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「本質」と「自由」のイメージ

苫野 一徳(著)『「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学』に基づいて、「本質」とは何か と「自由」のイメージを学びます。     


第一章 「本質」とは何か

「本質主義」批判

自由とはいったい何なのか、その本質をあきらかにするが、その前に本質の意味を論じる。

本質とは絶対の真理という意味ではない。

なるほど、確かにその考えは本質的だ、といいうるようなできるだけ普遍的な深い納得の得られる考え方のことを意味する。

なぜかといえば、本質という言葉には、絶対の真理という意味が込めらているからである。

絶対的に正しい思想や本質などといったものはない。 その こと を 繰り返し 主張 し 続け た 現代 の 思想家 たち は、 その こと によって、「 真理」 を めぐる 争い や 殺戮 に 終止符 を 打と う と考えたのだ。

言葉の多義性の問題

言葉の多義性や操作 可能性 を タテ に「 自由」 の「 本質」 など ないといっ て しまうことは、早計なことである。

なぜならわたしたちは、そのようなことなどすでに 織り込み 済み で、 なおも「 自由」 の 本質 を 洞察 する こと が 可能 で ある から だ。

欲望に基づいて世界を切り取る 

海、山、川、といった 名前 で 存在 する 事物 が 世界 に もともと あるわけ では なく、 むしろ わたし たち 自身が、わたしたちの関心に応じて、世界を海、山、川という言葉で知り取っているのだ。

それはまさに、言葉の絶対的(イデア的)本質などない、ということだ。しかし その 上 で なお、 わたし たち は この 海、 山、 川 という 世界の 切り取り 方( 言葉) を、 広く 共有している。

それ は わたし たち が、 人間的 な「 欲望」 や「 関心」「 身体」 を 共有 し て いる からで ある。

わたしたちは、わたし たち の 生き て いる この 世界 を、 わたし たちの「欲望」や「関心」「身体」に応じて切り取り名前をつけている、それゆえ、言葉の絶対的(イデア的)本質などはない。

しかしその上でなお、わたし たち は 次 の よう に いう べき なの だ。わたし たち が 互いに 言葉 を 交わし 合う 時、 その 言葉 の〝 共通 意味本質〟を、わたしたちは多くの場合暗黙のうちに了解し合っているはずである、と。

確信=信憑としての本質

何らかの言葉や事象 について、 互いに 一定 の 了解 関係 が 成立 し ている という「 確信」「信憑」が訪れた時、わたしたちはその共通本質を、暗黙のうちに直観している。

「自由」 という 言葉 の絶対的(イデア的)本質はない。しかし、わたしたちが日常 において「 自由」 という 言葉を使用し、また互いに交わし合っている以上、わたしたちはその言葉の本質を、なにがしかの形で必ず直観している。

第二章 「自由」のイメージ

因果からの自由

あらゆる摂理(因果関係)から逃れたある種絶対的な「自由」はありうる か、という 問い は、 現代 思想 において も また 繰り返し 論じ られ てき た もの だ。

そして 周知 の よう に、 多く の 現代 思想家 たち は、 これ まで「そんなものはあり得ない」と主張し続けてきた。

「自由」のある種の否定は、社会 システム 決定論 や 歴史 決定論、 宇宙 決定論 から、 遺伝子 あるいは 脳 決定論 に いたる まで、様々なヴァリエーションをもって今日も見られるものだ。

しかし、こうした議論はあまりに ナイーヴ という ほか ない もの だ。 というのも、 わたし たち が 社会 や 脳、 遺伝子 等 によって その 認識 や行動のすべてを決定されているかどうかなど、原理的にいって決して分からないことである。

思考の始発点をどこに置くか

フッサールは、懐疑可能 な 事象 の 一切 を、 哲学 における〝 思考 の 始発 点〟 と する こと を 否定 し た。

わたしたちを絶対的に規定しているのは、遺伝子である、脳である、社会システム で ある……。 こうした 主張 は、 その いずれ もが、 素朴 な懐疑 にさえ 耐え 得 ない もの だ。その意味で、あらゆる「決定論」は、決して思考の始発点のはなり得ないのだ。

