ジル・ドゥルーズ& フェリックス・ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』 読書メモ(9)
7 零年ーーー顔貌性
・顔 は、 シニフィアン の 壁 を 構成 する もの でも 主体性 の ブラック・ホール を 構成 する ものでもない。顔は、少なくとも具体的な顔は、ホワイト・ウォールの上にぼんやりと描かれ始める。ブラック・ホールの中にぼんやりと現れ始める。
映画が顔をクローズ・アップをするときには、まるで二つの極があるようだ。顔の上に光を反射させるか、反対に、顔の陰影を強調して「容赦なく暗がりの中に」沈めてしまうかするのだ。
ある心理学者は、顔は、「形も大きさもないぼんやりとした明るさのさまざまな変化」に始まって結晶化する知覚対象だと言っていた。暗示的な白さ、捕獲する穴、顔。大きさのないブラック・ホールと形のないホワイト・ウォールが、まず最初にあるようだ。
・ブラック・ホールーホワイト・ウォールのシステムがすでに顔なのではなく、要素の変形可能な組み合わせによってまさに抽象機械が顔を生産するといえよう。ただし抽象機械は、それが生産するもの、生産しようとするものに似ているなどと考えてはならない。
抽象 機械 は 思いがけない とき に 出現 する。 入眠、 朦朧状態、 幻覚、 物理 の 面白い 実験 といった機会に応じて。
・頭部 は 身体 に 含ま れ て いる が、 顔 は 違う。 顔 とは 一つ の 表面 で ある ─ ─ 特徴、線、顔の皺、長かったり四角や三角だったりする顔、たとえ一定の体積を覆い、包み込んでいても、たとえもはや穴でしかない体腔を囲み、縁取っていても、やはり顔とは一枚の地図である。
・顔 は まさに 抽象 機械 に 依存 し て いる から こそ、 頭部を覆うことにはとどまらず、身体の他の部分や、必要に応じて、いかなる相似点もない事物にまでも働きかける。
こうして、顔や顔貌化を産み出すこの機械が作動するのはどんな状況においてであるかということが問題となるのだ。
・宮廷 愛 小説 の 騎士 の する こと と いえ ば、 自分 の 名前、 自分 が し て いる こと、 人 が 自分 に言ったことを忘れることであり、どこに行くのか、誰に話しているのかも知らずに、たえず絶対的脱領土化の線を引き、またたえず道を失って立ち止まりブラック・ホールに転落することである。