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欲望の制御

東浩紀氏が「欲望を抑えつけるのではなく、欲望があるのを認めて、それを制御することが大事だ」みたいなことを、先日YouTubeで発言していた。

近代哲学では、キリスト教の精神である「欲望の抑圧」から逃れることを目指してきたはずなのに、ポストモダン以降になると、欲望を抱くこと自体が悪であるという道徳的なものに舞い戻った、と述べていた。

差別はダメ、レイシストはダメというリベラル系の民主党を背負っていたハリスが負けて、トランプの時代となると、欲望を制御するということがキーワードとなるというわけです。

トランプの時代になったからといって、欲望のままに振舞って良いかというとそうはならない、と断言した。

ただ、従来のリベラルが主張している理想主義的な発想である、「欲望を断罪する」的なものでは、これからの時代では立ち行かないというわけです。

一方、宮台真司氏も、大統領選挙結果に絡めて、同様のことをXに投稿しているので一部を引用します。

《ローティが踏まえるのは「法的処罰を恐れて人を殺さない社会」と「良心ゆえに人を殺さない社会」を(プラトンに倣って)区別したアリストテレス。アリストテレスは法の拒絶ではなく、良心を期待できない社会での(最低限の)法の必要を訴えた。そこには法か良心(道徳)かの二者択一はない。それを踏まえない、「法形成さえあれば」と考える「やってる感左翼」の頓馬さを、ローティは批判した。》

つまり、前述した、差別ダメやレイシストダメと法規制することを求めることで事足りるとするリベラル系の欺瞞を暴いているのです。

内田樹氏は、トランプ勝利に対して、下記のようにコメントしています。

東氏は、こういうタイプの言説が行き詰まってしまうのでは、とXに投稿していた。

そうなんです。内田氏は、国内の政界に対する発言は、的を得ているところは多々あるが、海外の案件については、このように、ずれた主張しているな、と常々感じていました。

ど素人が言うのは口幅ったいことですが、ニュースソースに偏りがあり、アメリカ大手メディアからのみということでしょうか。このことは、4年前の大統領選挙でのツイッター投稿時から感じていました。

と言いながらも、内田氏のファンでもあり、彼の著作もそこそこ読んでいますが、この点だけには、違和感があるのです。

今、「竹田青嗣著『欲望論』を読む」を投稿中ですが、竹田が記述している欲望とは何かの要点は下記の通りです。

「僕らは世界を、僕たちの欲望や関心に応じて認識している」

というものです。

例えば、目の前のグラスを飲み水を入れる容器として認識したばあい、それは何故かというと、喉が渇いていたとすると、喉をうるおしたいという欲望があったからとなる。だが、もし不意に誰かに襲われたときは、相手に反撃するための武器としても認識できるし、退屈なときは、転がしたり、放り投げたりする玩具としても認識できる。

この人は善人だという確信や信憑も同じで、客観的な善人はいないのであり、何らかの欲望や関心があるがゆえに、その人を善人だと認識することになる。

それゆえに、世界はわれわれの欲望に応じてーー欲望に相関してーーその姿を現すということになる。欲望があることは確かめることはできるが、何故そんな欲望を持ったのかと問われた途端に確かなことが言えなくなる。

ケーキを食べたいと思ったのは、過去に美味しいケーキを食べた経験があるかもしれない。こんな経験がなかったとしても、誰かに催眠術をかけられて洗脳されたからかもしれないし、親から受け継いだ遺伝子からかもしれないという具合に無数の原因が考えられるので、確かめ不可能となるのです。

だから、最初の話に戻ると、欲望を持つのは悪だとは言えないことになる。人間であるからには、欲望を持つことは避けられないがゆえに、それをいかに制御することかが大切となる。

釈迦となると、瞑想することによって、いかなる欲望、煩悩も断ち切る域に達することができるだろうが、凡人には無理なことなのだから、欲望をコント―ロールするしかないということになります。

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