さて、しかしフッサールは、その上で、 だれ もが 納得 できる はず の 懐疑 不可能 な 思考 の 始発 点 が ある と 主張 する。それは「超越論的主観性」である。

目の前の本があれば、今このわたしの目に見えているような仕方では本当に存在していなかもしれない。しかしそれでもなお、わたしには、今 この目 の 前 の 本 が この よう な 仕方 で「 見え て しまっ て いる」。

この確信は、実は勘違いであったり、その後修正さ れ たり する こと はあっ た として も、 しかし それでも なお、 今 わたし が この よう に「 見え て しまっ て いる」「 思っ て しまっ て いる」こと自体は、やはり疑いえない。

フッサールは、この「見えてしまっている」「思ってしまっている」という「確信」確信」「 信憑」 こそ が、 疑い 得 ない 思考 の 始発 点 で ある と 主張 する。 そして それ を、「 超越論的 主観性」 と 呼ぶ。

自由についても、因果法則から本当に「自由」でありうるか?この問いに答えることは決してできない。「自由」についてのわたしたちの問いは、それ ゆえ 次 の よう な もの でなけれ ば なら ない。 すなわち、〝 わたし〟 は いったい どの よう な時、 どの よう な 条件 において、「自由」を感じーー確信しーーそれを「自由」と呼んでいるのだろうか?

その「本質的構造を、あらゆる内的なな 構造 に 即し て 解明 する こと」、 そして その 上 で、 この〝 わたし〟 の「 確信」 と 他者 の「 確信」 との 間 に、共通に「確信」されうる「本質」を見出すこと。これこそが、わたし たち が「 自由」 を 問う ため の 根本的 な 思考 の 始発 点 で あり 方法なのだ。

脳科学のおける偽問題

脳の機能を次々と解明していく、脳科学 の 研究 は いう までも なく きわめて 意義 深い。 しかし そこ から、 一切 を 脳 が 決定 し て いる のか否かという問いを立てることは、飛躍であり誤謬である。それは、これまで述べてきたように、それは偽問題なのだ。

わたしたちは、人間はそもそも因果から自由なのかなどかなどと 問う べき では なく、 どの よう な 時 に わたし たち は「 自由」 を 実感 できる のか、 どの よう な 確信 条件 において それ を「 自由」 と 呼んでいるのかと問うべきなのだ。「自由」の本質を解明するための、最も根本的な思考の始発点はこのことをおいてない。

恣意としての自由

恣意としての自由はありえないのはなぜか
ヘーゲルはいう「わたしたちの欲望は必ず複数あり、そしてそれらは絶え ず対立しあっているからだ。

解放としての自由

解放としての自由もあらゆる制約から解放されることで、結局のところは何でも「やりたい放題」ができることをイメージしているから、恣意としての自由と同様、その現実性を著しく欠いている。

他者の存在 ゆえ の、 様々 な 制約・束縛 からの 絶対的 な 解放 は、 その他者を破壊し尽くす行為へと生き着かざるを得ないのだ。

「消極的自由」概念の問題

現代の「自由」論においては、「自由」を「解放としての自由」としてイメージするものがきわめて多い。そしてそのことが、現代における「自由」論の様々な混乱の一つの理由となっている。その典型が「消極的自由」の概念だ。

バーリンの有名な論文「二つの自由概念」以来「消極的自由」と「積極的自由」の区別は、現代における(政治)哲学的「自由」論の、一つの基本モデルとされてきた。

消極的自由とは、「~からの自由」を意味するとされる。これは「解放として自由」に近い。

積極的自由は、「~への自由」バーリンの言葉でいえば「自己支配」の自由のことだ。 これは「恣意としての自由」近い。したがって、この二つの自由の概念は、成り立たない。

リバタリアニズムの問題

現代において、「消極的 自由」 を 真正 な「 自由」 概念 と 位置づけ理論構成を行っているのは、いわゆるリバタリアニズム(自由至上主義)の理論家たちだ。

第三章 「自由」とは何か  

「自由」 は 今日、 多く の 疑念 に さらさ れ た 概念 だ。それゆえ現代思想は、今これに代わる理念を模索している。

「自由」の 本質 など あり 得 ない、 それ は 多義的 かつ 操作 可能 な 概念である、というのは、現代思想の常套句だ。しかし、言語の多義性・操作可能性は織り込み済みの前提であって、わたしたちはその上でなお、その本質を明らかにすることができる。

ヘーゲルの「自由」論

神を前提とした形而上学?
ヘーゲル哲学の基本的な構え、それは、人間は絶対精神(神)の精神を分有しており、これを歴史を通して実現していくものだ。

しかしこれは、検証不可能な物語というほかないものだ。わたし たち が 本当に 神 の 精神 を 分有 し て いる のか どうか、 いや、 そもそも絶対精神なるものがあるのかどうか、わたしたちは決して知りえないからだ。

超保守主義?

