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ジル・ドゥルーズ& フェリックス・ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』読書メモ(6)
4 1923年11月20日ーー言語学の公準
IV 言語は主要な、あるいはスタンダードな言語という条件においてしか、科学的に研究されないだろう
・誰もが、一つの言語は変化する非等質な現実であることを知っているのだが、科学的研究を可能にするために、等質的なシステムを抽出しようとする言語学者たちの要求は何を意味しているのだろうか。
諸変数から定数の集まりを取り出し、あるいは諸変数のあいだに定常的な関係を定めることが問題なのだ(・・・・)。しかし言語を研究対象とする科学的モデルは、それによって言語が等質化され、中心化され、標準化されるような政治的モデル、メジャーなまたは支配的な権力の言語と一体になっている。
言語学者は科学を、他の何ものでもなく科学を主張するかもしれないが、科学の秩序が他の秩序の要求を保証してしまうことはよくあることなのだ。
・「高い」と「低い」、メジャーとマイナーという、二種類の言語を区別しなければならないだろうか。一方はまさに定数の権力によって、他方は変化の能力によって定義されるだろう。われわれは、単にメジャー言語の統一性を方言の多様性に対立させようとは思はない。
むしろそれぞれの方言こそ、移行や変化の帯域をそなえているのであり、しかも、マイナー言語のおのおのが、方言に固有の変化の帯域をそなえているのだ。
・一つの言語の世界的帝国主義を、それが他の言語にもたらす頽廃を告発することによって批判しても無駄である(・・・・)。なぜなら、英語あるいは米語のような言語は世界のあらゆる少数民族によって、実に多様な変化によって影響されなければ、世界的にメジャーであることはできないからだ。