ジル・ドゥルーズ& フェリックス・ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』 読書メモ(16)
10 1730年ーーー強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること・・・・①
・ダーウィン自身、類縁という進化論主題と、差異や相似の総和および程度という博物学的主題とは、まったく 別個 の もの だ として、 この 両者 を 峻別 し て いる。 類縁 上 は 同じ 祖先 に さかのぼる 動物群でも、その祖先との関係において、実にさまざまな差異の度合いを呈することはありうるからである。
そして博物学は、何よりもまず差異の総和と差異の程度をあつかうからこそ、進歩や退行、連続性や大規模な断絶を考えることができても、「進化」そのもの、つまりその変化の度合が外的条件に左右されるような系統の可能性考えることはできなかったのである。
・系列の観点からすると、大自然は全存在の連鎖として とらえ られる。 そこ では 進歩 の 方向 で、 あるいは 退行 の 方向 で、 存在 相互 が 模倣 し あい、 やがて は 段階 的 相似 にもとづいて全存在が模倣の対象とする最高位の項、つまり系列のモデル〔模範〕にも存立理由にもなる神の項に向かっていくのである。
構造の観点からすると、大自然は、もはや模倣すべきものを一切もたない合わせ鏡のような〈模倣原理〉としてとらえられる。模倣原理そのものが、秩序立った差異にもとづき、あらゆる存在によって模倣されるモデルとなるからだ・・・・・(こうした模倣的、あるいは模倣論的な自然観があるからこそ、進化と生産にもとづく考え方ができなったのである。)
・「 系列 と 構造」 という 二重 の 観念 は、 ある 時点 で 一つ の 閾 を 越え て 科学 の 水準 に 達し た とは いえ、 科学 に 由来するものではないし、科学の領域だけにとどまるものでもない。別の学問領域に移っていくこともあり、たとえば人文科学を活気づけ、夢や神話や組織体の研究に役立つこともあるのだ。
・生成 変化 は 常に 系統 とは 別 の 序列 に 属し て いる。 生成 変化 の 序列 は〈 同盟〔 縁組〕〉なのである。進化にも真の生成変化が含まれるとしたら、それは等級と界を異にし、いかなる系統的つながりももたないさまざまな存在を巻き込む広大な共生の領域の話である。
・生成変化は逆行的であり、逆行は創造的だ。退行 する という こと は、 分化 の 度合 が 最も 低い ところ に 向かう 運動 で ある。 だ が 逆行 する という こと は、与えられた複数の項の「あいだ」を、特定可能な関係にしたがって、みずからの線に沿って逃走するようなブロックをなすことなのだ。
・なること(生成変)は一個のリゾームで あっ て、 分類 用 の 樹形 図 でも なけれ ば、 系統樹 でも ない。〈 なる〉 とは、 決して 模倣 する こと では ない し、同一化することでもない。また退行したり進歩したりすることでもない。照応し、照応関係をうちたてるのとも違う。生産するのとも違う。系統を生産し、系統による生産をおもなっても、それでは〈なる〉ことにはならないのだ。