ヘーゲルの生きていた時代は、専制国家プロイセンにおいてである。したがって、検閲の目をかいくぐる必要がある。自由主義的な著作を公にすることは不可能であった。

公とならない、大学での講義録は、刊行された『法に哲学】君主権の礼賛も国家主義的な表現はない。以上から、ヘーゲルは、「自由」の哲学者と考えるべき。

「自由」の第一契機

意志は、いっさいを度外視する 絶対的 な 抽象 ない し 絶対的 な 普遍性 という、 無制限 な 無限 性 で あり、 自己 自身 の 純粋 な 思惟 である。

これは、こういうことだ。
「自由」の第一契機は、一切 の 束縛 から 解放 さ れ て いる こと に ある。 そこ において、 わたし たち は どんな 制限 からも解放されている。

「意志」の「意志」たるゆえんは、それがわたしたちの「自由」を「意志」するところにこそある。

「自由」の第二契機

「自由」たろうと欲する「意志」を持った「自我」は、その「自由」が、先に見たように一切の制限から解放にはないことに思いいたることになる。そこでそこで「 自我」 は、 実は 自身 が いかん ともしがたく「 規定」 さ れ て いる の だ という こと を、 自覚 せ ざるを 得 なく なる。そうヘーゲルはいうのだ。
 
わたしたちを規定する最も根本的なもの、それはわたしたちの「欲望」それ自体である。

さらに、こうした 欲望 の 複数 性 の ため に、 わたし たち が 絶対的 な 無 規定 性・解放 を 手 に 入れる こと は あり 得 ない の だ。

「自由」の本質

わたしたちは、確かに常に諸規定性の中に投げ入れられている。しかし その 上 で、 それでも なお「 規定 さ れ て い ない」 と 感じ られる 時 がある。わたしたちが「自由」を十全に実感するのは、その時だ。

諸規定性を自覚した上で、できるだけ納得して、さらにできるなら満足して、「生きたいように生きられている」という実感をもつことだ。

日常における「自由」の感度

たとえば、大きな目標を達成した時に感じる「自由」がそうである。そこにいたるまで、わたしは自らに多くの制限を課してきた。目標 達成の 欲望 それ 自体 が、 大きな 規定 性 でも あっ た。 しかし 努力 の甲斐 あっ て ついに 目標 を 達成 し た 時、 わたしはそうした制限・規定性を大きく乗り越えた、「自由」の実感を抱くことができるのだ。

恋愛における「自由」の感度

恋愛はわたしたちに、何か至上のものを見出せたというこの世ならぬ喜びを与え、そしてそのことで、日常の諸規定を瞬時に乗り越えさせるからだ。恋愛の本質、それは、「自己ロマンの投影」と、そしてこのロマン・憧れを現実世界に見出した喜び、さらにはこれを、手に入れられるかもしれない、手に入れられたいという喜びなのだ。

しかし、恋は、自らが彼岸において理想的に積み上げてきたロマンを、此岸において見出した喜びだ。それはつまり、本来であればこの世にはあり得なかったもの、すなわちある種の絶対的な規定性を乗り越えた喜びなのだ。

人間的欲望の本質は「自由」である

ヘーゲルの自由の本質の洞察の仕方は、わたしたちがいったいどのような時に「自由」を感じるのか、何をもって「自由」という言葉をわたしたちが口にするのか、ということにある。

ヘーゲルによれば、人間精神とは,「わたしという存在に対する意識を持ったものを、言う。そしてわたしが私自身を意識するのは、必ずその「欲望」を意識している時である。」という。

