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竹田青嗣著『欲望』第Ⅰ巻「意味」の原理論を読む(2)


第一部 存在と認識

第一章 哲学の問い

第一節 世界理説の起源

一 言葉と普遍暴力

人間社会における普遍暴力と普遍闘争は、17世紀、ホッブスによって人間社会の基礎原理として哲学的に自覚されたが(「万人の万人に対する戦争」)、これを竹田は「普遍闘争原理」と呼んだ。

普遍暴力の原理。人間社会におけるあらゆる矛盾の源泉であり、人類はまだこの普遍暴力の抑制という根本の課題を、完全には達成していない。
共同体間の普遍闘争の発生以来(一般的には農耕定住による食料備蓄以来)、人間は最大の努力を注いでこの重大な災禍を抑止すべく試みてきた。
贈与、交換(交易)、婚姻、宗旨統合など(これらはすべて「言語ゲーム」なしにはありえない)。しかしこれらのあらゆる約定的努力も、暴力原理を凌駕しえなかった。

力をもったものどうしの普遍闘争はほぼ例外なく、最強者支配という「覇権の原理」に帰結する。すなわち、古代大帝国の類型、専制的絶対支配の形態へと帰結する。

竹田青嗣. 欲望論 第1巻「意味」の原理論 (p.37). 講談社. Kindle 版.

宗教は、世界の意味と価値の共有を推し進めて人びとの世界観念を統合し、そのことで共同体内の「暴力原理」に対抗する。
世界の秩序の意味と価値をただ一つの理説へと収斂すること、そのことで普遍暴力を抑止すること。言語によって世界の絶対的意味を描き出し、そのことで普遍暴力の原理に対抗すること。

二 哲学の起源

紀元前6世紀前後、世界の東西に文明において哲学的思考が始発した。
インドでは、哲学は伝統的な宗教的説話体系の再解釈として姿を現わした。
輪廻、業、解脱、という生命の転生説、世界の根本原理としてのブラフマンとアートマンといったインドの宗教的世界観の中心観念は、ここではまだそのまま保持されている。

だが、哲学の思考は世界の始元性という観念に焦点化され、伝統的な宗教説話に新しい想像力と合理的な因果性の観念をつけ加えようとする努力が見出される。

努力は見出されとしつつも、やはり、インド 哲学 では 動機 において も 理 説 において も 宗教 的 世界観 が 圧倒的 優位 を 保ち、 その 中心 問題 は 人間 の 救済、 輪廻からの 解脱 の 方途 で あり、 この 観念 をめぐって 聖なる もの の 中心 観念 が 転変 する。

一方、ギリシャ 哲学 では、 世界 理 説 は 始発 の 場所で すでに 宗教 的 世界観 からの 離脱 を 示し て いる。この こと は もちろん、 ただちに 西洋 的 思考 の 合理性 や 優位 性 といったこと を 意味 する わけ では ない、と述べる。

蛇足となりますが、過去にブラフマン(梵)とアートマン(我)を説明した記事(梵我一如)を再掲します。

この「梵我一如」という考え方を調べてみると、一部ではあるが、現象学との類似性を感じた。竹田氏の著作を読んだ限りでは、こうした言説があるのを見たことがないので、これから述べるのは、あくまで私見です。

「梵我一如」の梵(ブラフマン:宇宙を成り立たせる原理)と我(アートマン:個人を成り立たせる原理)は同一であるという考え方です。

はぁ?ですね。なんだか、スピリチュアルくさい。だが、インド哲学は宗教色が強いとはいえ、論理的な面もあります。

我(アートマン)とは「認識主体」、つまり「意識体験」(クオリア)と言い換えられます。

これは、甘い物を口にしたときは「甘いなぁ~」と、そして冷たい物には「冷たっ」と、リンゴを見たときは「ありありとした赤色」のように、五官で認識すること、これが我であるというのです。

対象を我に取り込むのであるから、現象学的といえる。しかも対象を空ずる、すなわち対象をありのままに捉えるわけですから、これは現象学でいう対象を「事象そのまま」に捉えることと類似というよりも、同一ではないかと思った。

次に、梵(ブラフマン)とは何かですが、これについても論理的な説明はされています。

梵(ブラフマン)は宇宙です。『宇宙』自体が拡大し続けた結果としての森羅万象が存在するということです。この宇宙拡大説はビッグバンとして、現代物理科学や天文科学でも共有されている。

ビッグバンとは、素粒子以下に圧縮された物質の火の玉が、猛烈に爆発して膨張していくという説である。地球の生命体はタンパク質と核酸からできているという定説があり、どのようにしてできたのかは謎ではあるが、いずれにしても宇宙の膨張過程で誕生したのであるから、宇宙と我は同質(一体)であるという理説は成り立つ。

インド哲学的には、ここから、縁起という概念が生まれ、人間の救済、輪廻、悟りという宗教的な理念へと向かっていくために、省きます。
以上です。

中国では、インドのヴェーダに当たるような統一的かつ強力な神話的説話は存在せず、老荘思想にわずかに始元的な世界理説がうかがえる。
しかし、中国の哲学的思考では、世界の始元的理説としての哲学がそれ以上の豊かな展開をもった形跡はない。

三 多項的世界体系について 省略

四 ナーガールジュナ

ナーガールジュナの哲学は、宗教的救済としてのブッダの教説の再興という動機に強く支えられており、インド哲学の全体を認識論的問題意識へと向かわせるまでには至らなかった。そのことは中観派哲学の展開がよく示している。中観派と唯識派の対立は認識論的な問題意識の展開へは進まなかった。

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