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ジル・ドゥルーズ著『ベルクソニズム』読書メモ

ジル・ドゥルーズによるベルクソン論である『ベルクソニズム』の読書メモを作成しました。


第一章 方法としての直観

P8
僞の問題には二つの種類がある。まずは「実在しない問題」であり、それは問題を設定する言葉そのものが、「より多い」と「より少ない 」にかんする混乱を含んでいることで、定義される。ついで「巧く設定されていない問題」であり、この場合、それらが設定される言葉が、巧く分析されていない混合物を表象していることで定義される。

P9
僞の問題には、根本的な錯覚がある。それは、「真なるものの回顧的運動」なのであり、これによって、存在、秩序、実在者はそれら自身に先立つとみなされ、それらを構成する創造的な働きに先だつとみなされるのである。この運動において、存在、秩序、実在それ自体のイマージュが、もっとも原初に存在すると考えられる可能性、無秩序、非存在のなかに回顧的に投影されるからである。

P10〜11
ベルクソンがいうには、そこではより多いものがより少なくものととり違えられている。しかしベルクソンは、より少ないものがより多いものととり違えられているとのべるときもある。すなわち、ある行為の疑いはその行為に表面的にしか付与されるものではないが、実際には、半分の意志を証している。だから否認する行為とは、それが否定するものに付加されるのではなく、ただ否定する者の弱さを証するだけだというのである。

P12
簡単にいえば、より多いあるいはより少ないという言葉でものごとを考えるたびに、二つの秩序、二つの存在、二つの実在のあいだにある本性の差異がすでに無視されているのである。

P15
ベルクソンにおける純粋なものへの固執は、本性の差異を復活させることにこそあるといえるのだが、しかしただ本性において異なるのは傾向だけなのである。それゆえ、混合物を質的な傾向と質を付与された傾向に従って分割すること、つまりは運動と運動の方向として規定された持続や延長(たとえば持続ー収縮と物質ー弛緩)をその混合物が配合しているその仕方に従って分割するのが重要なのである。分割の方法としての直観は、超越論的な分析になお類似する点をもっている。

P17
物質と運動、しかも多かれ少なかれ複雑で、多かれ少なかれ遅れた運動しか問題にならないし、なりえない。問いのすべては、まさにそれゆえに、われわれはもう知覚をもたないかを知ることにある。実際のところ、脳の間隙のおかげで、ある存在者は、物質的な対象とそこから現れる行為から、自らに関心のあるものだけを保つことができる。だから、知覚とは、対象に何かを加えるものではなく、対象から何かを差しひくもの、自分に関心のないものすべてを差しひくものなのである。

P19
簡単にいえば、表象一般は本性的に異なる二つの方向に分割される。この二つの方向はそれぞれが純粋な現前であるのだが、それらがあるがままに表象されることはない。1つは知覚の方向であり、それはわれわれを一気に物質のなかに置く。もうひとつは記憶の方向であり、それはわれわれを一気に精神のなかに置く。

P23
ここから、第二の規則を補足する規則がえられる。すなわち、実在とは、自然の分節や本性の差異に従って切り分けられるものであるだけてはなく、それは理念的もしくは潜在的な同じ点に向かって収束する道に従って再び切り分けられるものである。

P24
だから、心と身体、物質と精神の問題が解かれるのは、ある極端な問題の締め直しによってのみであり、そこでベルクソンは、どのようにして対象性の線と主観性の線とが、外的観察の線と内的経験の線とが、そのさまざまなプロセスを経て、失語症の症例にまで収束しなければならないかを示すのである。

P25
第三の規則 問題を設定し、それを解くのに、空間ではなく時間との関連においておこなうこと。この規則は直観の「根本的意味」を与えるものである。すなわち直観は持続を前提とし、直観とは持続の言葉で思考することなのである。

P26
砂糖の塊を例にとってみよう。それは空間的な形像をもつが、この視角からわれわれがとらえるのは、砂糖とほかの事物のあいだにある程度の差異にしかすぎない。しかし砂糖の塊には持続があり、持続のリズムがあり、時間に内在して存在する仕方がある。これは、砂糖が溶けていく経過のなかで、少なくとも部分的に明らかになるし、それはどれほどこの砂糖が、ほかの事物のみならず、なによりもとりわけ自己自身と本性的に異なるかを示すような、事物の本質と実体と一体をなすこの変質こそが、われわれがそれを持続の言葉で思考するときに把握するものなのである。

P29
混合した「宗教」を、静的な宗教と動的な宗教との二つの方向に分割しながら、ベルクソンはつぎのようにつけ加える。ある特定の視点にたてば、「本当は根源的な本性の差異があるところに、一連の移行や程度の差異のようなものしかみいださないことになる」。

P31
つまり、直観はまさに、その三つの(もしくは五つの)規則とともに方法を形成する。それは本質的に問題提起的な方法であり(僞の問題を批判し、真理をつくりだす)、分化させる方法であり、(切り分けと交叉)、時間化する方法なのである(持続の用語で思考すること)。しかし、直観はどのように持続を前提とするのか、逆に直観が、存在や知の観点から、持続をあらたに拡張させるのはどのようにしてなのだろうか。それを規定しなければならない。