「幸福」の本質としての「自由」

幸福とは何か?
それは基本的には、わたしの「欲望」が叶うことである。そしてそれが人間的な「欲望」であればあるほどその「 欲望」 が 達成 さた時、 その 底 には 必ず「 自由」 の 実感 が ある。

確かに 「 幸福」 の 本質 は「 自由」 に ある が、しかしわたしがこれらの言葉を区別して使用している以上、「自由」の概念と「幸福」の概念には、やはり一定の相違がある。

それは、「自由」が基本的には人間的な欲望の達成において使われる言葉であるのに対して、「幸福」は、人間的な欲望の達成だけではなく、比較的動物的な欲望・快楽の達成においても使われるという点だ。

いずれにせよ、わたしたちは確かに「幸福」を求めるが、その本質は、それが人間的な「欲望」であればあるほど、「自由」にあるということができる。

もっとも、欲望が叶うこととはまた違った形の「幸福」もある。

わが子を抱いた時、わたしは世界の中心点が、わたしから子どもへと譲り渡されるのを感じる。それは「愛」の一つの究極形だが、それはまたある意味においては、わたしという存在への囚われからの完全な「自由」であるともいっていい。

そこにおいて、わたしはもはや何らの主体的欲望をも持っていない。いわば純粋な「自由」を、ただ感じているだけである。宗教的幸福や芸術的幸福も、ある意味ではこれに近い幸福といえるだろう。

何か崇高なもの、超越的なものと一体になったと感じた時、わたしたちは自我を超え出た、純粋な「自由」を感じることができるのだ。

感度としての「自由」

「自由」はある特定の状態のことではない。これは極めて重要なポイントだ。

というのも、「解放の状態」や「恣意の状態」に限らず、どれだけ「自由」といわれる状態に身を置いたとしても、わたしたちがその中で本当に「自由」を感じられるかどうかは、全くもって別の問題である。

自由の本質は特定の状態にではなく、わたしたちの感度にあるのだ。

「諸規定性における選択・決定可能性」の感度、これこそが「自由」の本質なのだ。

「自由」の感度とは、「自由」の実感や感覚と同じであり、これには必ず程度、すなわち度合いがある。どの程度の「自由」を求めるかは人それぞれだが、しかしいずれにせよ、わたしたちはこのような度合いをもった「自由」の実感、すなわち「自由」の感度を求めざるを得ない。

ヘーゲルの社会理論

承認のための、生死を賭する戦い
ヘーゲルは次のように言う。
わたしたちが本来的に持ってしまっている人間的「自由」への欲望は、まず「承認欲望」の形をとる。

わたしたちは承認を欲する者として、まず原初的には、わたしの「自由」を他者に絶対的に承認させようと努める。

これは「承認のための生死を賭する戦い」へと行き着かざるを得ない。

自らが「自由」な存在であることをより強く自覚する契機は、主よりもむしろ奴の方にある。

奴は、課せられた「労働」を通しても、自らの「自由」を深く自覚していくことになる。

「自由の相互承認」とは何か

ヘーゲルはいう
主が「自由」であるためには、実は奴の「承認」が不可欠なのだ。

自分は「自由」だとただナイーブに主張し合うのではなく、相手が「自由」な存在であるということ、「自由」を欲する存在であるということを、まずはお互いに承認し合うこと。

そしてその上で、互いの「自由」のあり方を調整し合うこと。これ以外に、凄惨 な 命 の 奪い合い を 終わらせ、わたしたちが「自由」を手に入れる道はない。

どうすれば「承認のための戦い」を終わらせ、自らの「自由」を獲得する ことができるのだろうか?

ヘーゲルによれば、それは、「自由の相互承認」の原理である。「自由の相互承認」は、わたしたちの人間が共存するための、そして一人ひとりができるだけ十全に「自由」になるための、社会の根本原理なのだ。

歴史の終わり?

当然のことながら、人間の歴史そのものが 停止 する こと は あり 得ない。 しかし、 もしも わたし たち が「 承認 の ため の 生死 を 賭した 戦い」 の 歴史 を 終わら せ たい ので あれ ば、そのための根本条件は、まず何をおいても「自由の相互承認」の原理を共有し、これに基づいて社会を作っていくほかないのだ。

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