理想を掲げていてどうなる、もっと現実をみなきゃと叫ぶ「現実主義者」の連中が鼻息があらくなって、防衛費を2倍にするのは当然だろうということになる。
ひとたび戦争が始まるやいなや社会のあらゆる努力は、勝利することと生き延びることへの合理性へと差し向けられるが、この合理と効率への努力は真善美の価値と本質的に背立的であると竹田は叙述する。
そして次のトゥーキュディデースの『戦史』はその見事な範例であると述べる。
《かくのごとき争いに陥ちたものらは、正邪の判断や国家の利害得失をもって行動の規範とはせず、反対派をしたたか傷つけるその場の快感が得られるまで争い、当座かぎりの勝利慾を貪婪に充さんがためには、不正投票による判決であれ、実力行使の横暴であれ、権勢獲得の手段であれば、何のためらいもなく実行に移した。
したがって、何れの派も何をなしても心に恐れとがめる者はなく、たくみな口実を設けて、人としてなすべからざるをなした者らが、かえって好評を得ることとなった。
それのみか、中庸を守る市民らも難を免れえなかった。かれらは両極端の者たちから、不協力を咎められ、保身的態度をねたまれて、なし崩しに潰滅していった》(トゥーキュディデース 1966 102)
古代ギリシャから現代に至るまで人間の営みは、まったく変わらないようです。
第二次世界大戦で日本は徹底的に破壊されたあげくに、さらにダメ出しで人類初の原子爆弾を広島と長崎の二ヶ所に落とされて焦土と化した。
この反省から、世界で唯一と言われている「戦争放棄を主張する憲法」を成立させたのだが、その反省も80年も経過するとすっかり忘却されています。