第二章 直授与件としての持続

   P33
『意識に直接与えられたものについての試論』(以下『試論』 や 『創造的進化』の最初の数ペー ジでのべられるような、心理的経験としての持続の記述が既知のものであると想定しよう。 そこでは「移行」や「変化」、あるいは生成が問題とされているのだが、それは持続する生成で あり、実体そのものである変化なのである。ベルクソンが、持続の根本的な性質である連続性 と異質性とを両立させるのに何の困難さも感じていないことに着目すべきであろう。

とはいえ、 このように定義された持続は、たんなる生きられた経験ではない。 それはまた、拡張され、乗 り越えられさえした経験であり、すでに経験の条件なのである。というのも、経験が与えるも のは、つねに空間と持続との混合物であるのだから。純粋持続はわれわれに、外部をもたない 純粋に内的な起を提示する。 他方、空間が提示するのは、起き外部性である(実際には、 過去の記憶、すなわち空間のなかで生じたことの追憶は、すでに持続する精神を含んでいるであろうが)。

第三章 潜在的共存としての記憶 

 P51
持続とは本質的に記憶であり、意識であり、自由である、持続が、意識と自由であるのは、それがまずは記憶だからである。

P53
主観性が持つ五つの意味、あるいは五つの様相を区分することになる。
(1)欲求としての主観性 否定性の契機
(2)脳としての主観性 問題と不確定性の契機
(3)情動としての主観性 痛みの契機
(4)追憶としての記憶 記憶の第一の様相
(5)収縮としての主観性 記憶の第二の様相

P57
きわめて厳密にいえば、心理的なものとは現在のことである。現在のみが「心理的」なのである。しかし、過去とは、純粋な存在論なのであり、純粋追憶は存在論的な意味しかもたない。

P60
実のところ、過去は二つの現在、すなわち、かってあった古い現在と、それとの関係でいえば古い現在が過去となる現勢的な現在とのあいだに挟まれているようにわれわれには感じられる。ここから二つの誤った信念が現れる。一方で、過去というものは、それがかっては現在であったあとにのみ構成されるとわれわれは信じている。他方で、過去は、いまや自身がその過去となるようなあらたな現在によって、いわば再構成されると信じている。これら二重の錯覚は、記憶についての生理学的・心理学的なあらゆる理論の中核をなしている。

P61
もし、任意の現在が、現在であったと同時に過去であったのでないならば、どのようにしてそれが過去になる(=過ぎ去る)のだろうか。過去は、それがかつて現在であったと同時に、始めから構成されていたのでないならば、けっして構成されることはないだろう。ここには時間の根本的な位相ともいえるもの、記憶のもっとも深いパラドックスがある。過去とは、それがかってあった現在と「同時間的」なのである。

P62
過去は、それがかつてそれであった現在と共存するだけではない。そればかりか、過去は自らのうちに保存されるものであるのだから(これに対して、現在は過ぎ去る)ーーーそれぞれの現在と共存するのはまさに、過去のまったきすべて、全体、われわれの過去すべてなのである。

P64~65
というのも、時間の本質についての唯一にして同じ錯覚、巧く分析されていない同じ混合物のせいで、われわれはつぎのことを信じてしまうからである。すなわち、われわれは過去を現在によって再構成できる、われわれは過去から現在へと漸進的に移行する、過去と現在は前であるか後であるかによって区分される、精神は(水準の変化、真なる飛躍やシステムの修正によってではなく)構成要素をつけ加えることで機能するといったことである。

P69
したがって、それを通じて追憶が現勢化する意識の平面と、つねに潜在的な追憶の状態がそれに応じて変化する過去の地帯、断面、水準を混同してはならないのである。つまり必要なのは、あらゆる水準が、収縮しているかあるいは弛緩した状態で潜在的に共存する、存在論的で内包的な収縮と、それぞれの水準にある追憶が(いかに弛緩したものであれ)現勢化し、イマージュなるために経由しなければならない心理的で並進運動的な収縮とを区別することなのである。

P77
存在論的な無意識に対応するのは、純粋追憶であり、それは潜在的で、非受動的で、動きのない、即時的な追憶である。これに対し、心理的な無意識があらわしているのは、現勢化されつつある追憶の運動である。(中略)

はっきりと異なるこれら二つの無意識についての二つの記述にあいだには、いかなる矛盾もない。、さらにいえば、『物質と記憶』全体が、この二つの、無意識のあいだを動いているのであり、それにともなう帰結については、さらに検討されなければならない。

第四章 持続は一なのか多なのか 

P79
ベルクソンの方法は二つの主要な様相を示していた。そのひとつは2元論の様相であり、もうひとつは一元論の様相である。それゆえ、まずは、「経験の転回点」を超えて、分岐する線や本性の差異をたどってゆかなければならず、ついでさらなる向かう側において、これらの線が収束する線を再びみいだし、あらたな一元論の権利を復元しなければならない。

