ジル・ドゥルーズ著『ザッヘル=マゾッホ紹介』(12) 読書メモ

法、ユーモア、アイロニー①

法 の 古典的 な イメージ が 存在 し て いる。プラトンがこのイメージに完璧な表現を与え、それがキリスト教世界で幅をきかせてきた。

このイメージは、原理の観点と帰結の観点から、法の二重の受胎を規定している。

原理についていうなら、法は第一のものではない。法は顕現を譲渡された二次的な権力にすぎず、善といるより高次の原理に依存している。

人間が善とはなにかを知っていたなら、あるいはそれに合致する術を知っていたなら、法など必要なかっただろう。

法とは、多かれ少なかれ善から見放された世界における、善の代理物にすぎないのだ。

帰結の観点からするなら、法に服従することが最善であり、最善とは善の似姿なのである。
ジル・ドゥルーズ. ザッヘル=マゾッホ紹介 冷淡なものと残酷なもの (河出文庫) (p.91).

この イメージ は、 一見 する と あまりに 順応 主義 的 な ものとおもえるが、にもかかわらず政治哲学の条件を構成するアイロニーとユーモアを、すなわち、法の階梯における上部と下部という反省=反射の二重の縁をふくんでいる。

法から、法を基礎づけるのに必要不可欠な原理としての絶対的な善へと遡行する歩みのなかには、多くのアイロニーが存在している。

法から、相対的な最善へと、我々が法に服従するよう説得するのに必要な最善へと下降する歩みのなかには、多くのユーモアが存在している。

これはつまり、法の概念は力づくでなければ、じぶんだけで立っていることができず、より高次の原理と、より遠くまで及ぶ帰結とを、理念的に必要とすることだ。

おそらくだからこそ、『パイドン』の謎めいたテクストによるなら、ソクラテスの死に立ち会う弟子たちは笑わずにはいられないのである。

アイロニーとユーモアは、本質的に、法思想を形成する。法との県連でアイロニーとユーモアは行使され、おのれの意味を見いだすのである。

アイロニーとは、無限に高次の善によって法の基礎付けを行おうとする思考の戯れであり、ユーモアとは、無限により公正な最善によって法の承認を行おうとする遡行の戯れなのである。

【私見:哲学の祖といわれているソクラテスの処刑についてプラトンが描く『パイドン』をジル・ドゥルーズは、それこそ、アイロニーを込めて語っていることに興味を抱いた。

言われてみれば、ソクラテスの処刑は、現在の目で見れば、あまりに唐突であり、滑稽ですらある。

表面上は、民主制のアテナイにおいて、ギリシャの神々を信じないで、若者たちを、煽動して堕落させたという訴えによって起こされた裁判によって処刑判決が下されたというものであった。

えっ!何、こんなことで、処刑の判決にまでなるのかい、そして、弟子たちが、処刑を逃れるための方策を全て、拒絶して、甘んじて、処刑を受入れるということであるから、正気の沙汰ではない、何たる愚かなことを、と嘆くのが普通だろう。

いや、ソクラテスは、「生きるとは何か」、「ただ生きるだけではなく、正しく生きるのだ」と真剣に考えているので、生きることに執着していない。だから、処刑されることを問題にはしていなのだ!という解説をこれまで見てきた。

こうした視点をずらして、ジル・ドゥルーズは、法という概念そのものを、アイロニーであり、ユーモアであると述べており、ソクラテスの処刑は、確かに、滑稽ですらあるということは、理解できる。】
ジル・ドゥルーズ. ザッヘル=マゾッホ紹介 冷淡なものと残酷なもの (河出文庫) (p.92).


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