P80
彼は、さらにもっと重要な存在論的命題をも提示している。すなわち、もし過去がそれ自身の現在と共存し、過去がさまざまな収縮の水準で自己と共存するならば、現在そのものとは過去のもっとも収縮した水準にすぎないことをわれわれは認めるべきたというのである。

P84
ベルクソンは、直観という方法を自賛するのである。ただ直観だけが、「観念論とともに実在論も乗り越えさせ、われわれより下位の対象と上位の対象の実在を、しかしながら、ある意味ではわれわれに内在する対象の実在を肯定し、それらを困難なく共存させることができる」からだ。

P86
ベルクソンは『試論』以来、持続を、つまりは実在的な時間を「多様体」として定義していたことを忘れてしまったのだろうか。何が生じたのか。おそらくは、相対性理論との対決である。この対決がベルクソンにとって不可避であったのは、相対性理論も独自の立場から、空間や時間にかんして、拡張と収縮、緊張と膨張のような概念を援用しているからである。とはいえ、この対決はことさら不意に生じたわけではない。この対決は、多様体という根本的な概念によって準備されていたのであって、それはアインシュタインがリーマンから採用し、ベルクソンが独自の立場から『試論』のなかでもちいていた観念であったからだ。

第五章 分化の運動としてのエラン・ヴィタール 

P101
われわれがいまとりくんでいる問題はつぎのものである。二元論から一元論へ、本性の差異の観念から弛緩と収縮という観念の移行をはたしたベルクソンは、彼の哲学のなかに、かつて告発したものをすべて再導入したのではないかーーーつまり『試論』でかくも批判されていた、程度の差異もしくは強度の差異を再導入したのではないか。ベルクソンは、過去と現在は本性上異なり、現在とは過去のもっとも収縮した水準もしくは程度にすぎないと繰り返し述べている。この二つの命題をどう両立させればよいのか。もはや一元論の問題ではない。

P104
この全体は部分をもち、この一者は数をもつのであるが、それはただひたすら潜勢状態にある。したがってベルクソンが、潜在的な共存、唯一の時間、単一の全体性における異なる強度や程度についてのべるとき、矛盾が生じているわけではない。

P107
しかしそれらは、同じ状態の二元論ではまったくないし、同じ分割でもまったくない。第一のタイプにおいてそれは、反省的な二元論であり、これは不純な混合物から生じてくる。これが方法の第一の契機を構成する。〔これに対し〕第二のタイプにおいてそれは、単一のもの、あるいは純粋なものの分化に由来する発生的な二元論である。

P109
ある生物学者が、有機体の潜在性や潜勢態の観念をひきあいにだしながら、とはいえこうした潜勢態が現勢化されるのは、その能力全体のたんなる限定であると断言するとき、彼が潜在的なものと可能的なものと混同におちいっていることは明確である。というのも、現勢化するにあたって、潜在的なものは除去や限定によってことを進めることはできず、自らに固有の現勢化の線を積極的な行為のなかで創造しなくてはならないからである。その理由は単純である。実在的なものは、それが実現する可能的なもののイマージュと類似であるに対して、現勢的なものは、反対に、それが具現化する潜在的なものに類似してはいないからである。

P111
持続が物質と生命に分割され、ついで生命が植物と動物に分割されるとき、さまざまな収縮の水準が現勢化するのだが、それらは潜在的なものにとどまるかぎりで共存していたとわれわれは考えなければならない。

P125
唯一情動だけが、知性と直観のいずれとも本性上異なっている。エゴイズムが情動を与えることを誰も否定しないし、さらにいえば、社会的圧力が仮構作用をもつあらゆる幻想をもちいて情動を与えることを誰も否定しない。しかしこの二つのケースにおいても、情動はつねに、それが依拠するとみなされる表象に結びつけられている。だから誰もが情動と表象の混合物のなかにはまりこんでおり、情動が力能であることを理解しないし、情動の本性を純粋なエレメントとして理解することがない。

P127
創造的情動とは、知性における直観の発生である。人間が開かれた創造的な全体性に到達するのは、したがって、観照することによってではなく、むしろ行動すること、創造することによってである。哲学そのものには、なお多くの観照が前提されている。〔哲学においては〕あたかも知性はすでに情動に、したがって直観に侵食されていたかのようにすべてはなされるが、この情動に即して創造をするには充分ではない。それゆえ、哲学者よりもより遠くへ向かう偉大なる魂は、芸術家の魂や神秘家の魂なのである。(少なくともベルクソンは、キリスト教の神秘主義的信仰を、溢れかえる活動性そのもの、行為や創造として描いている)

P128
持続とは本質的に、潜在的な多様体(本性において異なるもの)を定義するようにわれわれにはおもわれる。記憶はこのとき、この多様体のなかで、すなわちこの潜在性のなかで共存するあらゆる差異の程度として現れた。最後にエラン・ヴィタールが指示するのは、程度に対応する分化の線に従った、この潜在的なものの現勢化であるーーーそれは人間という明確な線にまで至り、そこにおいてエラン・ヴィタールは自己意識を獲得することになるのである。

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